青に翔べ②

 第二章

 僕の父親は群馬県前橋市の出身だ。母親は愛知県出身だが、幼いうちに愛知を離れたそうで、あまり話題として聞いたことはない。
「お盆に前橋に行くけれど」
 後祭も終わった頃、夕飯の席で母がそう口を開いた。僕はアジの南蛮漬けを箸で挟んだまま、少し首を傾げる。父は南蛮漬けをつまみに缶チューハイを飲んでいた。
「みんなで行く感じ?」
「どうしようかと思って。お墓参りもあるからあたしとお父さんは行くけれど、柊生はどうする?」
「うーん……」
 片栗粉をまぶして丸ごと油で揚げ、酸味の効いたタレに付け込んだ小アジを咀嚼しながら、僕は唸った。正直なところ、前橋の田舎に行ったところで、僕は退屈しかしないのだ。幼い頃こそ従兄弟たちと山や田んぼのあぜ道を走り回って遊んだりしていたが、さすがにもう、そんなことをする年齢でもない。ゲーム機を持ち込んでもいいだろうが、親戚の年配者たちから『いい年してゲームなんて』と小言を言われるオチも見えている。
「留守番でもいいんだぞ」
 チューハイをぐいぐい飲んでいた父が、少し赤くなった目元で僕を見た。
「俺も柊生くらいの年の頃は、親戚の集まりなんて面倒くさくてたまらなかったからな。去年一緒に行ったから、今年はこっちに残っていてもいいぞ。な、母さん」
 母も頷いて、それに、と言葉を続けた。
「彼女、えっと、知華さんだったか、一緒にちょっと出掛けたりしてきたらどうだ」
 南蛮漬けを食べていたまま、僕はむせた。お父さん、と母が父を窘める。
「構わんだろう、母さん。俺と母さんだって、大学生の頃の夏は海に行ったりしていたじゃないか」
「まあ、そうだけど」
「柊生も同じようにしたらいい。青春というやつだな」
 父さんが笑いながら、新しいチューハイの缶を開ける。僕は以前、両親に彼女がいると伝えたことを少し後悔した。
「……じゃあ、僕は留守番してるよ」
 父の提案に乗るような格好で、僕はそう申告した。父がけらけら笑うので、だんだん恥ずかしくなってきて、誤魔化す代わりに小アジをもう一匹口に入れた。

 八月も中頃、昼過ぎの新幹線で前橋に向かう両親を京都駅まで見送った帰りに、僕は知華と京都タワー下のコーヒーショップで待ち合わせた。
「夏バテしてるのかな、何だか最近ちょっと疲れっぽいんだよね」
 チョコソースをたっぷりトッピングしたコーヒーフラッペを飲みながら、知華はそう言った。僕はアイスコーヒーのストローを咥えたまま首を傾げる。
「最近、ちょっと痩せた? ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。昨日もちゃんと食べた」
「それならいいんだけど」
 落ち合ったこの後、何をするかを僕たちは相談していなかった。知華の両親も、知華を残して昨日から田舎に帰省しているらしい。
「うち、来る?」
 僕がぼそりと言うと、知華は笑った。
「いいの? 柊生の家に行くの、高校生以来だね」
「そうかもしれない」
 バスに乗るほどの距離でもない。僕と知華は連れ立って、炎天下の街を歩いた。知華はサンダルを履いていて、時々地面のゆるやかな凹凸に足を取られてよろめいた。僕は知華と手を繋いで、よろめいた彼女が転ばないように手を引っ張った。
 冷房をかけたままにしていた家の中は、それなりに涼しかった。知華は丁寧にサンダルを揃えて脱ぎ、僕はその隣にデッキシューズを脱いだ。一歩、二歩ほど進んだところで、僕は知華の手を引く。ん、とこちらを見た知華を、腕の中に抱き寄せた。
「柊生」
 腕の中で、知華が小さく僕を呼ぶ。制汗剤の少し甘い匂いがする。心臓がどきどきしている。引き寄せられるように、僕たちはキスをした。柔らかくてしっとりした唇に、何度も啄むように口づける。ここから先に進んでいいのか躊躇っていると、知華が目を開いて僕を見た。
「柊生、いいよ」
 唇が離れた隙に、知華が囁く。僕の腰に手を回して、ぎゅっと抱きついてくる。
「私……柊生になら、初めて、あげてもいいって思ってるから」
 言葉尻を捕まえるように、僕はまた知華に口づけた。

