断髪小説『自立』
あらすじ
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本文
妻の柊子とはお見合い結婚だ。会社を経営している父の友人の娘とのお見合いだった。自分も適齢期であったことからトントン拍子に話が進み、一年後には結婚へと至った。
妻は深層の令嬢らしく異性との交際経験がないどころか中学校から大学に至るまで女子校の出身で男性との関わりがまるでなかったそうだ。大学を出てからも家事手伝いをしていて、所謂、一般社会とは無縁で過ごしてきたらしい。
結婚するまでの妻の装いはいつ見ても着物だった。肩口で髪を切り揃えられており、日本人形みたいな出立ちだった。彼女の母親も同様だったので、少し奇妙に感じていた。
見慣れるまで、双子かと思うくらい瓜二つに見え、外見も仕草もよく似通っていた。結婚後、家の中でも寛いでいる姿を見ることはなく、常に着物で過ごしている。着物で寛げるのだろうか疑問になった。寝る時も浴衣だ。
「家でも洋服は着ないの?」
「え? 着ても良いのですか?」
「いいも何も君の好きな格好をすればいいじゃないか」
「ほんとうですか!?」
妻は目をキラキラさせて、嬉しそうに見えた。
「あ、あぁ、家は寛ぐ場所だ」
「あのっ、私着物しか持ってなくて、洋服を買いに行っても良いのでしょうか?」
興奮でもしているのだろうか。妻の声が珍しく弾んでいた。
「もちろん。じゃあ明日一緒に買い物に行こうか」
「はい! 楽しみです!」
妻が子供のように喜んでいた。そんな様子は初めてだった。
◇
翌日、繁華街へ出かけた。婦人服売り場に着ていた。妻は初めてこういう場所で買い物をするらしい。キョロキョロと視線を動かしていて、落ち着きがなかった。
「気に入ったのはありそうかい?」
そんな様子の妻の様子に思わず笑みもこぼれる。
「どれも素敵で目移りしますっ」
初めて子供が遊園地にでも来たかのようなはしゃぎようだ。
「ゆっくり選んで」
店の中に入って、妻はあれやこれやと服を見始めた。本当に目移りしているらしい。いつまで経っても服を選べそうになかったので、つい声を掛けていた。
「何着か試着してみたら?」
「それもそうですね」
店員を呼んで、試着をしたいと告げたら熱心に妻に服を勧め始めていた。妻はそのまま店員に連れて行かれ、試着室へと入っていった。
――試着して、また着物を着るのは大変だよな
買った服をそのまま着て行くかと考える。そうすると靴とかも必要だろう。そんな事を考えながら待っていると、店員から話しかけられた。
「奥様はいつもお着物なんですか?」
「えぇ、まぁ。洋服をあまり持ってないみたいで」
「あら、そうだったんですか」
「それで靴も合わせて見繕ってもらえますか?試着した後にまた着物を着付けるのも大変ですし、妻が気に入ったものがあればそのまま着ていきますので」
「かしこまりました。そうなりますとアンダーウェアも必要ですね。お任せください」
店員は張り切った様子で店内の物色し始めていた。妻が着替えた服を何着か見せてくれた。
「似合ってるよ」
そう言うと、はにかんだ様子で顔を赤らめていた。
妻が気に入ったものをそのまま購入した。妻はどうやら自分で支払うつもりだったらしい。デートだからと言って、受け取らなかった。着物は店で袋に畳んで詰めてもらった。
◇
荷物を持ったまま、続けてバッグや靴、洋服用のアクセサリー、付き添いこそしなかったが下着も何点か追加で購入をした。一通り巡った所で、荷物をクロークへ預け、上層階でランチにした。
「夢、だったんです」
「何が?」
「こうして男性とデートすることが」
「結婚前はバタバタでできてなかったね。これからいくらでもしよう」
「はい!」
結婚するまで、こんな子供のような屈託のない笑顔をするなんて知らなかった。連れてきた甲斐はあった。いつもはお嬢様といった上品な佇まいだが、今日みたいにはしゃいでいる妻は年相応にみえた。
「今まで私服で洋服は持ってなかったの?」
「はい。洋服自体、学校の制服くらいしか着たことなかったんです。父が女の子はかくあるべきというものがありまして、私も母も服装も立居振る舞いも言葉遣いも髪型も決められています」
