青に翔べ③

 第四章

「ちょっと、いいですか」
 十一月の中頃、知華の診察に付き添っていた僕と知華の両親は、診察室を出ようとしたときに呼び止められた。知華は栄養剤の点滴を受けることになっていたから、渋々看護師に車椅子を押してもらって隣の部屋に移った。
 医師と、知華の両親と、そして僕の四人が、診察室に残された。隣の部屋から丸椅子を追加で持ってきて、それぞれ座る。
「知華さんの今後についてですが」
 カルテを眺めながら、医師はそう切り出した。
「まず現状としては、翼の成長は止まっていません。成長し続けています。ということはつまり、知華さんの体に掛かる負荷は増し続けている状況です」
 ここまでは、さっきの診察の後に知華にも説明されたのとだいたい同じだ。夏に発覚した知華の翼は、十一月になった今でも成長し続けている。それが知華の体に負荷を掛け続けていることは、僕も知華の両親も理解はしている。
「あれは、どれくらいまで成長するものなのですか」
 知華のお父さんが尋ねる。
「分かりません。個人差がありますので」
 医師は淡々と答えた。これまでに何度も繰り返されてきた問答だった。
「今日は知華さんの、今後についてのお話になります」
 医師は真っ白いコピー用紙を一枚取り出して、クリップボードに挟み、僕や知華の両親から見えるように角度をつけて持った。ボールペンで『十一月』と端の方に書き込む。
「今が十一月ですね、まあもう半分過ぎましたが。翼の成長のペースと、知華さんの体力がどれくらい持つかを考えると、三月末から四月初めくらいまででしょう」
 十一月と書いたところから、ボールペンが黒い線を、紙の反対側まで引く。引いた先に『三月末・四月』と書き込まれた。
「もちろん、それまでに翼の成長が止まる可能性がないわけではありません。ただ、止まるという確証があるわけでもないので、仮に成長が止まらなかったということにして話します」
 医師は眼鏡を少し持ち上げて、僕たち三人を見た。
「春までに翼の成長が止まらなかった場合、知華さんの命を優先して、外科手術で翼を体の外に出します。止まった場合でも、翼が外に出ることがなかった場合は同じです」
 知華のお母さんが、はっと息を呑むのが聞こえた。医師は聞こえなかったかのように言葉を続ける。
「ただ、この手術については、安全とは言い切れません。そもそもの鳥類化症の発症事例が少ないことに加えて、翼が成長しすぎて命が危なくなったことは、国内事例はゼロです。海外では数件ほど似たような事例がありましたが、いずれも翼が臓器に癒着するなどして、術後に死亡、あるいは重篤な後遺症が残りました」
『手術』『死亡あるいは後遺症』と紙に書き込まれる。
「翼が自然に体外に出た場合は、今のところ特段に後遺症や死亡例は報告されてはいません。現状出来ることは、翼が自然に生えることを祈りつつ、知華さんの体調に注意しながら、残りの日々をなるべく良い思い出になるように過ごすことですね」
「翼が生えた後って」
 僕は思わず声を発した。知華の両親と医師と、三人の視線が一斉に僕に向けられる。
「翼が生えた後って、どうなるんですか」
 息を吸い直して、僕は尋ねた。知華の両親も、おそらく気になっていることだろう。
「鳥類化症で、翼が生える事例は、今までも何件もあるんですよね。でも、翼が生えている人を、街中で見たことはないんです。翼が生えた後は、どうなっているんですか」
 眼鏡の奥で、医師が目を細めた。
「――隔離施設に入ります」
 隔離。普段聞き慣れない言葉を、僕は小さく繰り返した。
「鳥類化症を発症した方だけを集めた、隔離施設があります。国家機密的な施設ですので場所はお教え出来ませんが、翼が生えている方は全国からその施設に集められて、余生を過ごしていただいています」
 医師が説明を続ける。
「知華さんもゆくゆくは、その施設に入ることになります。翼が生えた人間がそこらを歩いていたら、パニックを引き起こしかねませんので、施設から外に出る機会や、外部の方と面会をするような機会は、一切ありません」
