青に翔べ⑤

 第六章

 三月になった。大学は春休みで、幸い追試もなかった僕は家で知華と共に過ごすことが格段に増えた。手嶋は二科目ほど追試になったと嘆いていた。
 知華は二月よりもさらに、眠って過ごすことが増えた。もう起きているだけの体力も残っていない様子で、食事やお風呂のときだけは起こしてやったけれども、それでも十分ほど起きているのがやっとだった。
「出掛けてきてもいいのに」
 目覚めているほんの短い時間のうちに、知華がそう言ったことがあった。もうほとんどベッドに寝たきりの知華の隣で、僕はだいたい読書をして過ごしていた。
「目を覚ましたときに、僕が居なかったら嫌だろ」
「それはそうだけど」
「いいんだよ、僕は知華の隣に居られたら、それで」
 知華は泣くような笑うような声を上げ、そしてまた眠った。
 二週間に一度だった診察は、二月頃からは毎週土曜日になっていた。知華の両親が車を出してくれるので、僕は知華を起こしてなんとか着替えさせ、車椅子に乗せてマンションの前まで出た。
「もう限界ですよ」
 相変わらず研究者じみている医師は、何度となく僕に言った。
「手術で翼を出すことを、考えてください」
 知華の体が限界を迎えていることは、僕もうすうす気づいてはいる。知華が眠っていることが増えたのも、少ない体力を温存するためだろう。診察や検査の間ですら、知華はうとうとと居眠りすることが増えた。病院から帰ると、着替える前に眠ってしまって、そのまま夜まで起きないこともあった。
 それでも知華自身は、手術で翼を外に出すことを拒み続けた。楽になれることは承知の上で、それでも僕と時間を過ごすことを、彼女は選択した。
 僕は逆に、知華のことを思うと、手術に同意は出来なかった。手術をしても死亡、あるいは重い後遺症が残る可能性があると、秋に医師から告げられたことを、忘れてはいなかった。
 時間は進み続ける。三月も後半に差し掛かったある日の診察で、知華の翼の成長が止まっていることが告げられた。

 三月下旬になると、風に春を感じられるようになってきた。自転車のハンドルを素手で握ってもそれほど冷たくは感じられず、マフラーがなくても問題なく過ごせるようになった。
「桜のつぼみが膨らんできたよ」
 買い物から帰った僕がそう言うと、知華はベッドに横になったまま、薄く目を開けた。
「私が行くまでに、咲くかな」
 小さな声だった。
「咲くんじゃないから。晴れの日が続くみたいだから」
 僕が返すと、知華は嬉しそうに笑って、また目を瞑った。僕は蹴上のインクラインのことを考えた。あそこの桜は、三月末までに咲くだろうか。知華が見たいといった、インクラインの桜は。

 翌日は雨だった。僕は朝食の後、洗濯機を回した。知華はベッドで眠っていて、起きる様子もなかったので僕も起こさなかった。いつかの白いランジェリーは、クローゼットの隅の引き出しにしまったままになっている。部屋干しの洗濯物が生臭くならないように、僕は洗濯機に漂白剤を少し入れた。
 知華が目を覚ましたのは昼前で、僕は洗濯物を干し終えて、ベッドに腰掛けて読書をしていた。
「ありがとう」
「何を?」
「洗濯物、してくれて」
「うん、どういたしまして」
 それだけ言って、知華はまた眠ってしまった。僕は部屋をぐるりと見回して、でも特に何も見つけられなくて、また読書に戻った。
 時間が過ぎていく。僕はなるべく、知華と穏やかな時間を過ごしたいと思った。知華は自分が眠ってばかりいることについて、何も言わなかった。僕も彼女を責めようという気はなかった。
 僕は知華の翼のことを、なるべく考えないようにした。それは考えても仕方のないことであって、考えるのが恐ろしいことでもあった。三月末日まで、もう片手で数えられるほどしか日がない。