理解が追いつかず、言葉に詰まった。言われてみれば、妻と義理の母の出立ちはそっくりだったことを思い出した。
「ですから、あなたに好きな格好をしてもいいと言われて驚いたんです。母からは結婚したら全て夫の好みに合わせるべきと教わってきました」
何という教えだろうかと眩暈がした。事の次第は全く分からないが、妻に自分の好みを押し付けるつもりは毛頭になかった。女性のファッションに詳しくないので言えることもないというのが本音だった。
「僕が君の姿格好で文句を言うつもりはないよ。そうだ、他にしてみたいことはない?自分の趣味でも、次のデートの場所でも、部屋のインテリアとかでも何でもいいよ」
「でしたら、髪型を変えてみたいんです」
「いいんじゃないか? やりたいようにやってごらん」
「はい!」
妻は今まで通っていた美容院とは別のところに行きたいらしく、総合商社でもあるウチの会社と取引のある美容院を紹介した。
◇
数日後、仕事から帰ると玄関で洋服姿の妻が迎えてくれた。予約した美容院に行ったらしく髪が顎のあたりまで短くなっていた。
「結構バッサリいったね。似合ってるよ」
妻は途端に赤くなって消え入りそうな声で「…ありがとうございます。」と言っていた。スーツから着替えて、二人で食卓を囲んだ。妻の料理は手が込んでいそうで、一体どのくらいの時間をかけて作っているのか不思議だった。
「美容師さんが着物を着るならこういう髪型もいいんじゃないかって勧めてくれたんです」
「へぇ。気に入ったの?」
「こういうのは初めてなので、正直落ち着かないです。でも話をして決めていくのが楽しかったです」
彼女にとっては何もかも新鮮な体験らしい。美容室での細かいやり取りも楽しそうに話してくれた。
てっきり髪型を気に入ったと思っていたが、どうやら伸ばすことにしたらしい。半年くらい経つと肩くらいのボブになっていた。
ちょうど年末年始となり、妻の実家へ年始の挨拶に向かった。義理の両親への挨拶もそこそこに広間でおせち料理が振る舞われた。何日も前から義理の母が仕込んだものに見えた。
今日の妻は洋服ではなく着物姿だった。訪問着というものだろう。
「柊子さん、少し髪が短いんじゃありません?」
「お母様、申し訳ありません」
「お父様にも旦那様にもそんなみっともない姿を見せて。今まで行っていた美容院にも来ていないみたいですし、その訪問着も着物と帯の柄がチグハグで、相変わらずセンスがないわね。新婚だからと気が緩んでるんじゃないかしら。本当に妻として振る舞えているのか不安だわ」
その通りだというように義理の父も一つ頷いて、口を開いていた。
「お前の恥は我が家の恥にもなるんだ。ただでされお前はぼんやりしていてご迷惑じゃないか心配なんだ。さして愛嬌も色気もないお前みないなのを引き取ってくれたのだから、せめて身なりくらいはきちんと整えなさい」
「はい、気を付けます」
妻の顔が能面を被ったかの様に表情が削げ落ちていて、言い慣れた様にただ言葉を紡いでいた。その光景は異質なものに映って、思わず口を出していた。
「すみません。お義父さん、お義母さん。その髪型は僕の好みでしてもらったんです。美容院もウチの会社の取引先を紹介したんです。妻にもその、仕事を理解して欲しくて」
「あら、そうだったの。ごめんなさいね。知らなくて」
「いえ。こちらこそ勝手をしてすみません」
「妻は夫に従うものだ。君がそう言ったのなら問題はない」
一先ず事なきを得たらしく、胸を撫で下ろした。適当な口実をつけて、妻の実家に長居はせず、家へと帰った。あのまま実家にいても妻には良くない気がした。
――思ってた以上に干渉がすごいんだな
正直かなり驚いていた。たった五センチ程度、短いだけで指摘をされると思ってなかった。
「あなた、申し訳ありません。私が気をつけていれば……」
「大丈夫だよ。思ってた以上に厳しくて驚いたけど、ああやって言っておけば大丈夫だろう?」
いたずらが成功した子供のように振舞っておいた。
◇
正月が明けると早速美容院に行ったらしく、妻の髪が短くなっていた。リップラインのボブにしたらしく襟足のあたりが少し刈り上がっていた。前髪も眉の少し上でパツンと切られていた。
