緊張する人、しない人②

”ふたりきりでも緊張しない人”=”計画段階だろうが待ち合わせ5分前を迎えようが全くソワソワしない人”、とでも定義して、一体全体どんな人が当てはまるのか考えてみよう。

(研究協力:脳内に浮かんでは消えた友人のみなさま)


仮説①:同性

すぐ思いついたけど説得力なさすぎて一瞬で却下した。

同性だろうがなんだろうが緊張するものは緊張する。
(何話そう....何話そう.........何を話せばいいんだ........)ってなっちゃう。詰まると視線が勝手に泳ぎ、(まつ毛長....)とか(こういう服似合う人いいな~~)とか(細)とかとかそんな感じのことを考え出してしまうのも、同性相手の悪いところだ。時と場合と性別を間違えたらセクハラ(と、書くことで「自覚はありますよ~」みたく予防線張ってるのもやばい)。そしてそんな自分にまたばつが悪くなり、ひとり不必要に追い詰められるのだ。

だけどまあ、初回が案外いい感じで終わると2回目以降一切緊張しなくなるのも同性相手の特徴だから、この説はある意味正解っちゃ正解なのかもしれない........


が、それを認めたくない。

緊張度合いに性差が関係していることを認めてしまうと......説明が難しいが、自分が女性であることをまず前提として、相手のことを男性/女性として意識的に捉えているとも暗に認めることになる。

それってすごく生々しいなと思うのだ。


例として適切かどうかわからないが、私は自分の血を見るのが苦手だ。

採血なり不慮のケガなり、とにかく血を見ると、急に自分が「生き物である」という実感が沸き起こってきて気持ち悪くなってしまう。血そのものが、というよりも、その実感が気持ち悪い。
だから生理だって最悪だ。生理は私にとって、妊娠というメカニズムが体に組み込まれているということ、もとい、自分がイチ生物、「一個体」であるという事実を強制的にリマインドされるイベントでしかないのである。いやほんと最悪だからねあれ、ダメ押しみたいに血まで見せられるし。わかったもうわかったんで勘弁してください。


そんなこんなで(たぶん読んでる人の半分にも伝わらなかっただろうけど)、
私は私だしあの人はあの人だし、そこに突然個性を取っ払った根本的な役割を露わにされるとなんというかギョッとすることがあるので、私は自分のも他人のも、生/性的な側面をあまり見たくない。

だからもしこの仮説 ― 話が逸れすぎてお忘れでしょうが、「『性別が同じである』というのは”ふたりきりでも緊張しない人”の条件のひとつなのではないか」という考え方 ― は、たとえ百歩譲って真理だったにせよそう簡単には認めたくないのである。前提条件を気に入っていないので。
まあソワソワする女の子はいつになってもソワソワするんだから実際全然真理じゃないけど、でも大人だから多少歩み寄って言うならば、雪解けの速さは多少違うかもしれないし数分後には早くも「あっ、いけんじゃん?」ってなる率は若干高いかもね。かも、の話です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?