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ミサを味わう(9)

田中 昇(東京教区司祭)

第9回 「ことばの典礼」(その4) 信仰宣言


 主日または祭日のミサにおいては、通常、信仰宣言がおこなわれます。通常、信仰宣言には、主にニケア・コンスタンチノープル信条ないし、使徒信条と呼ばれるものが用いられます。この信条は、キリスト教信仰の規準ないし規範として初代教会で用いられていた信仰告白の要約です。もともと信条は、洗礼志願者が教会の信仰を告白する洗礼式の式文の一部でしたが、後に正しい教義を保証し異端を抑える手段となりました。古代教会においては正統信仰を確認するための手段の一つであったことから、ミラノ(アンブロジウス)典礼や東方教会、特に正教会においては広く現在に至るまで、信仰宣言は、ことばの典礼を終え、未信者を聖堂の外に出した後、奉献文を開始する前におこないます。ちなみにラテン語規範版のローマ・ミサ典礼書の信仰宣言のところには、Symbolumと書かれています。これは、「割り符」を意味するSymbolusから来ることばです。その意味で、信仰宣言は、現在でも、それを唱える者が正当な教会の信仰を持っていることのしるしとされているのです。

 しかし、信条そのもの(一言一句のすべて)が聖書に由来しないことから、「なぜこの非聖書的文言が、ことばの典礼に含まれているのか」と不思議に思う人もいるかもしれません。それに答えるためには、信条が聖書の話を要約していることに注意すべきでしょう。天地創造からキリストの受肉、死と復活、聖霊の派遣、教会の時代、そして遂にはその再臨に至るまで、信条は救いの歴史の構想全体を貫いて私たちに語っています。私たちは、ひとつの短い信仰告白の中に、創世記から黙示録へと貫かれる説話、つまり創造、堕罪、あがないを抽出しています。しかも私たちは、このドラマの主役である父、子、聖霊という三位なる神のペルソナに鋭敏な目をもってそうするのです。ある神学者は、「聖なる諸書が長く語ることを、信条は簡潔に述べる」と評しています。

旧約聖書における信条
 
そもそも、熱心な祈りの心をもって信条を唱えるという実践は、その根拠を聖書の中に持っています。古代イスラエルは、シェマーという名で知られる信仰宣言の中で自分たちの信仰を告白するように招かれていました。このシェマーとは「聞く」を意味するヘブライ語で、「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:4-5)という祈りの冒頭のことばです。神聖なるこれらのことばは、常に民の心にあるべきもので、子供たちに教えられ、また朝起きたとき、夜眠るとき、家にいるとき、通りに出て行くときというように一日を通して定期的に唱えられるべきものでした(申6:6-l0)。このユダヤ教の信仰宣言たるシェマーにおいて、神を、やみくもに主であると信じるようにと言われているのではなく、神が主であることは前提のこととして、全身全霊をかけて神なる主を愛するようにと言っている点は重要です。聖書において信じることと愛すること、そして知る(理解する)こととは互いに関係し合っているからです。

 シェマーは、イスラエル周辺の人々に一般に知られていたこととは違って、まさに一種の異なる世界観を語っていました。いにしえの近東の人々は、多神教的な世界観を持っていました。つまり、彼らは多くの神々が存在することを信じ、各部族あるいは民族ごとにそれぞれ固有の神々を有し、彼らはその神々を鎮め、憂いのないようにする必要がありました。この見方からすると、宗教とは典型的に部族的であったり民族的であったり、あるいは国家的であったりしました。