「また随分短くしたね」
「伸ばしている間、切りたくて仕方なかったものですから、つい切り過ぎてしまって。変でしょうか?」
うなじのあたりが妙に艶かしかった。
「ううん。似合ってるよ。この辺りなんかそそられる」
首筋から刈り上げた部分まで指先でするりと触る。
「……んっ……」
妻から艶っぽい声がした。妻の短めの髪型が気に入りそうだ。
妻の普段着は洋服が増えていった。部屋には観葉植物が増え、季節によって生ける花や壁にかける絵や写真を変えたりと模様替えにも精力的だった。
一ヶ月くらい経つと刈り上げた部分は落ち着き、さらに一ヶ月ほど経つと顎のあたりまで髪は伸びていた。伸びてきた髪型が気になったのか、いつもより早めのサイクルで美容院に行ってきたらしい。リップラインで切り揃えられていたが、後ろの刈り上げの範囲を広げたらしく、隠れているが髪をめくると耳の真ん中辺りまで刈り上がっていた。
「またずいぶんと刈り上げたんだね」
触るとジョリジョリしそうだ。妻も言われて気になったらしく、刈り上げの部分を手で触っている。
「どこか気に入ってしまって。お嫌でしたか?」
「驚きはしたけど、嫌ではないかな」
「なら良かったです」
妻が気に入ったならと、翌日、家電量販店でとあるものを購入した。家へ帰ると、変わらず妻は玄関まで迎えに来てくれる。手に持っている紙袋に視線を向けていた。
「何を買われたのですか?」
「君へのプレゼントだよ」
手に持って紙袋をそのまま妻へ渡した。
「え? でも誕生日でも記念日でもないですし、頂くわけには」
「そういった意味合いのものではないし、日用品だから。君の手入れが楽にできるようになればと思ってね」
不思議そうな顔をしていた。リビングでスーツからネクタイを外しながら「紙袋から出してごらん」と促した。妻は紙袋から箱を取り出すと戸惑っているようだった。
「これって……バリカンですか?」
「そうだよ。刈り上げが気に入ったみたいだから、家でも手入れできるようにと思ってね」
妻の正面から両腕を回し、後ろの刈り上げを手で触る。ジョリっとする感触が気持ち良くて隙があれば触りたくなっていた。そうしていると妻の体がピクッと跳ねるのも気に入っていた。
「それに君は髪を刈り上げると乱れてくれるからね。そっちも愉しみなんだよ」
その体制のまま妻の耳元で囁くと、耳まで真っ赤になっていた。
◇
仕事の関係で偶然にも妻の通っている美容室へ出向く事となった。オーナーが店で迎えてくれ、裏の休憩スペースで仕事の話を進めていた。
「海外なら在庫はあるので税関次第ですが、遅くてもお盆前には納品できると思います」
「えぇ、助かります」
一通り話がまとまりお互い一息つく。
「奥様が通って下さっていて、ありがとうございます」
「いえ、妻がお世話になっています。どうやらここが気に入ったようで、これからもよろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ。そういえば担当のものが話したがっておりましたので、呼んでもよろしいですか?」
妻の担当の美容師が話をと、疑問に思ったが断る理由もないのでそのまま承諾した。しばらくするとオーナーと共に壮年の男性が現れた。
「いや、すみません。お忙しい所お時間を頂きまして」
「いえいえ、いつも妻がお世話になっております」
「彼はウチのエースで稼ぎ頭なんですよ。独立されて出店となったら離れた場所にして欲しいくらいです」
「へぇ、それはすごいですね」
「いやいや。まだまだ修行中の身なので」
「ご謙遜を。それでお話というのは」
「奥様をあんなに刈り上げてしまって……。旦那さんがどう思っているのか不安でしてね」
「その事でしたら、妻が望んでいるので私は全然。前に話し合って決めれるのが嬉しいと言っておりましたので、大丈夫ですよ」
「それならよかった。また夏以降は伸ばさないといけなくなるんでしょう?次回はまた短くされるのでと思ってましてね。今から不安で仕方なかったんですよ」
「どういう事でしょうか?」
「え? なんでも正月には肩についてないといけないとかおっしゃってましたよ。ご実家の都合みたいでしたけど」
――実家の都合……?