「そんな」
 知華のお母さんが、小さく声を発して、ハンカチで口を押さえ、それきり黙ってしまった。
「……生えた翼を、取ってしまうことは出来ないんですか。腫瘍などが出来たら、切除するでしょう。それと同じことは、出来ないんですか」
 ここまで沈黙していた知華のお父さんが尋ねる。医師は表情ひとつ変えなかった。
「翼は、あくまで健康な体の一部です。それを切除することは、医療行為として過剰になりますので、出来ません」
 医師はクリップボードを机に置き、僕たち三人の顔を順々に見た。
「自然に翼が生えたら、そのすぐ後から。翼が生えなくても、春には手術をして、その後。いずれにしても、知華さんが隔離施設に入らずに済むことはありません。知華さんと一緒に居られるのは、長くてもあと四ヵ月半になりますから、それまでの間は後悔のないように過ごしてください。このことはくれぐれも、知華さんには内密に。他の方にも絶対に言わないでください」
 知華のお母さんが、いつから泣いていたのか分からない。一人娘との時間が、もう半年も残されていないと告げられて、つらくない親がどこにいるだろうかとも思うが、彼女は声を押し殺して泣いていた。色の白い頬を、涙のしずくが伝っていく。見ると、知華のお父さんも同じように泣いていた。
 僕はしかし、涙の一滴も出なかった。そうか、知華とはあと四ヵ月半しか一緒に居られないのかと、納得はしていないにせよ受け止めている自分がいることにも驚いた。知華には絶対に言わないようにしよう、悟られないように気をつけよう、と三人で話し合ってから、僕たちは診察室を出て、知華を迎えに行った。

 栄養剤の点滴を受けた知華は、体が楽になったのか、しばらくの間は元気そうにしていた。僕をたびたび家に呼び出しては、あれが食べたいこれが飲みたい、と些細な我儘を言って、僕がその通りに用意が出来ないと、どうして出来ないの、と小さな癇癪を起した。多少は子ども返りをしているのかもしれなかった。
 僕はまた、学校と知華の家と自宅とを、自転車で走り回ることを繰り返した。授業が終わればすぐに学校を飛び出し、夜遅くまで知華に付き添って、日付が変わる頃に自宅に帰り着いて課題やレポートを片付け、短い睡眠の後に翌朝また学校に行くまでに知華に会いに行く。季節は冬に近づき、自転車のハンドルを握る手がかじかんだが、手袋を買いに行っているだけの時間も取れなかった。
「柊生、中之島に行こうよ」
 十二月に入った頃、知華がベッドに横になったまま言った。疲れて回らない頭で僕は考えた。
「なんで、中之島?」
「イルミネーションが見たいから。ねえ、行こうよ柊生。柊生が車椅子を押してくれたら、私も行けるでしょ?」
 中之島の川べりの公園で、毎年冬になるとイルミネーションが行われていることを、僕はようやく思い出した。
「今は行けないよ。寒いし、向こうに居るときに何かあったらどうするの」
「何かって、何?」
「例えば、具合が悪くなるとか、翼が生えるとか」
 僕は半分、意識が朦朧としていた。ここ数日、まともに寝た記憶がない。それでも、今言ったことでは知華が納得はしないと、頭のどこかで分かっていた。
「明日、診察の日だろ。そうしたら、帰りに河原町に行こう。イルミネーションはないけど、ちょっとクリスマス気分になれるから」
 知華は納得していない様子だった。点滴でいくらか良くなっていた体調が、また不調になりつつあるのも、彼女の不機嫌に拍車を掛けていた。
「柊生はいいよね、どこにだって自由に行けるから」
 棘のある口調で知華が言った。
「私なんて、車椅子じゃないともうどこにも出掛けられないのに。柊生ばっかりずるいよ」
「ずるいって何だよ」
「柊生は私みたいに体がつらいことも、ご飯が食べられないことも、学校に行けないこともないじゃない。柊生は健康で、何でも出来て、なのに私はそれが出来ないなんて、不公平よ」
 僕はもう言葉を返す余力がなかったが、知華はまだ言葉を続けた。