 イスラエルを取り巻くこのように色濃い多神教的な環境の中にあって、「私たちの神、主は唯一の主である」ということばは、イスラエルの一神教的信仰を言い表す大胆かつ反体制文化的な表現であったことでしょう。しかしシェマーは、古代ユダヤ人にとって、どれだけの神々が存在するのかという問いに対する単なる抽象的見解ではありませんでした(そもそも彼らにとって神は唯一なのです)。ユダヤ教的一神教には、いうなれば反体制文化的な激しさがありました。なぜならその一神教は、単に唯一の神がいるということのみならず、この唯一の神がイスラエルと特別な契約を結んでいるということも明示していたからです。言い換えると、イスラエルの神は、単に世界の神々の中の一つの神ではなく、あらゆる民族の上に君臨するまことの神だったのです。したがって、ユダヤ教的一神教は、例えば、エジプト、カナン、バビロニアの神々の化けの皮を剥ぎ、それらの神々が実は何であるのか、すなわち偽りの神々であって神格を全く有していないことを彼らに示しました。そうです。イスラエルの神こそ唯一の神だったのです。

 そこで私たちのシェマーであるミサのときに唱える信条を確かめなければなりません。いにしえのシェマーと同様、今日における私たちの信条もまた反体制文化的なメッセージを包含しています。それは、現代の俗世界で普通に教えられていることとは違い、ある種全く異なる人生観、世界観を語っています。私たちの時代は相対主義的な時代と言われますが、その相対主義とは、確固とした道徳的真理も宗教的真理も無ければ、絶対的な正しさも間違いもないという見方なのです。相対主義的世界観は、人がどんな神を信じようとも、人がどういう人生の選択をして生きようとも全く構わないと主張します。つまり人生には真の意味などないのだから、各人が自由に自分の道徳的・宗教的価値観を作り上げて、好き勝手に生きるべきなのだというわけです。

壮大な戦い
 
この現代にも蔓延る刹那的で「何でもあり」という文化的環境にあって、信条は、私たちを明確な現実の上に立たせるものであり、私たちの信仰と人生における選択とが関係し合っていることを私たちに思い起こさせるものです。信条は、天地創造から今日教会が担う聖化する使命の源であるキリストのあがないのみ業へと進展していく道筋を語りながら、大胆にも人類史全体に対する話の枠組みを構成しているのです。言い換えれば、信条は、人生には筋書きがあり、私たちが今現在存在するのには当然の理由があると教えているのです。信条は、天地万物が、単なる偶然として今あるのではなく、唯一のまことの神である「天地を造られた方」によって在らしめられたのであり、神のご計画に従ってある方向へと動いていることをはっきりと示しています。また信条によれば、この神のご計画は、私たちに幸福と永遠の命への道を示すために、「人となられた」神の子である「唯一の主イエス・キリスト」において完全に啓示されたことになります。

 また信条は特に、いかにしてイエスが「私たち人類とその救いのために」、また「罪の赦し」をもたらすために来られたのかに触れています。私たちは神によって救われ、神から罪をゆるしてもらう必要があると認めること自体、キリストの到来以前の私たちの状況が何かひどく険悪なものであったことを物語っています。それは、サタンとその手先が神に逆らったその起源と、いかに彼らが楽園にいたアダムとエヴァと残りの人類を堕落させて神に逆らう者たちの仲間にしたかということを指し示しています。このように、信条の物語は、世の初めから怒涛のごとく湧き起こる激烈な戦いを暗黙のうちに伝えています。それは、善と悪、神と蛇(創3:15; 黙12:1-9)、アウグスティヌスが「神の国」と「人間の国」と呼んだもの、そして教皇ヨハネ・パウロ2世が「愛の文明」、「いのちの文化」と「死の文化」と呼んだものの間にある戦いです。

 信条は、選択に正否の別はないと言い、私たちが何を信じようと、どう生きようと問題ではないという現代の相対主義的神話に私たちをくみさせはしません。信条は、私たちの人生の終わりに、「生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られる」主イエス・キリストのみ前に立たなければならないことを思い起こさせます。その時、私たちの人生のあらゆる選択は、神が裁きをおこなうそのみ前で秤にかけられ、私たちがいかに生きたかに従って、正当な報いまたは罰が与えられることになるのです。

