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ミサを味わう(11)

田中 昇(東京教区司祭)

第11回 「感謝の典礼」(その1) 奉納


 感謝の典礼と呼ばれるミサの後半において、司祭はイエスの十字架上のいけにえを祭壇上に現存させます。このとき司祭は、イエスが最後の晩餐でなさったこと、また使徒たちに自分の記念として行うように命じられたことを実行します。この感謝の典礼では、パンとぶどう酒が会衆によって供えものとしてささげられ、聖別されてイエスの御体と御血に変えられて、私たちはそれを聖体拝領において受けることになります。ミサの後半部分は、便宜的に次の3つの主要部分に分けて考えることができます。
①供えものの準備
②奉献文・感謝の祈り
③交わりの儀
の三つです。

供えものの準備
 
典礼の中で供えものをささげることは、初代教会の実践にその起源があります。殉教者ユスティノスは、紀元155年には執り成しの祈り(共同祈願)の後に、誰かが司祭のもとにパンとぶどう酒を携えて行く習慣があったことを語っています。[1] またヒッポリトス(225年)も同じような実践を記録しています。[2]それによれば、信者たち、あるいはその中の代表者が行列を作って祭壇へ進み、パンとぶどう酒に加えて、油、蜂蜜、羊毛、果実、蜜ろう、あるいは花のような広範な供えものをささげていたようです。パンとぶどう酒は感謝の典礼に用いられましたが、他方、その他の供えものは司祭を支えるため、また貧しい人々のために役立つようささげられました。


[1] 殉教者ユスティノス『護教論』(Apologia) 1, 65、柴田有訳『ユスティノス』―『第1弁明』(教文館、1992年) 84ページの65項、『カテキズム』1345項の引用を参照。

[2] ヒッポリトス『使徒伝承』 (土屋吉正訳、1983年、オリエンス宗教研究所) 5, 6, 21, 31項。

 感謝の典礼の準備は、よく「奉納」(offertorium)という名称として知られていますが、それは供えること、携えること、ささげることを意味するラテン語のofferreに依拠しているからです。今では「供えものの準備」とも呼ばれていますが、そこにはやはり「いけにえ」という概念が残っています。実に、これらの供えものをささげるということそのものに重要性がありました。なぜなら、それらは概して個人宅や個人の畑から持って来るもの、あるいは手作り品だったからです。そのように、供えものは自分自らを供えることを表現していました。確かに自分たちの重労働の実りを手放すことには犠牲的な意味合いが含まれていたように思われます。そのため、供えものをささげることは、個々人が自分自身を神にささげることを象徴しているのです。

 ミサにおけるパンとぶどう酒のささげものについては、聖書の中にしっかりとした裏付けがあります。パンとぶどう酒は、イエスの時代の過越祭や最後の晩餐で用いられたことに加えて、イスラエルの いけにえ の儀式において定期的にささげられていました。パンとぶどう酒の象徴的意義、そして神にこれらの供えものをささげることが何を意味したのか考察してみましょう。

 聖書において、特に古代のイスラエル人たちにとって、パンは最も基本的な食物で、生命維持に不可欠な食物と見なされていました(シラ29:21; 39:26)。それどころか、「パンを食べる」という表現は、一般に単純に「食べること」そのものを指していると考えられます(創31:54; 37:25; 王上13:8-9, 16-19)。聖書はパンを糧(パンによる支え)のようにさえ描写していますが、これはパンがいかに人間の命の支えとして理解されていたかを示しているのです(レビ26:26; 詩105:16; エズ4:16; 5:16)。さらにイスラエル人たちは、自分たちのパンをある一定量、定期的なささげものやいけにえとして(出29:2; レビ2:4-7; 7:13)、恒例の「七週の祭り」(レビ23:15-20)のときにささげるよう告げられました。自身のパンを差し出すことは、個々人が自らを神にささげることを表すまさに個人的な犠牲的行為であったものと思われます。