 冷房をかけていても、部屋は暑かった。部屋が暑いというより、僕たちが勝手に熱くなっているだけだった。二年前の夏も僕たちは同じ場所で、あのときはセックスの真似事をしていた。
 ラテックスの膜に包んだ僕の性器が粘膜を擦って出入りするたびに、知華は甘い声を発した。白い体はほんのりとピンク色を帯びて、細い腕と脚が僕を離すまいとしがみついてくる。真似事などではない、本当のセックスを僕たちはしていた。繋がっているところを指先でなぞると、知華はひっくり返った声を発して脚をばたばたさせる。それがあまりに可愛く思えて、僕は知華をまたぎゅっと抱き寄せた。
「ちか」
 僕が呼ぶと、知華が涙に濡れた目で僕を見る。蕩けた飴玉のような大きな目だ。僕は彼女の額にキスをした。繋がったところがきゅんと震える。スパンの短い呼吸の音が聞こえる。知華の額は汗に濡れていた。ごく薄いラテックス一枚に隔てられている以外、僕と知華はすっかりひとつになっている。汗で滑る肌と肌が、触れているところから溶け合うような気がした。いっそ溶け合ってしまえばいいのにとも思った。
 知華がひときわ高い声で鳴いて、僕は膜の中に白いものを吐き出した。呼吸を整えてから、繋がっていたところから抜け出し、水風船のようになったコンドームの口を結んで捨てる。教科書のようなセックスだと思った。知華はベッドにぐったりと横たわっていて、僕は膝立ちのまま彼女を見下ろしていた。
「知華」
 名前を呼ぶと、知華がゆっくりと僕を見る。僕を見て、そして彼女は微笑んだ。
「しゅうせい」
 声はかすれていた。頬に張りついた髪を、指先でそっと払う。知華はゆっくりと、体をうつ伏せにした。反った背中の曲線の真ん中に背骨の凹凸が行儀よく並んでいて、それをなぞった上の方に、左右対称な肩甲骨がある。
 僕はいつかの夏のように、彼女の肩甲骨に指先で触れた。白くなめらかな肌をそろりと撫でて、骨の突き出したところに触れたとき、僕は指先に何かが引っ掛かるのを感じた。
「ん?」
 もう一度、同じところを指の腹でなぞる。知華がくすぐったがって身を捩るので、ちょっと動かないで、と彼女の肩を押さえた。
 彼女の白い背中の、ちょうど真ん中の辺りに、何か小さなとげのようなものが突き出ていた。五ミリにも満たないほどだ。それが指に触れていたのだ。こんなところにとげが刺さっていたら痛いはずなのに、知華は痛がる様子もない。
 僕はそのとげのようなものを、指の爪で慎重につまんだ。引っ張ると、くん、と周りの皮膚が僅かに突っ張る。それに逆らって、爪でつまんだまま引っ張ると、思ったよりも抵抗なく、とげのようなものはゆっくりと抜け始めた。五センチほど外に出たところで、最後にほんの少しだけ引っ掛かる感触を残して抜ける。棒状になっているそれは、僕の指につままれたまま独りでにぱっと開いた。
 鳥の羽根だった。つやのある濃い青色をした羽根が、僕の指の先にあった。
「なに、どうしたの」
 知華がそう尋ねてきたが、僕は返答に困った。僕が困っているうちに、知華はゆっくり体を起こして僕を振り向き、そして僕の指先にある羽根を見て、目を丸くした。
「どこから出てきたの、それ」
「知華の、背中から」
 考えるより前に、僕の口は勝手に答えていた。彼女の手が僕の指先から羽根を引ったくり、珍しいものを見るような顔をしてしばらく眺めていたが、ふと、
「……どうして私の背中から、鳥の羽根が出てきたの」
 そんな言葉を呟いた。呟いた言葉の端に、絶望にも似たものが滲んでいるのを、僕の耳は感じ取った。

