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『一回も世論調査されたことがないのに世論とは一体』の回

ときおりニュースで発表される世論調査の結果。アンケートによって様々な統計が取られている。取られているんだけれども、自分は人生で1回もこの世論調査を受けたことがない。自分の意見が一度も反映されていない世論とは・・・。まさかわたしは、わたしが根差していると思っている社会的集団から弾かれているのか? いや、その前にそもそもわたしはどこに所属しているつもりになっているのか。これまで実態の見えない世論なるものが本当に世論であるかのように、いや、世論であると意識的に信じることも疑うこともせず、ただただ何も考えずに受け入れて生きてきた。しかし、この人生の主人公はわたしであるはずなのに、人生において一度も世論調査を受けたことがないことから、どうやら世界の方はそうは思っていないようだ。そんなことに気づいてから、少しずつ日常におかしなことが起き始めた。夕焼けの色がやたらと紫がかっていることがあったり、何気なく時計を見るたびに秒針がちょうどゼロを指していたり、エビフライの海老の両端がどちらも頭になっていたり。どうやら世界がおかしくなってしまったのかもしれない。そんなことを思い始めてから、余計に世界の様々な異変に気づけるようになった。なんだ、世界は本当はこんなにもおかしかったんだ。いや、むしろこれが世界の本当の姿なのか。

わたしたちは無意識に嘘をつきながら生きている。嘘をつくのは、他人に思われたい理想の自分の姿があるから。自分のことを自分で正常と思いたいのではなく、自分のことを他人に正常と思われたいのだ。夕日がオレンジ色に感じるのは、自分は夕日がオレンジ色だと感じる人間であると自分以外の人に認めてもらいたいからだ。ただ、世界の様々な異変に気付くようになったのは、誰かに自分は変わった人間なんだと思われたいと考え始めたからかもしれない。『なんだ、世界は本当はこんなにもおかしかったんだ。いや、むしろこれが世界の本当の姿なのか』という風にわたしは気づいている、意識的であると誰かに分かってほしいからなのかもしれない。

わたしはどこまで行っても本当のわたしに出会うことはできない。世論調査の結果を簡単に受け入れてしまう世間の中のわたしと、世界の本当の姿はもっと違うんだと主張し世間から離れようとするわたし。しかし、夕日が紫色に見えたあの最初の瞬間だけは、そのどちらのわたしでもなかったような気がする。確かにあの瞬間だけは。どれが本当のわたしの姿なのだろうか。ただ、よく考えてみると、どの瞬間のわたしもきっと本当のわたしの姿なのだろうと思う。人間は常に変わり続けており、ひとつのところにとどまることはない。世間に馴染みたい自分と世間から距離をとりたい自分との2つの間を、振幅を、そして速度を変えながら振り子のように移り変わり続けている。その証拠に、今日はオレンジ色の夕日を見て安堵の気持ちを抱いている。それもしばらくすればまた、夕日がオレンジ色に見えるような普通の感覚をもつ世界から距離を置きたいと思い始めるのだろう。

でも、世界にはきっと夕日の色がずっと紫色に見えている人がいる。そんな人の目には、わたしには見えない世界の姿が映っているのかもしれず、それはとても素敵な世界なのかもしれない。しかしそれ以上に、そんな人たちは自分の見えている世界と実態のない普通の世界との乖離に、わたし以上に苦しめられていることもあるのだろう。2つの世界を行ったり来たりするのは、世間と自分との距離のバランスを取るためには不可欠なことのようにも思えてくる。世間と同じ見え方の世界に生きるのと、自分にしか見えない世界で生きるのは、どちらが正解で幸せという話ではない。自分の信じる、生きていく世界は自分で決めるしかないのだ。

なんてことを考え出すと、先ほどはどの瞬間の自分も本当の自分だと書いたにも関わらず、一体、本当の自分とはなんなんだろうと堂々巡りしてしまう。とりあえず一度くらいは世論調査を受けてみたい。不審に思ってすんなり受けないかもしれないけれど。


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