青に翔べ①

 第3回京都文学賞応募作品です。一次選考落選のためこちらに供養。頑張ったんだけどなあ。まだまだのようです。

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 僕は手を伸ばして、知華(ちか)の白い背中の少し上にある、左右対称に並んだ肩甲骨に触れた。すべらかな肌の上を、少しかさついた僕の指がなぞると、知華はくすぐったそうに肩を震わせた。
「ここに翼が生えたら、すごく綺麗だと思うんだ」
 真夏の午後四時過ぎの僕の部屋は、窓から西日が射し込んでいる。僕も知華も高校三年生で、まだセックスをする勇気はなかったから、互いに服を脱がせ合って、セックスの真似事のようなことをした。僕は知華の胸の柔らかい膨らみを、痛くしないように両手でそっと包み込んで揉んだ。知華の細い腕が僕の首にしがみついて、薄い爪が僕の背中をかりかりと引っ掻いた。恥ずかしそうな小さな声で、柊生(しゅうせい)、と僕の名前を呼ぶのが、いつも以上に可愛らしく思えて仕方なかった。
 納得するまで二人遊びをして、狭いベッドに一緒に寝転がったとき、僕はふと知華の背中を見た。白く柔らかな曲線を描く背中の、首の付け根より少し下のところに、左右で対になった肩甲骨が浮かんでいた。誘われるように、僕は何度もその骨の盛り上がりと、間のくぼみを指でなぞった。知華は意外と嫌がることなく、ただくすぐったいと笑っていた。


 第一章

 鳥類化症(ちょうるいかしょう)が最初に発見されたのは、一〇〇年少し前のヨーロッパだった。これは人間における突然変異のようなもので、背中に鳥のそれに似た一対の翼が生えるのだという。
 細菌やウイルスが関係しているわけでもなく、遺伝子変異でもないということで、発症原因は未だによく分かっていない。親からの遺伝という説も唱えられたが、結局そうでもないらしい。人によって翼の大きさはまちまちで、飾りのようなごく小さなものから、空を飛べそうなほど大きなものまで、同じ鳥類化症でも差は激しい。根本的な対処法は見つかっておらず、翼が生えてもそのままにするよりないというのが現状だ。
 一パーセントにも満たない発症確率のそれを気にして生活する人はほとんどいないが、発症確率は年月を重ねるごとにじわりじわりと上がり、世界でも特に東アジア圏に発症例が多いことが最近報告された。そう言われても僕たちには、どうすることもできない。感染するわけでもなく、発症する条件があるわけでもない。誰が発症するか分からないロシアンルーレットの中で、僕たちは生きている。