 彼女の両親が帰ってくるのを待って、知華はK大学病院にかかった。基本的には紹介状がないと診察は受けられないはずだが、背中から鳥の羽根が出てきたんです、と電話口で訴えると、すぐに病院に来てください、と返答があった。
 鳥類化症ではないか、と僕は思ったが、知華には直接言わなかった。ただでさえ、自分の背中から突然鳥の羽根が出てきたことにショックを受けているのだ。僕の勝手な推測で、彼女をこれ以上混乱させるわけにはいかなかった。
 鳥類化症について専門に研究をしているK大学病院でいくつも検査を受け、最終的には僕の予想した通り、知華に鳥類化症の診断が下った。彼女の体の中には既に一対の翼が発生していて、内側でむくむくと成長しているらしいと、僕は知華から聞いた。
「柊生も一緒に病院に来てくれればよかったのに」
 僕に検査結果の報告をした折、知華はそう言った。
「仕方ないだろ、僕はまだ、君の家族ではないんだから」
 むくれている彼女に、僕はそう返した。いや、そう返すしかなかった。いくら交際しているとはいえ、僕と彼女は現状、赤の他人と何ら変わらない。僕も可能なら知華に付き添ってやりたいとは思ったけれど、身内でもない以上、それは無理な話だった。
 鳥類化症と診断されて、知華は大学を休学した。知華が最近疲れやすいと言っていたのも、体内で成長する翼が内臓を圧迫していることと、翼の成長に栄養を取られていることが原因だった。それを僕に事細かに説明して、彼女はそれっきり、自分の病状のことを話さなくなった。
「柊生が家族だったらよかったのに」
 外で会うと、時々知華はそう零すようになった。そして、以前よりも執拗に、僕と会いたがるようになった。九月になって大学の後期授業が始まったが、僕は授業が終わると、なるべく早く学校を出て、彼女に指定されたカフェや本屋や、あるいは彼女の家に向かうようになった。休学している間の暇を、彼女はよく本屋で潰していた。
 感染するわけでもなく、翼が成長する以外に目立った症状もないが、知華は人の多いところに行くことを徐々に嫌がるようになった。春先に駅前で見た男性のように、突然翼が生えてしまうことを彼女が恐れているのだろうと僕は考えた。
 翼は成長しきらないと出てこないそうだよ、と僕は説明したが、どこまでいけば完全に成長しきったと言えるのかについては個人差があるので、僕にも医師にも、もちろん知華にも分からない。僕の説明は、知華にとって何の慰めにもなっていないようだった。
 知華の両親も、娘が鳥類化症であると診断されたことに、少なからず衝撃を受け、そして娘のケアに心を削っていた。知華の要求に応えて僕が家を訪ねると、お父さんかお母さんの大抵どちらかは家に居て、僕を出迎えてくれた。
「ごめんなさいね、柊生くん。知華が我儘を言っているんでしょう?」
「いえ、そんなことはないですよ」
 知華のお母さんに気を遣われるたび、僕はだいたいそんな感じの言葉で受け答えをした。いつもならそのまま知華の部屋がある二階に通されるけれど、今日は「ちょっと待って」と呼び止められた。
「今度の土曜日に病院に行くのだけれど、もし時間があれば柊生くんも来てくれないかしら。あの子、柊生くんが居ないなら病院に行かないと言って、聞かないのよ。お医者さんには、こちらから言っておくから」
 僕は何か考える前に承諾した。承諾して知華に会って、そして帰宅してから、土曜日は手嶋に漫画を貸す約束をしていたことを思い出した。
『ごめん、土曜日ちょっと都合つかなくなった』
 自室のベッドにひっくり返って、僕はスマホから手嶋にメッセージを送った。これまでに手嶋の都合が合わなくなることはしばしばあったけれど、僕の方から断りの連絡を入れることはほとんどなかった。手嶋はすぐに返事を送ってきた。
『何かあったのか?』
『うん、少し用事が出来ちゃって。漫画、月曜に学校で渡してもいい?』
『いいけど、無理すんなよ。漫画くらい、いつでもいいんだからな』
 僕の方から約束を反故にしたことを手嶋は不審に思った様子だったけれど、特に理由を深く聞いてはこなかったので、僕も詳しくは話さなかった。僕はスケジュール帳の予定の、手嶋との待ち合わせが書いてある上から線を引いて消し、代わりに欄の空いたところに、知華の家を訪ねる時間を書き込んだ。