 同じように、ぶどう酒は単なる副飲料水(side beverage)ではなく、古代イスラエルの食事の際に提供された通常の飲みものでした。ぶどう酒はパンと一緒に飲まれ(士19:19; サム上16:20; 詩104:15; 士10:5)、祭りの時(サム上25:36; ヨブ1:13)や客人を迎えた時(創14:18)に出されました。さらに、パンのようにぶどう酒もまたイスラエルでは いけにえ としてささげられました。ぶどう酒は十分の一税として神殿にささげられた初物の一つであり(ネヘ10:36-39)、またイスラエルの感謝やあがないのための いけにえ をささげるときに神酒(献酒)として注がれました(出29:38-41; 民15:2-15)。いけにえ の供えものと個々の供犠(くぎ)者との間には密接な関係があったので、パンとぶどう酒をささげることは、まさに自己奉献を象徴化するものでした。旧約においては、パンとぶどう酒は神の国の豊かさ、恵みのしるしでもありました(イザ25:6-9, 55:1-3)。

 同じことが、今日、ミサの中で私たちがささげる供えものにも当てはまります。パンとぶどう酒において、私たちは被造物という賜物や労働の結果(ミサの祈りがそれらのことを「大地の恵み、労働の実り」と呼んでいます)を神にお返ししながらささげているのです。やはり、結局のところ、この儀式はパンとぶどう酒の供えものによって、私たちが全生涯を神にささげることを象徴しています。どんなパン屑でさえも、耕して種をまく重労働、額に汗して得る収穫、トウモロコシをずっと脱穀していた腕の疲れ、燃えたぎるパン窯のそばでパン生地をこねるパン職人のつぶやきを偲ばせてくれるのです。同じことは、ぶどう酒についても言えるでしょう。ぶどう酒は、一年を通して丹念に手塩にかけて育てられてきたぶどうの木から収穫されるぶどうから作られるからです。

奉納物としての献金
 
献金の実践は(結局のところ、これによって油や蜂蜜、亜麻、その他の様々な供えものの奉納の存在感が薄くなったと言えるのですが)、同じ視点で理解することができます。奉納の際に、お金を献金の籠の中に入れることは、単に何か正しい理由に適った献金であるだけではありません。それは、自分たちの生命を神にささげることをも表現しているのです。私たちのお金は、生活時間と重労働を具体的に表現しており、ミサの間、ミサの供えものを奉納しつつそれらを神にささげるのです。また初代教会では、エルサレムをはじめ諸地域にある教会共同体を助けるために募金が行われていたことが記されています(1コリ11:21, 16:1)。
 それでもなお、キリスト信者の中には、「神様はなぜ、私たちからの供えものを必要とするのか。神はご自分の子を遣わされ、その方は私たちの罪のために死んで下さったのではないか。それなのになぜ神様は、パンとぶどう酒とお金という私たちのちっぽけないけにえを未だに必要とするのか」と訝(いぶか)しがる人もいるかもしれません。結局のところ、神はこのようなものを必要とはしていません。しかし一方で、私たちは献身的な愛の中で自らを成長させる必要があります。これこそ神が私たちを招いて、私たちの生活をご自分に結び合わせようとしている一つの理由なのです。私たちは、こうした小さなささげものによって自身をいけにえとしてささげる愛のうちに成長するのです。さらに、ささげものそれ自体に大した価値はないにしても、私たちがそれらをイエスの完全ないけにえと結び合わせるとき、それらに計り知れない価値が生まれます。福音書に登場する寡婦の献金を思い起こすべきでしょう。

 それゆえ、ミサで私たちが供えものをささげるとき、それらはまるで(供えものに象徴される)私たちの生活のすべてと小さないけにえのすべてを(司祭がその代理をつとめる)イエスご自身の手に委ねるようなものなのです。それから司祭は、私たちの運ぶ供えものを受け取って祭壇に奉納します。その祭壇こそ、私たちがキリストの御父へのささげものと結ばれていることを表現するために、キリストのいけにえが現存させられるところなのです。

ぶどう酒と水の混合、手の洗浄、奉納祈願
 
古代世界において、ぶどう酒を少量の水で薄めることは普通に行われていたこと[3]ですが、キリスト信者は感謝の祭儀の中で水とぶどう酒が混ざるこの瞬間に深い神学的意義を見出してきました。その重要性は、この儀式に伴う次の司祭の祈りに表わされています。