心当たりはなかった。自分の実家はもとよりだ。あるとしたら妻の実家だろうか。話は終わったはずと思っていた。ただそれでも妻がまだ気にしていると言う事なのだろうか。
想像の域を超えないが、それならばとあるものを調達しようと目の前の二人に相談することにした。他方面の伝手にもいくつか当たってみたところ、三ヶ月もすれば希望通りのものを調達できそうだった。
◇
妻に渡したバリカンはまだ一度も使われていないみたいだった。前に美容院で刈り上げてから一月経つと髪も伸びてきて刈り上げている感じは無くなってきていた。
「バリカンを使ってないみたいだけど、余計なお世話だったかな?」
「あの、いえ使ってみたいんですけど、どうやったらいいものかと怖くて」
「なら今度の休みの日に一緒にやってみようか?」
「え? あなたも使うんですか?」
「いや、君の髪を一緒にバリカンで刈り上げようかと。後ろは見え辛いし見ててあげるよ」
「えっ? あ、あなたが見るのですか?」
妻が動揺しているみたいだ。
「その方が安心かと思って、ね。それとも一人でやりたい?」
「……お願いします」
妻の声は消え入りそうなくらい小さかった。
休日にリビングのフローリングへ新聞紙を敷き、木製の折りたたみの椅子を置いた。椅子の前に姿見を置き、椅子には妻が座っていた。
「いつもはどの長さにしているんだい?」
「えっと、これです」
六ミリのアタッチメントを指していた。バリカンにアタッチメントを付けて、妻へと渡した。妻はバリカンを膝に置き、刈り上げない髪はゴムで結んで留めていた。妻がバリカンを手に持ち電源を入れる。
「きゃっ」
ビィーンと大きな音と振動に驚いたようだ。バリカンが床に落ちて転がっていた。
「落ち着いて」
バリカンを拾って、電源を切った。
妻の手にしっかりとバリカンを持たせる。妻が落ち着いてきたのを確認するとバリカンを持つ手を彼女のうなじへとそっと手を引いていく。
「じゃあやってみようか」
「……はい」
いくばくか緊張したような強張った声だった。彼女の持つバリカンに手を沿わせながら、そっと襟足へ当てて上に持ち上げるように動かしていく。ジョリジョリと音を立てて彼女の短い髪を刈り上げていく。耳の真ん中あたりでバリカンを頭から離す。一筋の刈り上げた跡ができていた。
「ほら、ちゃんとできてる」
そう言いながら刈り上げたところを指でなぞる。彼女はくすぐったそうに肩をすくめていた。彼女も自分の指で刈り上げたところを触っている。
「ほんとうにですね」
「簡単だろう? ほら今度は自分でやってごらん」
今度は手を貸さず、妻自身の手で恐る恐るした様子で襟足からバリカンを入れていた。少し怖いのか目をギュッと瞑っていた。
最初こそ震える様な手つきだったが、何度か繰り返すうちにバリカンを動かす手が軽快になっていた。
あらかた刈り終えた頃に耳の後ろとか、刈り残した箇所を教えながら、妻自らの手で髪を刈っていった。すっかり襟足から耳のあたりまで刈り終えるとなうなじがとても涼しげだった。自分も夏も近いし、今度は髪を短く刈り込もうかという気分にさえなった。
「思ってたより簡単でした。これなら一人でもできそうです」
「ならよかった。一人でやる時は気をつけるんだよ」
「はい」
妻は自分でできたことに満足そうだった。その日の夜は思ってた以上に乱れてくれたので、そっちの生活も満ち足りていた。
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