三月半ばの京都駅前は、卒業旅行の学生で溢れている。一ヵ月ぶりの知華とのデートだ。
 僕たちは大学生になった。知華はS大学、僕はH大学に進学して、でも連絡は毎日取り合ったり、定期的にデートをしたりしている。大学の期末試験も終わり、成績が発表されて、僕も知華も単位を落とすことなく次年度に進むことが決まった。
「柊生!」
 遠くから名前を呼ばれてそちらを見ると、バスロータリーの向こう側で知華が手を振っていた。僕も手を振り返す。ベージュのスプリングコートがよく似合っている。
 何をしようと約束しているわけではない。ただ会って、どこかのカフェでお喋りしよう、と知華の方から提案されて、僕がそれを承諾しただけだ。背伸びをしなくていいくらいがちょうどいい。高校で出会って付き合い始めて、もうそろそろ三年になる。
 ぱたぱたと靴音を立てて、知華が駆けてきた。そのままぎゅっと抱きしめる。ふふ、と耳元で笑う声がする。
「久しぶり、知華」
「昨日も通話してたけどね」
「それとこれとは別だよ」
 腕を解いて、代わりに手を繋ぐ。絡めた指と指、合わさる手のひらから知華の温かさが伝わってくる。誰も僕たちに注目する人はいなかった。同じようなカップルは何組もいる。知華の方が僕よりも少し指が細くて、そしてすべすべしていた。
「どこに行こうか」
 僕が尋ねると、知華は「どこでもいいよ」と返した。こんなやり取りはいつものことで、お陰で行先はなかなか決まらないから、どうでもいい話と『どこに行こうか』という問い掛けを混ぜながら、そこらをぶらぶら歩くことになる。いや、こういう時間が実は大切なのかもしれない。
 伊勢丹の文具屋にでも行こうか、と思いついて、僕がそれを言葉に出そうとしたとき。
「うう……」
 どこからか呻き声が聞こえた。思わず僕が辺りを見回す。
「どうかした?」
 そう尋ねてきた知華にも、同じ声が聞こえたらしい。一緒になって辺りを見回す。十数メートル離れたところで、通行人がざわついているのを見つけた。
「あそこだ」
 知華が先を歩いて、僕は彼女に引っ張られるように、そのざわついているところに近づいた。僕たちみたいな野次馬がちょこちょこ集まって、ちょっとした人垣が出来ている。野次馬よりも多い割合の通行人が、人垣の方をちらりと見ながら通り過ぎていく。
 人垣の真ん中にいたのは、若い男性だった。僕たちよりは少し年上だろうか、三〇歳は過ぎていそうな感じだ。その男性が、地面に膝をつき、背中を丸めて唸っている。体調でも悪いのだろうか。人垣からひとりの女性がぱっと飛び出して、声を掛けながら彼の背中をさすり始める。嫌々をするように男性は頭を振って、女性の手を払いのけた。女性が少し距離を取る。
「誰か、駅員さんを呼んできて」
 そんな声が聞こえて、別の誰かが駅の方へと走っていった。僕は男性に注目する。
 ぶち、と音がした。湿り気のある何かがちぎれるような、あるいは太いゴムが切れると、似たような音がするかもしれない。ぶち、ぶち、と音が立て続けに聞こえて、その隙間に男性の苦しそうな声が挟まる。知華が僕の手をぎゅっと握る。ぶちぶち、と音の間隔は短くなっていき、そして、ぶつん、と一際大きな音がして、
「ああああああッ!」
 男性がぐっと仰け反った。ぱらぱら、と何か飛沫が散るような音がする。男性が再び背を少し丸めて、そして僕たちは何が起きたのか気づいた。
 男性の背中には、一対の翼が生えていた。片方がノートの見開きくらいの大きさの翼が、右と左に生えている。色はスズメのような茶色と白のまだらで、あちこちに赤い染みがある。それは血液なのだろうと、僕はすぐに気づいた。血染みの他にも、小さな肉片のようなものも付着している。
 その翼はたった今、その男性の背中の皮膚を破って、体の中から飛び出してきたのだった。ぱらぱらと何かが散る音は、血飛沫が地面に飛び散った音だった。
「鳥類化だ」
 誰かが言った。そのあとに、カシャ、とシャッター音が聞こえて、僕の隣にいた人が男性にスマホを向けていた。何人かが同じようにスマホを向けて写真を撮り始め、そしてちょうど同じタイミングで、数人の駅員が人垣に飛び込んできた。カメラを向けないようにと叫びながら、野次馬を散らし始める。遠くからサイレンの音が近づいてきて、救急車が乗り込んできた。男性の姿は青いビニールシートで覆い隠され、そして何も見えなくなった。
「びっくりした」
 呆然としたように知華が呟いて、僕も頷いた。人垣がばらばらと散らばり始めて、すぐに辺りは何事もなかったように、いつもと同じ駅前の景色に戻る。僕はどこに行こうと思っていたのかを、今の一件で忘れてしまった。
「鳥類化症って聞いたことはあったけれど、あんな風になるんだね」
「そうだね」
「本当に、鳥みたいな翼が生えるんだ」
「そうだったね」
 僕は適切な返事が見つけられず、曖昧な相槌を打った。ようやく文具屋に行こうと思ったことを思い出して、僕は知華の手を引いて歩き出す。
「翼が生えたら、どうなるんだろうね」
 知華はまだ鳥類化症のことが気になる様子だった。翼が生える瞬間の男性の苦悶の表情を思い出して、僕は話題を逸らしたいと思ったけれど、代わりになる話題は見つからなかった。
「あの翼って、感覚あるのかな。手みたいに」
「あるんじゃない? 生えてるんだし」
「飛べるのかなあ」
「あの大きさだったら、無理じゃないかな。もっと大きい翼だったら、飛べるかもしれないけれど」
 僕の不確定な返事に、知華は多少興味を削がれた様子だった。
「……あの人、あの後どうなるんだろうね」
 救急車が駅前から離れて、どこかに走り去っていく。
「分からない」
 答えを持ち合わせていない僕は、そう返すしかなかった。