「最近、お父さんもお母さんも何だかよそよそしいの。きっと、私についてお医者さんから言われたのを、何か隠してるんじゃないかな。柊生、何か知らない?」
「知らないよ」
「嘘つき。この前、私が点滴を受けている間に、お医者さんと何か話していたんでしょう?」
 黙って首を横に振った僕の、ベッドについていた左の手の甲を、知華は思い切りつねった。
「痛いよ、知華」
「私はもっと痛いわよ、心が。柊生もお父さんもお母さんも、お医者さんも、私に何か隠し事してる。私ばかりずっとひとりで、仲間外れにされて、イルミネーションも見に行けないのに」
 知華が泣いていることに、僕は気づいた。気づいたけれど、彼女の頬を伝う涙を拭ってやろうと手を伸ばすと、その手をはたかれたのですぐに引っ込めた。
「柊生のばか。ばかばか。私のこと、本当に大切に思ってくれているの? 私には柊生しかいないのに」
 僕はもう返す言葉がなかった。知華の手が僕の手をばしばしと叩くのを、黙って受け止めていた。

「隠し通せませんよ。施設に入るってこと」
 翌日の診察後、僕は医師を呼び止めた。
「知華も何か気づいてますし、僕や知華の両親も、隠し続けるのはつらいです」
「分からないわけではありませんが、伝えない方が知華さんのためかと思いますよ」
「知華のためなら、逆に伝えてしまった方がいいんじゃないですか」
 寝不足の頭でやっと考えて、僕はそう返す。医師は目を細めた。
「知華さんの絶望を、貴方が受け止められるんですか。何も知らない方が、幸せだとは思わないんですか」
「思いませんよ。知華には知る権利があります」
「知華さんが誰かに話してしまう可能性は、考えないのですか」
「知華なら言いませんよ。翼のせいで学校も休んでいるから、今は僕くらいしか、外の人間との交流なんてないんですから。残りの時間を伝えて、その中でどうすれば一番幸せな過ごし方が出来るかを、二人で考えた方が良いと思うんです」
 医師はしばらく黙っていたが、やがて、僕から知華に伝えるということを条件に、知華に隔離施設について話すことを承諾した。
 帰りに僕と知華は、知華のお父さんが運転する車を、四条河原町で降りた。知華の車椅子を押しながら、土曜日の雑踏の中を進む。
「河原町ってこんなに人が多かったんだね」
 繁華街に久しぶりに出てきた知華は、車椅子に座ったまま、観光客にでもなったように辺りをくるくると見回した。
「車椅子だと視点が低いから、余計そう思うのかもしれないよ」
 知華の車椅子を押しながら、僕は言葉を返した。知華は京都生まれの京都育ちで、四条河原町なんて歩き慣れているだろうに、視点が変わるだけでこうも楽しめるものなのだろうか。
 いや、違う。知華は自分なりに、この状況でも毎日を楽しもうとしているのではないか。数少ない、僕と一緒に外出する機会を、喜んでいるのではないだろうか。
 知華の行きたいところへと、僕は車椅子を押して歩く。クリスマス気分な雑貨屋の、キラキラと輝く棚と平台の間を、車椅子をぶつけないように慎重に進んだ。手のひらに載るほどの小さなスノードームを取り上げて、知華はしきりに上下をひっくり返し、球体の中の雪を模したラメが舞い散る様子を眺めた。知華が飽きるまで、僕はその場で待機した。
 とてもではないが、僕はこんなに楽しそうにしている知華に、あと四ヵ月で君は隔離されてしまう、と告げられなかった。コーヒーショップでジンジャーブレッド風味のラテを一杯注文して、知華に飲みたいだけ飲ませてあげて、半分以上残って冷めたラテを僕が飲む。
「クリスマスプレゼントは、何か欲しいものある?」
 僕が尋ねると、知華は首を横に振った。
「柊生が居てくれたら、別に何もいらないかな」
「そう」
「だって柊生と一緒に居る以上に、楽しいことってないから」
 夏から比べてだいぶ痩せてしまった知華の笑顔が、僕には痛々しくも眩しく見えた。

 その晩、知華を家に送り、彼女が寝ついたのを見届けてから、僕は知華の両親に話しをする時間を取ってもらった。
「知華と僕とで、二人で暮らしたいと思うんです」