 翌日は寒さが戻ってきた。僕は布団に半分もぐったまま、文庫本を開いた。知華が目を覚ましたので、本に栞を挟んで、彼女に高栄養ゼリーを食べさせた。知華は眠そうにしながら、それでも小さなカップに入ったゼリーを全部食べ切った。
 ゼリーを食べ終えた知華は、またうとうとと眠り始めた。僕は知華と片手を繋いで、もう片方の手で本を開いた。知華の手はひんやりとしていて、ハンドクリームを僕が塗ってあげたので、以前よりはずっとしっとりとしていた。
 もうこの手を握ることもできなくなるのかと、僕は本に目を落としたまま、少ししんみりとした気持ちになった。それは卒業式で友人と離れるのとは、また違う感覚だった。卒業してもいつか会う機会があるかもしれないけれど、知華とはもう会えないのだ。いつか医学が進歩して、そうすればまた会えるようになるかもしれないけれど、もうあと数日で、知華とは永遠の別れになる。
 僕はまた、知華の手をそっと握った。知華は何も言わなかった。

 次の日と、その次の日、外はよく晴れていた。気温も上がって、春らしい陽気だった。
「知華、散歩に行かない?」
 僕は知華をそう誘ったけれど、知華は布団に半分埋もれたまま、ゆっくりと首を横に振った。もう散歩に出るだけの体力もないのかもしれなかった。
 僕はカレンダーを見た。明日が三月の最後の日だ。

