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『アフターダーク』移動する視点と膜

村上春樹『アフターダーク』講談社 2004年

主人公はマリ、19歳。姉のエリはほぼ一日中深い眠りについたまま。姉のことが気になって眠れない夜、マリはファミレスで深夜を過ごす。高橋に声をかけられ、そのつながりでラブホで働く人たちと知り合う。合間を置いて、エリの眠りの描写。午後11時56分から午前6時52分過ぎまでの物語。

私たち読者の視点が、俯瞰的に語られる。いわゆるメタフィクション、メタ認知(Metacognition)の記述が挟まれる。この作品、人と人が織りなす物語よりも、「私たち」の視点の扱い、エリの深い眠りとその部屋の不思議さ、の方が魅力的である。以下、その部分を引こう。

エリ

幼少期よりモデルとして活躍、多忙な日々を過ごすも、ある日不意に自室に閉じこもり深い眠りに入る。

彼女の眠りはそれほど純粋であり、完結的である。顔の筋肉ひとつ、まつげひとつ動かすわけでもない。(中略)いくら熟睡するにせよ、人はここまで奥深く眠りの領域に足を踏み入れはしない。ここまで全面的に意識を放棄することはない。

同書 p36

それほど深い眠りにありながら、生命維持はできているというファンタジー。彫像と人間をわずかに隔てるせまい領域で、彼女は眠っている。

テレビ画面がちらつくたびに、横顔にあたった光が揺れ、陰影が不可解な記号となって踊る。

同書 p73

エリの部屋にあるテレビの電源コードはコンセントから外されている。にもかかわらず、画面が白く輝きだす。テレビの向こうの世界からエリを見つめている目が、ある。

おそらくは、そこにあるはずの虚無のスペースを埋めるためのしるし・・・として。

同書 p127

エリが寝ているベッドは今や画面の中の世界へ。「私たち」がいる(いる?)こちら側には同じベットがしるしとして残されているだけ。向こうではマスクの男がエリを見つめている。しかし彼もやがて…

あるささやかな断片ともうひとつのささやかな断片が、無言のうちに呼応し、波紋が広がるように結びついていく。

同書 p155

エリの目覚めはもうすぐだ。

私たち

「私たち」とは、我々読者をメタフィジカルに表現したもの。小説の序盤、「私たち」は空から都市を俯瞰しながら降下する。やがてファミレスで本を読んでいる一人の女の子にフォーカスする。主人公のマリだ。

どうして彼女なのだろう? なぜほかの誰かではないのだろう?

『アフターダーク』p5

著者にそう問いかけられても戸惑うほかない。こうして読者は「私たち」という指示語との同一化を求められ、否応いやおうなく小説世界へと引き込まれる。

私たちはひとつの視線となって、彼女の姿を見ている。あるいは窃視している・・・・・・というべきかもしれない。

同書 p35

もはやこちら側にいる読者も逃れられない。読者も「目に見えない無名の侵入者」、つまりは共犯者となる。ならざるを得ない。
「カメラ」は読者の意志におかまいなく、丹念にその部屋の様子を映し出していく。知覚はあるが介入はしない。観察し、情報を得て、推測する。小説の筆者は音もなく後退し、そっと読者の背後に回る。

視線はとりあえずそのあいだ、ひとつに固定されている。含みのある沈黙が続く。しかしやがて、何か思い当たることがあったらしく、部屋の片隅にあるテレビに目をとめ、そちらに向かって接近していく。

同書 p39

このテレビが曲者だ。「私たち」と違い、テレビはエリの静謐な空間へ直接に介入を始める。画面には見知らぬ男が映し出され、エリが向こう側へ、「私たち」も画面をすり抜けて、そしてまたこちらへ。しかし本稿では、その奇妙さを甘んじて受け入れよう。おそらく答えは、ない。

受信アンテナが強風にあおられているように、画像は歪む。メッセージは寸断され、輪郭は痛め付けられて散逸する。カメラはその葛藤の一部始終を我々に伝える。

同書 p41

光と音が無遠慮にエリの部屋を侵していく。それでもエリの眠りは妨げられず、そのことに我々は安堵する。テレビに映った男の描写、顔は半透明のマスクに覆われている。

そのマスクには呪術性と機能性が等しく備わっている。それは古代から闇とともに伝えられたものでもあるし、また未来から光とともに送りこまれてきたものでもある。

同書 p71

すべては謎で、しかし確実に「ひとつの状況を作り出している。」彼が見つめているのは画面越しのエリなのだ。「私たち」はそのテレビに映った世界をもっと知りたいと思う。それはまもなく実行に移される。

決断さえすれば、そんなにむずかしいことではない。肉体を離れ、実態をあとに残し、質量を持たない観念的な視点となればいいのだ。そうすればどんな壁だって通り抜けることができる。どんな深淵でも飛び越すことができる。

同書 p153

これはたとえば、3つの粒子を使って量子状態を送る「量子テレポーテーション」だろうか。量子もつれ(量子エンタングルメント)を利用し量子的に世界を移動、テレビという古典的な通信を経て向こう側で実体化する。

整理してみよう。
・読者はすでに著者によって作中の「私たち」として化身された。
・「私たち」は感覚を持つカメラとなって、生き物のように情報を集める。
・エリは意識も感覚も深く眠っている。
・エリの部屋に電源の入っていないテレビがある。
・テレビには画面がある。
・画面の向こうに仮面の男がいる。
・男は半透明のマスクをしている。
・男はマスク越しにエリを見つめている。

私たち|カメラ|カメラの映像|エリの部屋|テレビ|テレビの画面|男のマスク|男(の目)

見ることの連鎖と、その合間に挟まった、膜(場面、画面、仮面)の存在。
見る/見られる、本当に見ているのは誰か、見られているのは誰か… 
このあと「私たち」とエリは、皮膜を行きつ戻りつすることになる。その船酔いのような不安定な揺れが、この作品の底に漂っている。


読者の視点を意図的に操りながら、眠る女性(彼女は見ていない)という相反する対象をめぐる世界。その独特な「視点」を支点として、この小説におけるシーソーのような揺らぎを感じてみるのも一興だろう。

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