『アフターダーク』移動する視点と膜
村上春樹『アフターダーク』講談社 2004年
主人公はマリ、19歳。姉のエリはほぼ一日中深い眠りについたまま。姉のことが気になって眠れない夜、マリはファミレスで深夜を過ごす。高橋に声をかけられ、そのつながりでラブホで働く人たちと知り合う。合間を置いて、エリの眠りの描写。午後11時56分から午前6時52分過ぎまでの物語。
私たち読者の視点が、俯瞰的に語られる。いわゆるメタフィクション、メタ認知(Metacognition)の記述が挟まれる。この作品、人と人が織りなす物語よりも、「私たち」の視点の扱い、エリの深い眠りとその部屋の不思議さ、の方が魅力的である。以下、その部分を引こう。
エリ
幼少期よりモデルとして活躍、多忙な日々を過ごすも、ある日不意に自室に閉じこもり深い眠りに入る。
それほど深い眠りにありながら、生命維持はできているというファンタジー。彫像と人間をわずかに隔てるせまい領域で、彼女は眠っている。
エリの部屋にあるテレビの電源コードはコンセントから外されている。にもかかわらず、画面が白く輝きだす。テレビの向こうの世界からエリを見つめている目が、ある。
エリが寝ているベッドは今や画面の中の世界へ。「私たち」がいる(いる?)こちら側には同じベットがしるしとして残されているだけ。向こうではマスクの男がエリを見つめている。しかし彼もやがて…
エリの目覚めはもうすぐだ。
私たち
「私たち」とは、我々読者をメタフィジカルに表現したもの。小説の序盤、「私たち」は空から都市を俯瞰しながら降下する。やがてファミレスで本を読んでいる一人の女の子にフォーカスする。主人公のマリだ。
著者にそう問いかけられても戸惑うほかない。こうして読者は「私たち」という指示語との同一化を求められ、否応なく小説世界へと引き込まれる。
もはやこちら側にいる読者も逃れられない。読者も「目に見えない無名の侵入者」、つまりは共犯者となる。ならざるを得ない。
「カメラ」は読者の意志におかまいなく、丹念にその部屋の様子を映し出していく。知覚はあるが介入はしない。観察し、情報を得て、推測する。小説の筆者は音もなく後退し、そっと読者の背後に回る。
このテレビが曲者だ。「私たち」と違い、テレビはエリの静謐な空間へ直接に介入を始める。画面には見知らぬ男が映し出され、エリが向こう側へ、「私たち」も画面をすり抜けて、そしてまたこちらへ。しかし本稿では、その奇妙さを甘んじて受け入れよう。おそらく答えは、ない。
光と音が無遠慮にエリの部屋を侵していく。それでもエリの眠りは妨げられず、そのことに我々は安堵する。テレビに映った男の描写、顔は半透明のマスクに覆われている。
すべては謎で、しかし確実に「ひとつの状況を作り出している。」彼が見つめているのは画面越しのエリなのだ。「私たち」はそのテレビに映った世界をもっと知りたいと思う。それはまもなく実行に移される。
これはたとえば、3つの粒子を使って量子状態を送る「量子テレポーテーション」だろうか。量子もつれ(量子エンタングルメント)を利用し量子的に世界を移動、テレビという古典的な通信を経て向こう側で実体化する。
整理してみよう。
・読者はすでに著者によって作中の「私たち」として化身された。
・「私たち」は感覚を持つカメラとなって、生き物のように情報を集める。
・エリは意識も感覚も深く眠っている。
・エリの部屋に電源の入っていないテレビがある。
・テレビには画面がある。
・画面の向こうに仮面の男がいる。
・男は半透明のマスクをしている。
・男はマスク越しにエリを見つめている。
私たち|カメラ|カメラの映像|エリの部屋|テレビ|テレビの画面|男のマスク|男(の目)
見ることの連鎖と、その合間に挟まった、膜(場面、画面、仮面)の存在。
見る/見られる、本当に見ているのは誰か、見られているのは誰か…
このあと「私たち」とエリは、皮膜を行きつ戻りつすることになる。その船酔いのような不安定な揺れが、この作品の底に漂っている。
読者の視点を意図的に操りながら、眠る女性(彼女は見ていない)という相反する対象をめぐる世界。その独特な「視点」を支点として、この小説におけるシーソーのような揺らぎを感じてみるのも一興だろう。
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