「柊生、起きて」
 早朝、まだ夜明け前に、僕は突然揺り起こされた。慌てて起きると、知華がベッドの上に座っていた。
「どうしたの、知華」
「インクラインに行きたい」
 僕は目を擦った。
「まだ夜明け前だよ。日が昇ってからにしようよ」
「だめ、今じゃないと」
 僕が何かと理由をつけて止めようとしても、知華は譲らなかった。僕はパジャマを脱ぎ捨てて、適当なパーカーとジーンズに着替え、薄手のダウンジャケットを羽織った。知華も着替えさせて、髪に櫛を通した。靴を履かせて、車椅子に座らせた。
 蹴上インクラインまでの緩やかな上り坂は、日の出前でまだ暗かった。僕は車椅子を押しながら、なるべく早く歩いた。知華は珍しく、眠る様子もなかった。代わりではないが、しきりに「早く」と僕を急かした。朝の冷え切った空気の中を、僕はさらに早く歩けと自分の脚を叱咤した。
 歩道を外れて、砂利と線路の敷かれたインクラインに入る。車椅子ががたがたと激しく揺れても、知華は動じなかった。枕木で揺れるのを気にしながら、僕たちは線路の間を進み、そうして突き当たりの少し手前まで行って止まった。
「着いたよ、知華」
 僕は線路の両側の、桜並木を見上げた。桜は咲いてはいるが、満開には程遠い。今年の桜は少し遅いようだった。インクラインの桜が見たいという知華の希望は、きっと満開の桜だっただろう。東の空が、夜が明けて白くなっていく。
 知華が、車椅子の肘掛けに手を置いた。そして力を込めて立ち上がろうとするので、僕は慌てて前に回って、知華が立ち上がるのを支えた。靴を履かせてきて良かった、と僕は思った。知華のお気に入りの、キャンバス地のハイカットスニーカーが、砂利の上に着地する。よろよろと立ち上がった知華が、五分咲きの桜を見上げた。
「まだ満開じゃなかったね、ごめん」
 僕は理由もなく謝った。桜が満開じゃないのは、僕のせいでもなければ知華のせいでもない。知華もゆっくりと首を横に振って、
「柊生のせいじゃないよ」
 小さな声で言った。朝の冷たい空気が頬を撫でる。
 知華が急に、コートを脱ぎ始めた。
「寒いだろ、脱がない方がいいよ」
 僕が止めようとしても、知華は聞かなかった。何も言わずにコートを脱ぎ、車椅子の上にぽんと放る。そして僕に向かい合ったまま、一歩、二歩と、後ろに、インクラインの奥に向かってゆっくり歩いた。風が吹いて、知華の髪と、彼女に着せたワンピースの裾を揺らす。
「柊生」
「うん」
「連れてきてくれて、ありがとう」
 知華が笑った。ここ数日、ずっと眠ってばかりだった知華の笑顔を見たのは、本当に久しぶりのことだった。
「いいよ」
 僕も微笑んだ。
「だって、知華が行きたいって言ったところには、連れていってあげたいから」
 ひら、と白い小さな花弁が舞い落ちてきて、僕と知華の間を散っていく。
 と、知華が急に背中を丸めた。う、と小さく呻く。
「どうしたの、知華」
 僕が歩み寄ろうとするのを、知華は手を伸ばして制した。う、うう、とまた呻き、ぐっと背中を丸める。
 ――翼が、生えるんだ。
 僕は咄嗟に思った。ぶつ、と何かがちぎれるような音がする。ぶつ、ぶち、ぶちぶち、と音が続いて、その間知華は、何かに耐えるように、小さく声を漏らした。
 知華の丸めた背中が、大きく盛り上がった。ぶちん、と一際大きな音がして、そして知華の背中を内側から突き破り、血飛沫を散らして、大きな翼が現れた。青色と言うにはあまりに深い海のような、瑠璃色の大きな大きな翼が、ぱきぱきと音を立てて左右に伸展していく。色の薄い砂利の上に、霧吹きをしたように赤い飛沫が落ちる。時間にして、数十秒のことだった。
 翼を伸ばしきると、知華はゆっくりと体を起こし、そして僕を見た。彼女の目がきらきらとして、急に生き返ったような、生気に満ちた目で僕を見た。
「柊生」
 知華が僕に手を伸ばす。僕は知華に歩み寄って、その手を握り、そして彼女を抱きしめた。翼が生えた。生えてしまった。瑠璃色をした、宝石のように輝く、美しく悲しい翼を、僕は手を伸ばして撫でた。どうして知華に、知華の背中に、翼が生えないといけなかったのだろう。他にも人間はたくさんいるのに、どうして知華でないといけなかったのだろう。いや、でも知華だからこそ、こんなに美しい翼が生えたのかもしれない。宝石よりも綺麗な、何よりも美しい翼は、知華の背中だからこそ生まれたのかもしれない。
「っ、う……」
 僕はいつの間にか泣いていた。知華の指が僕の涙を拭って、僕は初めて自分が泣いていたことに気づいた。悲しいのか何なのか分からない。知華の翼が自然に生えたことを喜ぶべきなのか、知華と離れ離れになることを悲しむべきなのか、その両方か。
 知華が僕の手を握る。僕も知華の手を握り返した。細く痩せた手は、いつもよりずっと力強く感じられた。
「柊生」
 知華が僕を呼ぶ。僕はうんと頷いた。
「手を離さないで」
 離さない。離すものか。ひとりしかいない、僕の大切な人の手を、離してなるものか。僕はさらに強く、知華の手を握る。ぐっと、知華が僕の手を引いた。何だろう、強く握りすぎたのかな。風がぶわりと吹いて、僕の髪が一気に逆立つ。ばさ、と何かが羽ばたく音がする。
「柊生」
 僕は知華を見た。そして、知華のその翼が、ばさりばさりと大きく羽ばたいているのを見た。飛べそうな気がする、と僕は一瞬思って、まさか、とまた知華を見た。知華が微笑んだ。

