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テレンス・マリック『ツリー・オブ・ライフ』(2021/5/26ゼミ)

『ツリー・オブ・ライフ』の宗教モチーフを説明します。ゼミでは「難しい映画」だと強調し過ぎたかもしれませんが、実際は、キリスト教の知識があると、とても理解しやすい作品です。

発表者のペーパーにもあったように、樹木信仰は至る所に存在します。特にヨーロッパは昔、森で覆われていたので、樹木を祀るお祭りが各地域に見られます。

話をキリスト教に限りますが、キリスト教におけるtree of life(命の木)とは、神がエデンの園に植えた2本の木のうちの1本のことです。(『創世記』2章9節)

もう1本はtree of knowledgeです。こちらは、蛇(サタンの化身)の誘惑によってアダムとイブがその実を食べたため、堕落するきっかけとなります。堕落した人間たちは、神から断絶します。

「神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。」

(『創世記』3章24節)

したがって、『ツリー・オブ・ライフ』という題名は、この映画が「堕落以前の状態」を希求するものであることを意味しています。人間がいかにして神(tree of life)のもとへ戻れるかをモチーフとしているのです。

神のもとへ戻るために、信者は神の呼びかけに応えようとします。これが信仰です。映画の一家が教会へ行って祈るのもその一環です。

しかし、どんなに祈っても、人間には禍が訪れます。次男の死の知らせに母親が泣き崩れるシーンや、近所の子が溺死したり、火事で髪の毛を失うなどのシーンにより、このことが描かれます。

実はこうした禍が描かれることは、映画の冒頭、『ヨブ記』38章の引用により、予告されていました。

「私が地の基を据えたとき、あなたはどこにいたのか。」

(『ヨブ記』38章4節)

『ヨブ記』の概要はこうです。「善行を積み富や家族にも恵まれたヨブはどんなことがあっても反抗しないだろう」と言う神に対し、サタンが「ヨブをひどい目に合わせれば彼もきっと神を恨むはずだ」と言って、ヨブに災難を負わせる(信仰心を試す)。

それは、「どんなに善行を積んでも、禍は訪れる、禍が訪れた時、人はどう振る舞うべきか」と、問いかけます。映画は、この『ヨブ記』を下地にしています。

以上を踏まえると、父親はどちらかといえばtree of knowledgeを追求する俗っぽい存在、母親はtree of lifeへの志向が強い存在だといえそうです。

ジャックは母親にシンパシーを感じつつ、父親のように横暴な振る舞いをしてしまうなど、両者の間で揺れ動いているようにみえます。

映画の前半に宇宙や生命の誕生、自然の描写が挿入されますが、これは『ヨブ記』38章〜42章で言及される神の力の大きさ(と、それに対する人間の小ささ)を表現したものでしょう。

映画の一家は、神が作り出したこの宇宙、自然の中で、小さき者として生活を送っている。父も母も、自分の小ささに気づいている(だからこそ父は自分を大きく見せようと焦っている)。ジャックも、自らの小ささを薄々感じ、悩んではいるが、どうすることもできない。

しかし終盤では、大人になったジャックが、砂地を歩き、扉をくぐって浜辺のような場所へ出ていく様子が描かれます。扉をくぐる行為は、ジャックにも神のもとへの道が開かれていることを示唆します。

旧約聖書の時代は、寺院に神が祀られ、ユダヤ教の選ばれた信者だけが扉をくぐって中に入ることを許されました。寺院の扉をくぐることが、神のもとへ至る唯一の道でした。

ユダヤ教批判として成立したキリスト教では、本来、そうした寺院は必要ありません。イエスが神への道そのものだからです。その道は、信者のみならず、誰にでも開かれています。(これはつまり、「隣人愛」です。ユダヤ教には、隣人愛の考えはありません。ちなみに「教会」は、今では建物を意味しますが、本来は建物ではなく、信者の集まりのことを指します。)

したがって、キリスト教では「扉」(=門)は寺院の扉ではなく、神の国への入り口の比喩として語られます。

”Enter ye in at the strait gate." 「狭い門から入りなさい。」

(『マタイによる福音書』7章13節)


映画では、イエスが登場しないかわりに、大人になったジャックが扉をくぐる行為によって、神のもとへ、あるいは天国へ、戻っていく可能性を表現しています。

この映画を2011年に映画館で見ましたが、ちょうどその頃、バイブル・スタディに参加していたので、扉をくぐる場面の意味が本当に腑に落ちて、感嘆したのを覚えています。

映画自体は、欧米でも賛否両論あったようですが、キリスト教の発想を理解できるか否かで評価が分かれたのではないかと思います。私自身は信者ではありませんが、この映画はよく理解できました。

理解はできましたが、ひとつ大きな問題が残ります。すなわち、キリスト教に父権社会の構造が根強くあるのではないか、ということです。神は父であり、人間との圧倒的な力の差があります。神=父である限り、この構造を克服することは困難です。映画では、父親より母親を敬虔な信者として描くことで、父権制の強さを中和しようとしたのかもしれません。

この映画を監督したテレンス・マリックは、自然光の逆光で撮影することを好みます。それも、キリスト教的な「神=光」をカメラの中に収めるためだそうです。

最近では『ノマドランド』のクロエ・ジャオ監督がマリックに倣い、逆光を多く取り入れました。高齢のノマドたちひとりひとりが荒野をさすらうキリスト、なのかもしれません。

参照文献

  • 聖書協会共同訳『聖書』、日本聖書協会。

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