 第三章

 僕が思っているよりも、知華の状況は深刻だった。
「ここからここまで、この詰まっているもの全てが翼ですね」
 K大学病院の、かなり奥まった建物の中の一室で、MRIやレントゲンの画像を僕に見せながら、担当医師はそう説明した。翼は範囲で言うと、肩甲骨の辺りから腰ぐらいまであった。知華は二週間に一度の間隔で検査を受けているが、検査をするごとに翼が少しずつ大きくなっている、とも医師は説明した。
 僕が説明を受けている間、知華は同じ診察室内のベッドに横になっていた。聞く気がないのか聞きたくないのか、両耳にイヤホンをつけて目を瞑り、音楽か何かを聴いている。知華の両親は娘の態度を注意するでもなく、ただ彼女の腰をさすり、そして嫌がられて手を払われていた。
「痛かったりはしないんですか」
 僕は医師に尋ねた。医師は四十代くらいの男性で、短く刈り込んだ黒髪と銀縁の眼鏡が、いかにも研究者という風な容姿をしていた。
「痛くはないはずです。ただ、内臓や背骨が圧迫されるので、どちらかというと苦しいかと思います」
 医師はそれこそ『雨というよりは雪だと思います』くらいの調子で、淡々と言った。医学部の准教授でもあるという彼は、知華のことも研究サンプルのひとつくらいにしか思っていないのかもしれなかった。そう思うと急に僕は不愉快になって、眉間に皺を寄せて静かな抗議をした。医師は気づいていない様子だった。
「どれくらいまで、大きくなるものなんですか」
 僕は質問を変えた。声のトーンが、先ほどよりも無意識に少し低くなった。医師はちょっと首を傾げて「分かりませんね」と返してきた。
「まあでも、現状でも比較的大きい方かと思いますね。どこまで大きくなるかは、まあ私としては気になるところですが」
 彼を殴り飛ばしたい気持ちになったのを、僕はぐっと抑えた。ベッドの方を見ると、知華はまだ目を瞑っていた。医師は言葉を続けた。
「翼の成長を止める手立ては見つかっていませんので、ひとまず、様子を見るしかありませんね。彼氏さんも、彼女のことを支えてあげてください」
 何をどう支えてやればいいのか、それについてのアドバイスはなかった。
 診察室を出るとき、知華はふらつきながらベッドから立ち上がった。僕は彼女に肩を貸し、診察室から廊下、お会計の待合まで一緒にゆっくりと歩いた。
「あれ飲みたい」
 途中、自動販売機の前で知華は立ち止まった。僕は彼女の仰せのままに、紙パックに入ったいちごオレを買う。そのまま渡そうとすると、知華が少し唇を尖らせた。
「ストローさして」
「いいよ。こぼしたらいけないから、待合に着いてからね」
 待合の合皮の張られたベンチに知華を座らせて、ストローをさした紙パックを渡す。知華は薄い唇にストローの端をくわえて、ちゅ、と音を立てていちごオレを飲んだ。実は知華は朝から何も口にしていなかったのだと、後になって知華のお母さんから僕は聞いた。正しく言うと、朝食を用意しても食べなかったらしい。