「飛ぶよ、柊生」

 瞬間、ばねで引っ張られたように、僕たちは空中に放り上げられた。僕は必死に知華の手を握り、離れないようにとしがみついた。瑠璃色の翼が羽ばたいて、僕と知華を高く高く、空へと連れていく。
「知華!」
 僕が叫んだ声は、どこにも響かずに翼の音に掻き消えた。インクラインが、京都の街の景色が、僕たちのずっと下に離れていく。どこにそんな力が残っていたのか、知華の翼は力強い音を立てて羽ばたき、僕と知華と、二人分の重さを支えた。
 東の空を、太陽が昇ってくる。太陽から逃げるように、知華は西に向かって飛び始めた。僕に主導権はない。知華が行きたいところに飛んでいけばいい。眼下に円山公園が、八坂神社が、鴨川の流れが見える。河原町通を南下して、下京の街が見えてくる。あの辺りが知華の家で、あそこに僕の家がある。街はまるでミニチュア模型のように、どこまでも広がっていた。
「知華、すごいね、知華」
 僕が言ったのが、聞こえているのかは分からなかった。知華は前だけを見ていた。南西に向かって飛んでいく。東本願寺が見えてくる。その先には、白と赤に彩られた京都タワーが見える。
 タワーの周りを、知華はぐるりと、展望台の高さで回った。見下ろすと、街にはまだ人影が少ない。
「柊生」
 知華に呼ばれた気がして、僕は知華を見た。彼女の白い頬が、涙に濡れていた。自由の利かない空の上では、知華にキスをすることも出来ない。
 京都タワーを何周かして、知華は再び、東山の方面に戻り始めた。高度がゆっくりと下がっているのを、僕は眼下の建物の大きさで感じた。羽ばたく音が、最初のうちよりもずっと弱々しく聞こえる。それでも知華は、僕を落とさないようにと、蹴上インクラインの上まで戻ってきた。線路の間に、知華の車椅子がぽつりと置き去りになっているのが見える。
「知華、ありがとう」
 僕が言った直後。がくん、と知華の体から力が抜けた。翼の羽ばたきが止まる。あ、と思う前に、僕と知華は落下し始めた。落ちる。落ちていく。地面が近づいてくる。インクラインの、線路の両側の桜が枝を伸ばしている。五分咲きだった桜が、突然、一斉に花を開いた。桜の中に落ちていく。落ちていく。

 見えたのは、青い空と、瑠璃色の翼だった。


 終章

 目を覚ましたとき、視界に広がっていたのは白い天井だった。僕はゆっくり瞬きをする。どこだろう、ここ。家ではない。知華と暮らしているマンションでもない。
 横を見ると、父と母が座っていた。僕が目覚めたのに先に気づいたのは母で、半分居眠りをしかかっていた父を揺り起こした。父がナースコールのボタンを押す。間もなく、看護師と医師が部屋に踏み込んできて、僕を質問攻めにした。名前は? 何歳? 君のお父さんの名前は? 住所は言えるかい? 今日は何日?
 今日の日付を、僕は三月三十一日と答えた。若い医師は一瞬困ったような顔をして「今日は四月一日だよ」と訂正した。看護師が血圧と脈を取って、正常です、と言った。
「知華は?」
 僕の口から飛び出た質問に、誰も答えなかった。父と母は、医師と一緒に部屋を出ていってしまった。残った看護師も、僕に繋がっている点滴の具合を確認して、すぐに部屋を出ていった。
 白い部屋にひとり残されて、僕はゆっくりと体を起こした。あちこち打ち身をしたように痛むけれど、怪我はしていないらしい。それより、知華はどこに行ったのだろう。僕は知華と一緒に空を飛んで、そしてインクラインの上空に戻ってきて、落ちて、桜が一斉に咲いて、空と翼が見えて、そこまでしか覚えていない。
「柊生くん」
 ガラ、と部屋の引き戸が開いて、知華の主治医だった医師と、知華の両親が入ってきた。
「知華は?」
 僕はまた同じ質問を口にした。医師は何も言わなかった。知華のお父さんが微笑んだ。
「知華は、行ってしまったよ」
「行ってしまった?」
「ああ。知華はもう、行ってしまったんだ」
 知華のお母さんが、僕の手に、白い洋封筒を置いた。やけに軽いそれは封がされていなかった。なんだか痺れるような感覚のする指で、僕は封筒を開け、中身をひっくり返した。
 僕の手の上に、瑠璃色の大きな羽根が一枚だけ、落ちてきた。
 ああ、知華は行ってしまった。もう会えないところに、知華は行ってしまった。
 その羽根は誰の言葉よりも雄弁に、僕がひとりになったという事実を突きつけていた。

(了)


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