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Genesis08「神はノアに告げられた。『あなたは、妻と、息子たちと、息子たちの妻たちとともに箱舟から出なさい。』」


大雨によって、世界は水の中に沈んでいった。
百五十日の間、水が増えていき、それから次第に減り始める。
そして、「箱舟は、第七の月の十七日にアララテの山地にとどまった」

大水の中を揺れていた箱舟は、雨が降り始めてから五か月後、山地にとどまることになる。
流されなくなり、「第十の月の一日に、山々の頂が現れた」とある。
水の下に沈んでいた世界がようやく、姿を見せるようになった。箱舟から降りて、再び地上で生活する可能性を感じられるようになったことだろう。

するとノアは、外の様子を知ろうと、烏を放つ。
「烏を放った。すると烏は、水が地の上から乾くまで、出たり戻ったりした」

次に、鳩を放つ。
「またノアは、水が地の面から引いたかどうかを見ようと、鳩を彼のもとから放った。」

烏も鳩も賢い鳥として知られているだろう。彼の慧眼か、今も変わらぬ鳥の在り方に驚く。
鳩は箱舟に戻ってきた。その七日後にまたノアは鳩を放つ。
「すると見よ、取ったばかりのオリーブの若葉がそのくちばしにあるではないか。それで、ノアは水が地の上から引いたのを知った」

大洪水を経てもなお、植物の生命力に驚かされる。
そして、「さらに、もう七日待って、彼は鳩を放った。鳩はもう彼のところに戻って来なかった。」

それから、ノアが鳥を飛ばす記述はもうない。

この8章を読んでいて、すごいと思わされたのは、神の時を待つノアの姿である。
ノアは、自分なりに外の様子を知ろうと、烏や鳩を放ち、確かめた。
なにもせずに待っていたわけではない。鳩のくわえたオリーブによって、「水が地の上から引いた」のを知った。
だが、地が乾いたのを知ったならば、外に出たいと思うのではないだろうか。
鳩以外にもっと鳥を飛ばしても良かったかもしれない。

しかしノアは、それからはただ、神が出よという日を待つのである。

水が地から干上がったのは、「六百一年目の第一の月の一日」のこと。

「六百一年目の第一の月の一日に、水は地の上から干上がった。ノアが箱舟の覆いを取り払って眺めると、見よ、地の面は乾いていた。第二の月の二十七日には、地はすっかり乾いた。神はノアに告げられた。『あなたは、妻と、息子たちと、息子たちの妻たちとともに箱舟から出なさい』」

鳩を飛ばしたのがいつかは定かではないが、ノアが箱舟から出よと命じられたのは、それから数日後などではない。水が干上がった第一の月の一日から、しっかり乾いた第二の月の二十七日までであっても、ふた月近くに及ぶ。
その間、ノアはただ神の時を信じて待ったのである。乾いた土を前に。
そこにあったのは自分のタイミングではなく、神の時を待つ信頼である。

そうして、ついに箱舟から出たノアは何をしたのか。聖書はこう記す。
「ノアは主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた」

このノアの姿勢にも衝撃を受ける。
箱舟に乗っていたきよい動物は七つがい。いのちの息絶えた世界で、箱舟の中にいた動物や鳥たちは貴重なものだったことだろう。
だが、ノアはそれを惜しげもなく、主への感謝として献げる。
ここに何よりも神を第一とし、礼拝する姿を見る。

私たちは、わずかな手元にある良いものを、それが最も大切なときに、ささげることができるだろうか。もう少し増えてから、ささげても困らない状況になってから、そう思ってしまうのではないだろうか。
だが、ノアは命じられたわけではなく、自らとても貴重で大切なものを神にささげるのだ。


メンバーのひとりが、自分が今同じような状況に置かれていることを話してくれた。
可能性を感じると、急いてしまう自分。わずかな貴重なものをささげることを惜しむ気持ち。
「なんか今、語られている気がする……」


これは私たちの物語だ。
私たちは鳩を飛ばすようなこともせず、ただただ呪文のように祈りのことばを唱えているだけになっていることがある。
または逆に、もう時が来ているとわかると、神を急かし、待てない気持ちになることがある。
だがノアは、外の様子を知るために動き、
時が近いことがわかると、あとはひたすら待ち続けた。

そして神の時が来たとき、ノアは大切ないのちを神へささげ、心から主に感謝した。自分のものとせず、神のものとした。
神はそれに対して「心の中でこう言われた。『わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない』」と。

エデンの園で神の御顔を避けて、隠れた姿はもうここにはない。
神との交流を求める姿がここにある。
人のやるべきことと、主にゆだねること。それをはき違えないことを示される。


神が箱舟の扉をいつか開ける時がくる。
私たちは合図を求めながら、その時を待つ。神を信頼し、自分のタイミングを手放して。

そして、その時がきたら、自分にとって貴重で大切で、
惜しんでもおかしくないと思われるものを神にささげられるものでありたい。



©新改訳聖書2017

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