この水とぶどう酒の神秘によって、私たちが、人となられた方の神性にあずかることができますように。

 この実践の伝統的な解釈によれば、ぶどう酒はキリストの神性を、水は私たちの人間性を象徴しています。水とぶどう酒を混ぜることは、神が人となる神秘、すなわち受肉の神秘を指し示しています。それはまた、私たちがキリストの神聖な命にあずかるように、「神の本性にあずかる者」(2ペト1:4)となるように招かれていることをも示しています。


[3] 例えば古代ギリシアにおいては、プルタルコス『モラリア』の各編、アテナイオスの『食卓の賢人たち』などを見れば明らかなように、ぶどう酒をそのまま水で割らずに飲むことは野蛮なこととされていました。

 また司祭は、ユダヤ教の伝承に起源を持つことばを用いて、パンとぶどう酒に祈りをささげます。そのことばは、おそらくイエスの時代に、食事に出されたパンとぶどう酒にささげられたユダヤ教的祝福にちなんで構成されています。なお新しい日本語の式文は、原文により忠実な形として、パンに対しては「私たちの命の糧となるものです」と祈り、杯のぶどう酒に対しては「私たちの救いの杯(このラテン語の原義は「霊的な飲み物」)となるものです」と訳し分けています。

(パンをささげる祈り)
 神よ、あなたは万物の造り主。ここに供えるパンはあなたからいただいたもの。 大地の恵み、労働の実り、私たちの命の糧となるものです。
 
(ぶどう酒をささげる祈り)
 神よ、あなたは万物の造り主。ここに供えるパンはあなたからいただいたもの。 大地の恵み、労働の実り、私たちの救いの杯となるものです。

あなたに受け入れられますように
 
司祭の次の祈りは、パンとぶどう酒の供えものとそれらを神にささげる奉納者(共同体)との関係をより明確にしています。司祭は、深く頭を下げて次のように静かに祈ります。

神よ、心から悔い改める私たちが受け入れられ、今日、御前に供えるいけにえも、御心にかなうものとなりますように。

この祈りのラテン語原文を直訳すると次のようになります。

主よ、へりくだる霊と悔い改める心のうちに、私たちがあなたから受け入れられますように。そして主なる神よ、今日、み前にささげる私たちのいけにえが、あなたを喜ばせるものとなりますように。

 この祈りの中で描かれている、共に捧げる私たちの いけにえ とは、パンやぶどう酒のように神にささげられる何らかの物ではなく、「私たちがあなたに受け入れられますように」ということばからも分かるように、それはミサに集まった「私たち」会衆そのものであるということに注目して下さい。奉納の終盤(司祭が手を清める前)に、祭壇上のささげものだけでなく、司式司祭も含めて列席者すべてに対しても献香がおこなわれる理由はここにあります。

 このテーマは、へりくだる霊と悔い改める心の表現と同様に、ダニエル書補遺「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」に記されている、燃え盛る炉に投げ込まれた三人のヘブライ人の切なる願いを想起させるものです。バビロンの王に迫害されたシャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、「へりくだる霊」と「悔い改める心」とともに、神殿にささげられた焼き尽くす いけにえであるかのように、自分達が主に受け入れてもらえるようにと叫び声を上げました。言い換えると、この三人は、まさに自分たちの命を神にささげる いけにえ としたのです(アザ16-17)。主は彼らの叫びを聞き、彼らを救われました。
ミサでは、司祭が同じように切に神に願います。これまで私たちの生活が、いかに主にささげられたパンとぶどう酒と結ばれたものであるかを見てきましたが、司祭は、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴのように、「へりくだる霊」と「悔い改める心」をもって、私たちが神にとって喜ばし いいけにえ として受け入れられるように願い求めながら、私たちに皆に代わって神に叫びを上げるのです。