 教会の信仰の真理は、この壮大な苦闘において、私たちをいい加減な傍観者のまま放ってはおかないのです。その意味で信条は、私たちがこの戦いのどちら側に付いて戦うことにするのか選び取るようにあえて要求しているのです。私たちは、確かな正も否もないと考えさせようとするこの世の君主に従うことにするのでしょうか。あるいは、神の御心を十全に生きること、いいかえれば真理と正義、いつくしみと愛に生きること、それゆえ終わることのないみ国の幸福、真の平和(シャローム)へと私たちを導かれる天地の主にのみ従うことに決意しているでしょうか。私たちは、ミサの信条において信仰を告白するとき、公に全会衆と全能の神のみ前に立って、イエスとともに信条の旗を立てているのです。私たちは、世俗のように生きるのではなく、「私は唯一の神を信じます・・・・・・」と、一心に主に忠誠を誓うように励みますと荘厳に宣言するのです。このように信仰宣言において、私たちは単なる決まり文句を適当に唱えるだけで終わってよいわけではありません。

 信仰宣言、それは、間違いなく神と私個人との契約の確認に他なりません。善か悪か、祝福か呪いか、光か闇か、正義か不法か、希望か絶望か、真理か偽りか、賢明か無分別、愛情か冷酷さ、いつくしみか軽蔑か、私たちは信条の宣言において、自分の生き方が真に神の側に立つものであることを約束し続けるのです。これは、言い換えれば、キリスト信者が洗礼の時に行った宣言を、日々自分のものとし続ける必要があるということを意味しています。実に、夫婦が常に結婚の誓いに生涯忠実であり続けるように約束を確かめ合う必要があるように、司祭が常に良き牧者にかたどられる歩みを忠実に続けていくことができるように約束を更新していく必要があるように。私たちはそうし続けなければ、実に薄情で不信仰であるがゆえに、簡単に道を外れてしまうのです。こうして、私たちはこの後、感謝の典礼において神の神秘、命に与ることができるのです。Lex orandi, Lex credenda, Lex vivendi(祈りの法は信じる法であり生きる法である)という格言を思い出すべきです。正しく祈る人は正しく信じる者であり、それゆえ正しく生きることができるのです。

信じることの二つの側面
 
しかし、なぜ私たちは毎週同じように信仰告白を繰り返す必要があるのでしょうか。なぜ日曜日ごとに教会に来ては、「はい、私は今まで通りこれを全て信じます」と言う必要があるのでしょうか。信条の最初にあって、信仰の様々な表明を結びつけるキーワードが、ミサの中で毎週信条を復唱することについての意味を浮き彫りにしてくれます。そのキーワードとはCredo「私は信じます」です。

 『カトリック教会のカテキズム』によると、信じることには二つの側面があります。まず、信じることは知的な何ごとかです。それは「神が啓示されたあらゆる真理への自由な同意」です。[1] これは、信条において最も明白な側面です。私たちは、「神は唯一」であり、イエスは「神の独り子」であって、亡くなってから三日目に復活したことを「私は信じます」と断言するのです。また私たちは「聖霊」と「唯一の、聖なる、普遍の、使徒継承の教会」を信じ、私たちの知性は教会が公式に教えるすべての事柄において、それらに同意するのです。

 その一方で、信仰にとってもっと根本的なのは、それが「神への人格的な帰依」であるということです。[2] 「確かに信じる」ことを表すヘブライ語 amanは「アーメン」という語の語源なのですが、まさにこの一語がそのことを表現しています。この語は、人が別の何ものかに拠って立つことを意味していると理解することができます。[3] 言い換えれば聖書の観点からすると、神を信じることは、単に神が存在するという知的信念だけを表すのではなく、自らの人生を一人格として神に委ねることをも意味しています。それは、いかに神がまことに自分の人生の礎(いしずえ)であるかを表現しているのです。