 夕方に帰宅して、晩ご飯を食べてから、僕は自分の部屋に籠った。京都市内に住んでいて、通っているH大学のキャンパスも同じ市内にあるから、僕は自宅からバスで大学に通っている。
 授業がある頃はリュックに入れて持ち歩いているノートパソコンを、電源ケーブルを繋いで起動する。ブラウザを開いて、検索窓に『鳥類化症』と打ち込んだ。インターネットとは便利なものだなと思う。気になった言葉を入れて検索すれば、膨大な情報の海から、必要な情報を拾い上げてくれる。
 人間の背中に、一対の翼が生える現象である。それは知っている。テレビでもその程度のことは紹介されていた。原因は分からない。それも知っている。もう少し、詳しい情報が知りたい。
『翼は体内で育つ』
 そんな文字が見えて、僕は画面をスクロールした。肩甲骨の辺りに生える翼は、体の中で育ち、そして育ちきったところで、体の外に飛び出してくるのだという。
 僕は昼間に見た、あの男性を思い出した。皮膚を内側から突き破って、翼が生えていた。あの翼は、男性の体の中であの大きさにまで育ったということらしい。
『翼の大きさには個人差があり、大抵は左右に開いた幅が、本人の身長と同じくらいである』
『場合によっては、さらに巨大な翼が生じることもある』
 つまり、昼間の男性はほんの小さな翼だったけれど、人によっては飛べるくらいの大きさになるということだろうか。平均としては、広げた両腕と同じくらいの大きさになるようだ。もともと発症確率の低いものであるから、サンプルデータがどれくらいあるのか分からない。信憑性はあまり考えない方がいいだろう。
 僕はさらに深くまで情報を追った。鳥類化症の発症は、直接的に害をなすものではないらしい。ただ、体内で翼が育つことが、発症者の体に負担を掛けることは、間違いがないようだった。
 そもそも世界でも発症事例は少ないけれど、日本では東京の研究所と、京都のK大学の大学病院が国内の発症者の診察や研究をしているらしい。その二ヵ所でカバーしきれるくらいしか、発症者はいないのだろう。発症確率は確か、一パーセントにも満たなかったはずだ。
 僕はさらに検索を続けた。しかし、翼が生えた人のその後について、書かれているページは見つけられなかった。僕の調べ方が良くないのかもしれないけれど、翼が生えたまま生活をするのか、あるいは翼をなくす方法があるのか、その辺りについても情報は得られなかった。実例が少ないからだろうか。調べても調べてもそれ以上の情報は得られず、僕は調べるのをやめた。

「なあ、知ってるか、北園(きたぞの)。経営学科の先生、鳥類化症で退職したって噂」
 授業中にそう耳打ちされ、僕は目を見開いた。新年度、外には桜が咲いている。
 手嶋雄飛(てじま・ゆうひ)は僕の友人だ。岡山県は備前市の出身で、今は大学の近くに下宿している。彼は他の学部学科にも友人が多く、この手の噂話を仕入れてきては、よく僕に聞かせてくれる。
「鳥類化症で?」
「うん、そうらしいんだ。経営学科の奴が言ってた」
 手嶋の仕入れてくる噂話の、おおよそ八割は真実だ。残りの二割くらいは、嘘というよりは少し間違った情報であることが多い。そして今回は、おそらく真実だろうと僕は思った。理由は特にない。直感のようなものだ。
 僕は小さく唸って、窓の外に視線を向けた。よく晴れ渡った空を、鳥が数羽飛んでいくのが見える。教壇で話している教授の言葉は、ほとんど筒抜けだった。もはや何の授業だったかというところも、僕の頭からは抜け落ちていた。
「なあ北園、消しゴム貸してくれ。忘れた」
 とんとんと肘の辺りを突っつかれて、僕は手嶋の方に消しゴムを転がした。机の上の小さな消しゴムほど、一パーセントにも満たない発症確率のそれが、急に身近なものに感じられてきた。京都駅前で見知らぬ男性に翼が生えた瞬間の、皮膚を破るぶちぶちという音が生々しく耳に蘇る。ぞく、と悪寒のようなものが背筋を走った。経営学科のその先生も、同じように背中に翼が生えたのだろう。何色の翼が生えたのか、どんな大きさなのかも知らないけれど、自分の背中が何かぞわぞわしてくるような気がして、思わずもぞりと身動ぎする。
「ん? どうかした、北園」
 手嶋が首を傾げる。僕は黙って首を横に振った。
 授業が終わってもまだ、僕は落ち着かないままだった。僕は知華に、放課後会えないかと連絡を入れた。授業中なのか、知華から返事はすぐに来なかった。
 結局知華から返事が来たのは、僕がもう帰ろうかと思っているときだった。家にスマホを忘れて学校に行っていたのだと、弁明が添えられていて、明日提出の課題があるから難しい、と書かれていた。
 僕はむず痒いような気持ちを抱えたまま、キャンパスから自宅方面に向かうバスの停留所に爪先を向けた。手嶋はサークルの集まりがあるからと言って、どこかに行ってしまった。女子学生数人の集団が、手に手に紙パックのドリンクを持って歩いていく。
 今ここにいる誰もが、背中に翼が生える可能性を持っているのだ。それは恐ろしいことであると同時に、自然の摂理のようにも思われた。翼が生えることに条件はない。神様の、少しの気まぐれのようなものだ。もしかしたら気まぐれですらないのかもしれない。くじ引きのように無差別に決まってしまうのだろうか。
 市バスには、おおよそ七十代くらいに見える年老いた女性が乗り合わせていた。彼女の丸まった背中を眺めながら、僕はこの女性の背中に翼が生えることを想像した。手のひらほどの、小さな飾りのような翼だろうか。あるいは、彼女が今まで積み重ねてきた人生を形にしたような、大きな翼かもしれない。羽根の抜け落ちたぼろぼろの翼であるかもしれなかったし、そもそも翼が生えない可能性だってある。きっと彼女はその七十何年の人生の間、『翼が生える』という当たりくじを引き当てずに過ごしてきたのだろう。
 僕の視線に気づいたように、彼女がちらりとこちらを見た。僕は何も見ていないふりをして、彼女の見透かすような視線を無視した。