至聖所に入る
 
次に司祭は、今から何か特別なことが行われることを示すかのように、自身の手を洗い清めます。この典礼の所作は、旧約聖書の祭司にちなんだ儀式を思い起こさせます。かつてユダヤの祭司とレビ人は、聖別のとき、聖所で自らの務めを果たすときには、それに先立って清めの儀式を受けなければなりませんでした(出29:4; 民8:7)。祭司は、臨在の天幕に入る前や香をたく祭壇に近づくときに、海と呼ばれた青銅の洗盤で手と足を洗い清める必要がありました(出30:17-21)。詩編24編では、神殿に入る準備をしている人々にとって、この儀式がいかに重要であったかが示されています。
「誰が主の山に上り、誰が聖所に立つのか。それは汚れのない手と清い心を持つ人。魂をむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人」(詩24:3-4)と。清く汚れのない手が、いかに純粋な清い心と結ばれているかに注目して下さい。この詩編において、手の清めの儀式は、人が聖所で神の臨在に近づく前にいつも要求された心の内的清めを象徴しているのです。

 この聖書的な背景から、司祭がミサで手を清めることは、いにしえのレビ人の祭司のように、最も聖なる場所、すなわち幕屋や神殿以上に畏敬の念を触発する場所に今まさに司祭が立とうとしていることを表しています。神の臨在は、時々、旧約聖書の聖所において雲の形を取って可視的に現わされました(出40:34; 王上8:10-11)。

 しかしミサにおいては、神はさらにもっと親密な方法でご自分の民のもとに来ようとしています。司祭が祭壇の前に立つとき、その祭壇の上では、パンやぶどう酒の供えものが速やかに変化し、まさにイエスの御体と御血になり、私たちが聖体拝領で主をいただくと、主はすぐさま私たちの中に住まわれるのです。唯一のまことの大祭司であるイエスは、司祭の手を通してこのことを実現なさいます。この最も厳粛な瞬間に備えて、司祭は新しい神の民の「至聖所」に近づくとき、いにしえの祭司のように手を清めるのです。

 そして、この聖なる務めに相応しく心を整えるため、ダビデの謙虚な悔い改めの祈りを真似て司祭は次のように言います。「主よ、わたしの汚れを洗い、罪から清めて下さい」(詩51:2参照)と。そして、供物の準備の最後の行為として、司祭は会衆の方に振り返り、奉献文を祈り始めるにあたり、皆に祈るように願い求めます。

皆さん、ともにささげるこの いけにえ を、全能の父である神が受け入れてくださるように祈りましょう。

これをラテン語原文から直訳すると次のようになります。

祈って下さい、兄弟のみなさん。私とあなたがたのいけにえが、
全能の父である神のみもとに受け入れられるものとなりますように。

 この祈りは、ラテン語原文を見ると、「私の」いけにえ と、「あなたがたの」いけにえ との対比が明確に語られています。「私」の側のいけにえは、「キリストの代理者として」(in persona Christi)秘跡を行う叙階された司祭を通して現存するイエスの いけにえ を指し示しています。一方、「あなたがた」の側の いけにえ は、ミサの中でキリストと一体となってささげられるもの、すなわち全教会そのものを言っています。そして、ラテン語原文の表現において、司祭は兄弟姉妹の皆に向かって、自分が共同体を代表してふさわしく聖なる いけにえ をささげることができるよう嘆願していることが読み取れます。原文は「祈りましょう」という一人称複数系ではなく、「祈ってください」という二人称複数形命令形となっています。つまり司祭は自分自身が相応しい務めができるよう皆に祈って欲しいと嘆願しているのです。

 これに対して、会衆は、いかに両方の いけにえ(イエスの いけにえ と自分たちの いけにえ)が一つとなり、司祭の手を通して御父にささげられることになるのかが解かる次の祈りをもって答えます。

神の栄光と賛美のため、また私たちと全教会のために、あなたの手を通してお捧げするいけにえを、神が受け入れてくださいますように。

 ここではっきりと「あなたの手」と言っている点が、前の司祭の「祈ってください」という会衆への嘆願の祈りへの応答になっていることがわかります。

 教皇ピオ12世は、回勅『メディアトール・デイ』の中(92項)で、ミサにおいて、「信者は、第一に司祭の手を通して、第二にある意味で司祭とともに自らもささげものを奉献するのです」と述べ、そのようにして信者たちはキリストの祭司職に十全的に参与していることを示しています。

次回は第12回 「感謝の典礼」(その2) 奉献文−叙唱です。


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