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【死にゆくということ1】hitomi


誰しもが必ず迎える死。

どこで最期を迎えたいですか?


終末期に関わる者が度々直面する問題。

多くの人は自宅で最期を迎えることを望む。しかし実際に自宅で亡くなる人は12%にすぎない。私の住む大分県に至っては8.4%と全国最下位。

「死」は昔に比べて私たちの生活からかけ離れたものになった。昔はもっと「死」自体が身近にあった。

元気だったじいちゃんばあちゃんの老いを目の当たりにしながら共に過ごす。そしてついにその時と迎える。それから近所の人の手を借りながら葬式を出す。それが当たり前の世の中だった。

核家族化が進み、じいちゃんばあちゃんは帰ればいる人から時々会う人になり、手助けが必要になっても介護サービスが病院がしてくれるようになった。最期を迎えるのは病院になり、葬式は業者がしてくれるようになった。病院には葬儀者がお迎えに来て、硬いストレッチャーに乗せられ縛られそのまま葬祭場へ。生きて帰りたかった家に、死してなお帰ることさえも叶わない。

病院で死ぬことが普通になった。家で死ぬことは普通じゃなくなった。

生活はより効率的になり、生産性は向上した。専門の職種が増え、各々で解決する事項は減った。その代わり、周囲との関係性は希薄になり物事は機械的になった。

それでも人は「家で死にたい」そう望む。そこには何があるのか。


「最期の時が一人でもいい。それでも家に帰りたい。」

そう言った人がいた。病院にいて最期の時に家族が集まって家族に看取られることよりも、家族に看取ってもらえなくてもいいから家に帰ることを選びたいと。彼女にとっては、看取られることより家に帰ることのほうが重要だと。

そこにあるのはその人の人生そのものなのかもしれない。

家に引っ越してきた時のこと。子供が生まれたときこと。夫婦で過ごした時間。笑ったり、泣いたり、時には喧嘩したり。柱一本にも鍋一つにも物語がある。目をつぶっても歩ける廊下に、自分の手先のように手になじんだ包丁。何もかもが自分の一部に感じられる。家とは、そんな人生が詰まった宝箱のようなものなのかもしれない。

私はまだ(もう?)34歳。これからどんな人生になるかわからない。けど、ここが私の宝箱になるのかな?なんて思いながながら天井を見上げている。

「死」が生活から離れ、病院での「死」が一般的となってしまった今。「最期は自宅で」という希望を受け入れてくれる家族は少ないのが現状。

今の私にできること。「家に帰りたい」そう言った人の応援者であり続けること。あきらめないこと。一緒に悩み模索してくこと。

希望が叶うように。


あなたはどこで最期を迎えたいですか?


2020.06.18         

hitomi

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