 僕がこう切り出しても、二人はしばらく、顔を見合わせて黙っていた。二人が黙っているので、僕も何も言い出せずに黙った。
「……それは、知華には話してあるのかい」
 しばらくの沈黙の後、知華のお父さんが尋ねて、僕は首を横に振った。知華には話していなかった。知華を寝かしつけている間に、僕がひとりで考えたことだった。
「知華は、僕と一緒にいることが一番楽しいと言ってくれました。もちろん彼女がどうしたいかを聞いてからですけれど、でもその方が、僕と知華が一緒に居られる時間を、長く取れると思うんです」
「君に負担が掛かる。君に知華の世話を頼まないといけなくなる」
「それは承知の上です」
 知華のお父さんとお母さんは、また顔を見合わせた。
「……あなたの親御さんとも、話をしないといけないわね」
 お母さんが言う。僕は頷いた。それも分かってはいた。
「帰ったら、うちの親にも話します。それでオーケーが出たら、話を進めても構いませんか。……時間が、ないんです」
 時間がない。それは、僕も、知華の両親も、重々分かってはいることだった。そして、こんな言葉を使って念押しをする自分は、ずるいとも思った。

 知華の家から自宅まで、自転車を飛ばして十分と少し。深夜で車通りも少ないから、昼間に走るよりもスピードは上がる。
「おかえり、柊生」
 もう日付も変わろうかという時間なのに、僕の両親は二人ともリビングで起きていた。僕は冷えて真っ赤になった手を、電熱ヒーターであぶって温めた。母が温かいココアを作ってくれたので、僕は手をあぶるのをやめてマグカップを両手で包んだ。
「知華ちゃんの具合はどうなの」
 僕は首を横に振った。両親には、知華が鳥類化症だとは伝えていない。これに関しては口止めされてはいないものの、確実に両親を不安にさせる情報だということは、僕自身も分かってはいる。
「療養施設に入るんだって。一番遅くても、春までしか居られないって言われた」
 父が何か唸った。晩酌を欠かさない父にしては珍しく、今夜はアルコールが入っていない様子だった。
「それで、知華さんは何の病気なんだ」
 僕は返答に迷った。母が、お父さん、と父を窘めようとしたが、父は真っ直ぐに僕を見ていた。
「……鳥類化症」
 隠し通せない。そう思って、僕は正直に言葉にした。母はピンときていない様子だったけれど、父はそれが何か分かっているのか、うん、と深くゆっくりと頷いた。
「それで、知華さんはまだ翼が生えていないんだな」
 父に尋ねられ、僕は頷いた。
「ずっと、体の中で翼が成長していて……タイムリミットが、三月末だって言われた」
「そうか」
 父は腕を組んで、また深く頷いた。母だけが状況を理解しきれないまま困った顔をしていたが、後で説明する、と父が言ってひとまずは受け入れた様子だった。
「父さんの従兄にも、同じことになった人がいてな」
「え?」
「もう何年も前の話だ」
 父が目を細めて、目尻の皺が深くなる。
「柳一郎おじさんを覚えているか」
「覚えてる。……五年くらい前じゃなかったっけ、亡くなったの」
「あの人が鳥類化症だった」
 僕は息を呑んだ。父は言葉を続けた。
「なかなか専門の病院にかかれなくて、ずっと悪い腫瘍だと思っていてな。自分で動けなくなって、食事もとれなくなって。……もう死にかけぐらいになって、やっと専門の先生に診てもらった頃には、翼が臓器に癒着して助からない状態だった。翼を出すための外科手術をしてはみたが、出血多量でそのまま亡くなった」
 父が苦々しい表情をする。
「知華さんがそれだというなら、残された時間が少ないことは何となくでも分かる。翼が生えてこなければ外科手術をする、その期限が、三月末なんだろう?」
「うん」
「それまで柊生は、どうしたいんだ」
 ココアのマグカップを、僕は両手でぎゅっと握った。
「……それまでの間だけでも、知華と一緒に暮らしたい」
 言って、僕はココアの水面を見つめた。
「知華にはまだ言ってないし、最終的には知華がどうしたいかに委ねようと思ってはいるけれど」