 秋が深まる十月頃になってくると、知華はますます、外に出るのを渋るようになった。僕はさらに頻繁に、彼女の家を訪ねた。
 知華は外に出たくないのではなく、動くのがつらく億劫になっているのだった。成長を続ける翼が、彼女の内側で背骨や臓器を圧迫するのだと、医師が言っていたことを僕は思い出した。それでも彼女は、彼女自身のプライドと僕への気遣いのために、苦しいだとかつらいだとか、そんな弱音は口にしなかった。
 僕は大学までの通学手段を、バスから自転車に変えた。かかる時間はそんなに変わらないのと、大学から直接知華の家に向かうとなると、バスでは乗り換えが必要で不便だった。自転車を手配してくれたのは手嶋で、僕が彼女の看病をするために通学手段を変えるのだと言うと、サークルの先輩から中古のロードバイクを貰ってきてくれた。
「お代は? いくらだった?」
 自転車を受け取りながら僕が尋ねると、手嶋は鷹揚に笑った。
「そういうのはいいからさ、それで格好よく彼女さんとこに行ってやれよ。事故だけ気をつけてな」
 手嶋はこういうところが、懐の深い男だった。落ち着いたら何かお礼をさせてくれるよう約束をしてから、僕は自転車を受け取った。
 自宅と大学、そして知華の家を大きな三角形で結ぶようにして、僕は京都市内を自転車で走った。秋が深まって、頬に当たる風がひんやりと感じられるようになっていた。季節を肌で感じるとはこういうことかと思いつつ、こんな形で感じたくはなかったとも思った。
 知華は徐々に我儘をよく言うようになり、僕は断るでもなく彼女の我儘に付き合った。よく考えれば、僕が初めて彼女の診察に同行したときの、あの紙パックのいちごオレも、知華の細やかな我儘だったのだ。知華の我儘はたいてい些細なことで、あれが食べたいとか、この本を読みたいとか、寂しいから会いに来てとか、そんな内容がほとんどだった。知華の我儘は、あくまで僕を自分のそばに置くためのもので、僕もそれを理解してはいるつもりでいた。
「柊生、私の旦那さんになってよ」
 彼女の部屋でベッドに横になったまま、知華は僕に言った。僕は彼女が要望して、そして全部食べ切れずに残してしまったドーナツを齧りながら、ベッドの端に座っていた。時刻は夜の十一時を過ぎた頃だった。
「君の体が楽になったらね」
 ドーナツの欠片を飲み込み、グレーズのついた指を舐めながら、僕は言った。
「そうしたら、二人で婚姻届を貰いに行って、二人で出しに行こう」
「いつになったら私、楽になれるんだろう」
 知華は僕からふらりと視線を外し、ごく淡い桃色の壁紙が貼られた天井をぼんやりと見上げた。ほんの少し先の天井ではなく、もっと遠くの方を見ているのかもしれなかった。
「ねえ柊生、翼が生えたら、私、どうなるのかな」
 聞こえた声は、かすれていた。僕が振り向くと、知華はふいと顔を背けてしまう。
「先生に聞くの、怖いんだよね。どうなっちゃうのかってさ」
「そう、だね」
「柊生は、何か知ってたりするの」
「……いや」
 僕も答えは、持ち合わせてはいなかった。知華はゆっくりとこちらを振り向いて、赤い目元をして僕を見た。
「柊生が知ってるわけないか、私だって知らないんだもん」
 目を細める知華が、無理をして笑っているのは僕にも分かった。分かってはいたけれど、指摘はしなかった。僕は代わりに、ブランケットの外に出ていた知華の手を握った。細い指は、春の頃よりもさらに細くなって、少しかさついていた。
「明日、ハンドクリームを持ってくるよ」
 返事の代わりに僕が言うと、ばか、と小さな文句が返ってきた。

 知華の中の翼は、育ち続けていた。彼女の中に生まれたそれは、確実に彼女の健康を蝕み続けた。
 ハロウィンが終わる頃には、知華はほとんどまともにものを食べられなくなっていた。翼が臓器を圧迫した結果、彼女の胃は小さく委縮して、固形物をあまり受け付けられなくなっていた。プリンやゼリーやおかゆといったものを、少しずつ少しずつ口にしていた。
「病気の人みたい」
 求めに応じて僕がスプーンを持って食べさせると、知華は幼い子どものように笑った。曰く、幼い頃に風邪を引いたときの、すりおろしたリンゴを食べさせてもらったときのことを思い出すらしい。僕は子どもの頃はあまりリンゴが好きではなかったから、彼女の言うことを完全に呑み込むことは出来なかったけれど、プリン食べさせてもらったりしなかったの、と言われるとそれなりに納得できた。
 背骨が圧迫されていることもあって、知華は歩くことも不自由するようになった。彼女は散々自分で歩くと主張して、数歩も進まないうちに転ぶことを何度も繰り返して、そしてようやく車椅子に乗ることを承諾した。それでも僕が車椅子を押さないと嫌だと我儘を言うので、僕は彼女が外出するときには、必ず付き添って彼女の車椅子を押した。


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