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ソイラテと赤い大地に一滴のしずく

私はここ一か月ほど、休日になると特に予定がない限りはスタバで過ごしている。
私が住む街にはスタバが4店舗ある。
一番好きな店舗は駅ビルの一階にある店舗なのだけれど、私は日ごろ電車よりもクルマで移動することが多く、駅前のパーキングに別途料金を払ってコーヒーを飲むという贅沢はなかなか出来ないため、普段は家から一番近い駐車場のある郊外のスタバへ行ってしまう。

郊外のスタバは平日でもほどよく混んでいて、全体の雰囲気も気に入っている。
パソコンで作業している人もいるし、一人で勉強中だったり、本を読んでいたり、デートの途中だったり、そういった人たちがしっかりといてくれる。
私がスタバに求める雰囲気は満たしている。

強いて不満点を挙げるなら、店舗が幹線道路沿いに面しているせいで見える、道向こうのたびれたプレハブ小屋やアパートといった景色。
つかの間の非日常に浸っているのに、ふと気を緩めたときにその景色が視界に入ってくると、現実が窓ガラスの向こうで手招きしているきがして、少しげんなりしてしまう。
だけれど家から近いし、駐車場も付いているから文句も言ってられない。
駅前の理想に近い景色は、パーキング料金を課金しなくては見られないのだから。

私は特別なことがない限り、この季節はソイラテのトールサイズを頼む。
そして本を読んだりラジオを聴いたり、話のネタをまとめたりしながら数時間過ごす。
昔だったら本を読むふりをしながら、他人の話に聞き耳を立てていたのだけれど、そういうことはしなくなった。
しなくなったというよりも、聞こえてこなくなった。
コロナ禍で、他人に聞こえる程大きな声で会話していた人たちが声を潜めたんだろうな。
これもコロナ禍で昔になった文化の一つなんだと、この文をかいていて思った。

先週買って読み進めていた、石原燃の『赤い砂を蹴る』を読み終えた。
現在の話もしているかと思ったら、いきなり回想に移ったり時間軸が行ったり来たりして、何度か振り落とされそうになりながらも最後までしがみついた。
劇作家の作者だけあって、舞台か映画化したら映えそうな構成だけど、文章だと私には少し合わないな、なんて思いながら読んでいた。
だけれど不思議だったのは、それまでしっくりこなかった物語のテーマみたいなものが、クライマックスの段落を読み終えると、スッと納得した気分になった。
作品に例えれば、雨が降りやんだ後の澄んだブラジルの大地のように。
劇作家恐るべし。

オチを知った上で、もう一度読み直してみようかなと思いながら、ソイラテを一口飲み本を閉じた。


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