「向こうのご両親には?」
「さっき言った。反対はされなかったけど」
 父がまた、小さく唸った。僕はやっと、ぬるくなったココアを飲んだ。
「俺としては構わんが」
 僕は頷いた。
「知華さんが良いと言うか、だな。協力は出来るが、全てが整ってから知華さんが嫌だと言ったら、意味がないだろう」
「うん」
「だから、知華さんにその是非を確認してからだな。向こうのご両親には、俺から話してもいい」
「お父さん」
 母が不安そうに父を呼んだが、父は構いもしなかった。父の両目は、僕をまっすぐに見ていた。静かで、海のように穏やかな目だった。

「知華、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
 翌日、僕はまた知華の家を訪ね、ベッドに横になったままの知華に話し掛けた。僕はベッドの端に腰掛け、知華はスマホでパズルゲームをしながら「なあに、柊生」と返事をした。
「僕と一緒に暮らさない?」
 なるべく軽い調子で、僕は言った。ひと呼吸あけて、知華は「ちょっと待って」と言いながら、ゲームの一時停止ボタンをタップする。そしてスマホを置いて、寝返りを打って僕を見た。明らかに不審なものを見るような目をしていたので、僕は『あ、これは失敗したかもしれない』と思った。
「一緒にって、一緒に?」
 知華に尋ねられ、僕は頷いた。
「一緒にだよ。同棲しないか、って言ってるんだ」
「同棲……」
「まさか、意味を知らないってことはないよね?」
「同棲の意味くらい、知ってるけど、でも」
 知華は動揺しているのだった。僕は返事を急かそうとは思わなかったので、知華が落ち着くのを待つことにした。
 知華はしばらくの間「うそ」とか「私なんか」とか、繋がらない言葉をぼそぼそと漏らしていた。僕はそれに、うん、うん、と小さく相槌を打ちながら、知華が落ち着くのを待った。やがて、知華の表情から険しさが消えて、代わりにちょっと悲しそうにさえ感じられる表情に変わった。
「……冗談だったら、怒るよ」
「僕がそんなつまらない冗談を言うと思う?」
「思わないけれど」
 まだ疑っている様子だった。僕はベッドの上で座る位置をずらし、知華にさらに近づく。
「僕が自転車で、知華の家と僕の家の間を走り回っているよりも、知華と同じところに住んでいる方が、一緒に居られる時間が長いだろう? 知華と過ごせる時間を、なるべく長く、大切にしたいんだ」
 ここまで言ってから僕は、知華がその後隔離施設に入ることになるということを、知華自身に伝えていなかったことを思い出した。僕は少し唸った。父が何か話し始めに唸るときと、少し似ているなと思った。
 知華がゆっくりと体を起こそうとするので、僕は彼女の手を引いて手伝った。だいぶ伸びた髪が、肩からさらりと流れ落ちる。背中側にクッションを差し入れて、知華がもたれられるようにした。
「どうして、そんなことを急に言い出したの?」
「知華が、僕との時間が一番楽しいって言ったからだよ。だから、クリスマスプレゼントのつもりで、僕と過ごす時間を贈れたらと思ったんだ」
「わざわざ、一緒のところで暮らしてまで? 私は今でも満足してるよ、呼んだらすぐ来てくれるし」
「一分一秒も惜しいんだよ」
 僕の言い回しに、知華は少し不思議そうな顔をした。僕は咳払いをした。
「……知華、落ち着いて聞いて欲しいんだけど」
 知華が頷く。
「君と一緒に過ごせるのは、長くても、三月の末までなんだ」
 丸い、透明な知華の目が、いっぱいに見開かれる。言葉を探すように視線が左右に揺れて、
「どうして?」
 やっとそれだけを、知華は言った。こんなことを告知する役目を負ったのは重すぎた、と僕は今更に思ったけれど、後戻りは出来ない。
「……君が、隔離施設に入るから」
 僕の声が震えていた。僕の耳はそれを、他人事のように聞いていた。知華は言葉の意味を呑み込めていないように、かくり、と唇だけで繰り返す。