[1] 『カテキズム』150項。このことを、客観的な事柄を信じること、すなわち対象としての信仰fides quae crediturと言います。

[2] 同上。これを実存適応答であるところの信仰、態度としての信仰fides qua crediturと言います。

[3] ヨゼフ・ラッツィンガー『キリスト教入門』(小林珍雄訳、1973年、エンデルレ書店)23, 25-27ページ参照 [Joseph Ratzinger, Introduction to Christianity (San Francisco: Ignatius Press, 1990), p. 39]。

 
 
この信仰の「知的」ならびに「人格的」な二つの側面の違いは、数学の方程式と結婚の違いのようなものです。ある人が「2+2=4だと信じる」と言うなら、その人は、この声明は真実だと思うと言っているわけです。しかしながら、夫が自分の妻に「ねえ君、僕は君を信じているよ」と言うとき、彼は単に彼女が存在することを信じていると主張しているだけではありません。彼は、「僕は君を信じているよ・・・・・・僕は君に信頼しているから・・・・・・僕の人生を君にささげるよ」と言っているのです。

 同様に、私たちが信条の中で「唯一の神を信じます・・・・・・」と言うとき、全く人格的な何事かを私たちは表現しているのです。単に神が存在すると断言する以上に(もちろん、そうしてもいるのですが)、私たちは自分の全生涯を全く自分たちとは異なる唯一の方に委ねるとも言っているのです。このようなわけで、私たちは日曜日ごとにミサで信条を復唱するのです。ちょうど夫婦がお互いの信頼と献身を誓い合い、普段からお互いに「あなたを愛している」と語り合うように、主に身をささげ、全生涯を委ねること、すなわち まさに主を「信じる」ということを何度も何度も愛情を込めて語りかけながら、私たちは信条において主への献身を毎週更新するのです。

 このような心から信じるということの聖書的な意味を思うとき、信条とは、上の空で口にする古い教義宣言ではないことがはっきりとわかります。信条の「私は信じます」は、毎週、ますます私たちの生活を、また人生そのものを神に委ねるようにと私たちを招いているのです。このことは、
「私の生活の中心に実際のところ誰がいるのか。私は実際のところ誰に信頼を置いているのか」と問いかけるよう私たちに要求しています。信条の諸表現と直面するとき、私たちは、
「私は本当に一生懸命に神の御旨を追い求めているのか。それとも、自分自身の願望、夢、計画を優先して自分の思いを第一に追い求めているのではないか」と自問することができます。
「私は本当に自分の生活を主なる神に任せているだろうか。それとも、私の生活には、イエスの道にそぐわない領域があるのではないか」。
「私はみ摂理であるイエスのご加護に自分の心配事を委ねているだろうか。それとも、私は自分で自らの人生をコントロールすることを放棄して、神にもっと信頼することを恐れているのではないか」。
私たちの中に完全な信仰を持つ人は一人もいませんが、私たちが信条を唱えるとき、私たちは神への信頼を育みたいという願望、つまり私たちの人生をよりいっそう神に委ねたいという願望を表現しているのです。

 私たちが神以外の何事かあるいは何者か(私たちの能力や地位、計画、財産、経歴、政治家、友人)に全幅の信頼を寄せることは愚かなことであり、落胆に終わることであるのかもしれません。私たちが全幅の信頼を寄せるに値するのはただ神のみです。イエスは次のように言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタ6:33)。「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」(ルカ18:29)。

 『カテキズム』はこの点を次のように指摘しています。「キリスト者の信仰は、神への人格的な帰依と神が啓示された真理への同意ですから、だれか一人の人間を信じることとは違います。全面的に神に信頼し、神が語られることを固く信じるのは、正しく、よいことなのです。神でないものをこのように信じることは空しく、誤っています。」[4]私たちは、「あなたにとって私は何者だというのか」(マタ16:15参照)というイエスのからの問いに、どれほど的確な答えを持っているでしょうか。私たちは、ミサ聖祭において教会が証している神である方を自らの人生の主として選び直すように、いつも新たにその方への信仰を宣言するように求められているのです。毎日、毎週、毎月、毎年。