 春が過ぎ初夏になり、人々がにわかに薄着になり始めると、僕は街で見かける人々の背中に注目するようになった。それまでは重ね着した衣服に隠されていた背中の形が、薄着になったことで外からも視認しやすくなった。中には白い薄手の衣服を着て、その肌の色さえ透かしている人もいて、そんな人を見掛けると、僕はより注目せざるを得なかった。女性の背中を見つめていることに気づかれると知華が機嫌を損ねるので、僕は知華と別行動をしているときに限って、女性の背中にも注目した。
 梅雨前線が北上し、雨の多い季節が過ぎ去ろうとする頃には、京都市内、特に洛中と呼ばれる範囲は、祇園祭で浮足立ったような気配が満ちた。前祭の山鉾建てが始まると、四条烏丸の近辺は交通規制が敷かれ、気温が三十度を超える最中にぞろぞろと人が出歩くようになる。知華にねだられて、僕は授業終わりに彼女と合流して、その人だかりの中に出掛けた。
「すごい人だね」
 宵山の街は、さらに多くの人で賑わっていた。もはや山鉾を見ているのか人間を見ているのか分からない。地元の商店は祇園祭の模様を描いたうちわや手ぬぐいやポストカード、山鉾のミニチュア模型などを店先に並べ、通行人の足を止めさせている。携帯ショップの店員が、広告を兼ねたうちわを店の前で配っていたので、僕と知華は有難く一枚ずつ受け取った。うちわの裏には縦横の通りと、その通りのどこに何の山鉾があるのかを示した地図が印刷されていた。
 四条新町の交差点を上ったところには、放下鉾(ほうかほこ)が道の真ん中を塞ぐように建てられている。それを横目に西洞院通まで来ると、今度は蟷螂山(とうろうやま)と、その先は人の隙間を埋めるように出店が並んでいた。粽(ちまき)やおみくじを販売するテントには、長蛇の列が出来ている。ここは毎年こんな感じだ。
 知華がおみくじに並びたがったので、僕も一緒に列に並んだ。前にいる父親と娘の親子連れ、その娘の方である小学校低学年くらいの女の子が、サンダルを履いた足でぴょこぴょこ跳ねている。
「カマキリがおみくじを渡してくれるんだよね、ね、パパ」
「そうだよ」
 蟷螂山は数ある山鉾の中で唯一、からくりを搭載している山だ。耳に入ってくる会話を、僕は聞くともなく聞いていた。知華はスマホをいじるのに忙しい。
 親子が少し静かになると、僕は行列の外に視線を向けた。浴衣や甚平姿の子どもたちが、親から離れて人ごみの隙間を縫うように走り回っている。もしかしたら地元の子で、そもそも親と一緒に来ていないのかもしれない。かき氷の出店の前で、男の子が彼の姉らしい女の子に、メロンといちごのシロップを半々に掛けた、あいがけのかき氷をねだっているのが見える。溶けて混ざったらひどい色になるのだろうなと、僕はぼんやり思った。首筋を汗が伝っていく感覚がする。暑さで思考がやられているのかもしれない。さっき貰ったうちわでぱたぱた扇ぐと、横で知華も同じように扇いでいた。
 と、僕たちが並んでいるそのすぐ脇を、ひとりの女の子が駆けていった。白地にピンクと紫の花が描かれた浴衣の袖が揺れる。
 一瞬、僕は目を見開いた。少女の背中に、翼が見えた気がしたのだ。まさか、あんな小さな女の子にも、鳥類化症が起きているのだろうか。瞬きをする。
 よく見ると、彼女の背中で揺れているのは翼ではなく、大きなリボン状に結ばれた兵児帯だった。兵児帯の柔らかい布地が、彼女が走ったことで風を含み、大きく膨らんで、翼のように見えたのだった。
 見ず知らずの少女の背中に翼が生えていないことに、僕は少し安堵した。おみくじの順番待ちの列が少し進んで、知華が僕のシャツの袖を引っ張る。


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