「知華、君は鳥類化症だろう? 先生に聞いたんだ。翼が生えた人は、隔離施設で過ごすことになるんだって。自然に翼が生えなければ、君を生かすために、手術で翼を体の外に出すことになる。そうでなくても、自然に翼が生える可能性もある。でもその後、知華は隔離施設に入ることになるから、僕たちは手を繋ぐことも、面会さえも出来なくなるんだ。だから、それまでの時間を少しでも長く一緒に過ごせるように、同棲をしないかっていうことなんだよ」
 なるべく正確に、そして当たり障りなく伝えるための言葉を選んだつもりだった。知華がショックで泣きわめく可能性もあった。知華が僕を叩いてくるようなことがあれば、僕はそれを受け止めるつもりもあった。
 しかし、知華は泣かなかった。叩いてもこなかった。ショックで何も考えられなくなったのかと思うほどだった。
「…………」
 痛いほどの沈黙だった。僕の方が泣きたい気分だった。
「……もう、場所は決まってるの」
 やっと口を開いた知華は、そう尋ねてきた。
「同棲の?」
 僕が聞き返すと、知華は頷く。僕は首を横に振った。決めるどころか、まだ候補を挙げることすらしていない。
「だったら、蹴上の辺りがいい」
「蹴上?」
「そうしたら、インクラインが近いでしょ?」
 唐突に出てきた地名を、僕の頭が処理しきる前に、知華はぱっと微笑んだ。
「三月末なのよね、期限。そうしたら、インクラインの桜がきっと見られるから」
「桜……」
「ね、私、柊生と桜が見たい。いいでしょ? それまで頑張るから」
 知華の細く痩せた両手が、僕の手をぱっと握った。僕は返答に困って「なるべく、善処するよ」と返すしかなかった。

『同棲をしたい』という僕の我儘と、知華の『蹴上の付近がいい』という我儘を掛け合わせた、ちょうど良い物件が見つかったのはすぐだった。家賃や敷金礼金、その他引っ越しに掛かる費用は、僕の両親と、知華の両親とで折半してくれることになった。金銭面を心配しなくて済んだのは、僕たちは幸運だったと思う。家族の協力が無くては、絶対に叶わないことだった。
 クリスマスイブの日、僕は車椅子に乗った知華と共に、蹴上駅に降り立った。駅から少し離れたところにしか物件は見つからなかったけれど、それでもいいと知華が言ってくれたので、僕は蹴上駅から続く道を、車椅子を押しながらのんびりと進んだ。インクラインの桜の木はすっかり葉が散って、寒々しい枝を乾いた空に向かって伸ばしていた。
「花を咲かせる準備をしているのね」
 マフラーをぐるぐる巻いた下で、知華が言う。僕は「そうだね」と返して、目元にずり落ちてきたニット帽を片手で直した。桜は知華と同じだ、と僕は思う。翼を大きく伸ばすために、あるいはいっぱいの花を咲かせるために、今は内側で準備をしているのだ。
 築年数のやや古いマンションだけれども、知華は特に文句も言わなかった。リフォームがされて、見た目は築浅のマンションとそんなに変わらない。
 家具家電は最低限しか揃えなかったけれど、ベッドだけはどうしてもダブルサイズのものを用意した。床に布団を敷くよりも、その方が知華の体の負担が少ないだろうと考えてのことだった。シングルサイズを二つ並べようかと思っていた僕の横から、知華は『絶対にダブルじゃなきゃだめ』と口を挟んだので、ダブルベッドを置くことになった。広さのない部屋の中でベッドがかなり場所を取ることになったけれど、置いたばかりのベッドに腰掛けて、知華がやたらと嬉しそうにしていたので、部屋の狭さはもう気にならなくなった。
「ここが今日から、私と柊生の家なんだね」
「そうだよ」
「じゃあ、柊生は帰ってくるときに『ただいま』ってちゃんと言ってね。私が『おかえり』って言うから」
「わかった」
「絶対ね」
 指切り、と知華が手を出してくるので、僕は知華の細い小指に、自分の小指を絡めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、指切った」

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