[4] 『カトリック教会のカテキズム』150項。

肉(からだ)を受け人となられた
 
使徒信条やニケア信条の具体的な中身に関しては、教義学や教父学の専門家の方々が著作を刊行されているので[5]、細かい説明はそれらを参考にしていただくとして、ここでは一つの語彙と所作についてのみ簡単に述べたいと思います。現在の信条は、その叙述の中に、イエス自身の受胎についてのさらなる重要な神学用語を留めています。英語のミサの古い翻訳では、御子のことを次のように述べていました。「聖霊(の力)によって、おとめマリアより生まれ、人となられました」[6] と。新しい英語版のミサ式次第は、さらに厳密にミサのラテン語規範版を反映しています。というのも、その原典が、「神の御子が私たちの救いを実現するために人性を取られた」[7] ことを示すラテン語の神学用語incarnatus(受肉した)を内包しているからです。ヨハネ福音書の表現では、「ことばは肉となった」(ヨハ1:14)です。したがって、私たちは目下、御子は「聖霊によって、おとめマリアより肉を受け人となられた」[8] と言っています。これはより的確な翻訳であるだけでなく、信条で表現されている神学的な要点をより正確にとらえていると言えます。神の御子は、おとめマリアから生まれただけではありません。御父と同じ実体を持つ永遠の神の御子は、実際に人間の肉をとったのです。まさに「私たちが神化されるために神である方は人となられた」[9]のです!しかも弱さと貧しさのうちに(ルカ2:7参照)、謙遜な女性と清貧で神の目に正しく生きる男性の下に(ルカ1:38, マタ1:19参照)真に人となられたのです。

このことはキリストの受肉の神秘が、私たちの現実全てに浸透していることを意味しています。つまり受肉の神秘は、私たちは皆、無条件で、無償で御父から大切なものとされていること、愛されていることの証なのです。どのような人間的な地位や名声、職業や身分とも全く関係なく、神は私たちの全てとなって下さったのです。私たちはこのような方への信頼を告白するのです。それゆえ典礼書は、「聖霊によって処女マリアよりからだを受け人となられました」と唱える際に、お辞儀をする(ラテン語規範版では降誕節などは跪くよう指示している)よう求めているのです。


[5] たとえば、阿部仲麻呂『使徒信条を詠む ─キリスト教信仰の意味と展望』(2021年、教友社)、小高毅『クレド〈わたしは信じます〉―キリスト教の信仰告白』(2010年、教友社)などを参照。

[6] By the power of the Holy Spirit he was born of the virgin Mary, and became man.

[7] 『カテキズム』461項。

[8] 英訳は [The son] by the Holy Spirit was incarnated of the Virgin Mary, and became man.ラテン語規範版は、incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria Virgine, et homo factus est. 「おとめマリアより『肉』を受け」が神学的には適訳と考えられますが、日本人の感性からすると馴染みのない表現になるため、日本語では「おとめマリアより『からだ』を受け」と訳されています。

[9] アタナシウス『ロゴスの受肉』54(3)、小高毅訳『中世思想原典集成2 盛期ギリシア教父』(1992年、平凡社)134頁参照。

  続いて信条において、受肉の神秘への信仰告白と対をなす形で主の過越の神秘への告白がなされます。人類の同伴者であるイエスは、受難と死に際して、私たち一人ひとりの苦しみをともに担われた方として示されるだけでなく、復活において私たちを永遠の命に伴われる方としても示されています。キリスト教の信仰の中心は、まさにキリストが私たち一人ひとりのために死んでくださったことだけでなく、私たちのために復活されたことを信じることなのです!

次回は第10回 「ことばの典礼」(その5) 共同祈願です。


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