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Genesis11「これはテラの歴史である」

さて、そうして発展していく都市国家や、さまざまな民族たち。
すべてが“主の前に”素晴らしい発展をしていったならよかったのだが、また一つの不穏な出来事が起こる。
この11章は、バベルの塔の章である。

バベルの塔――。
人間が、自分たちのすごさを天に知らせようと、高い塔を建て始め、神が人の高慢さに怒り、話し言葉を変えて混乱させ、塔が造れなくなった、という出来事である。

かつて、ノアの時代に洪水で世界を滅ぼした神は、「大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない」との契約の虹の約束ゆえか、世界を滅ぼすのではなく、言語を変えること――話し言葉を変えることによって、彼らのたくらみを阻止した。

「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。そこで主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされたからである」


言葉による意思疎通ができないと、協力関係を築くことができないことは、現代にも見ることができる。
たとえ同じ言語を話していても、会話が通じない場合には、人はともに生きることが難しくなる。
結婚生活の中でも、会話がかみ合わないときに、相手を理解すること、ともに生活していくことに非常に難しさを感じる。

神の存在抜きでは自分を過信し、誤った力を持つことへつながってしまう危うさ、また、神なしに意思疎通できないほどの多様な現代を思うのである。


さて、その出来事に続いて、この章にも家系図が出てくる。
人々が全地に散らばされる中で、神はアダムおよびノアの直系たちの歩みを目に留めておられたのだ。

「これはセムの歴史である。
セムは百歳のとき、アルパクシャデを生んだ。それは大洪水の二年後のことであった」

ノアが六〇二歳の時に、息子セムが生まれたことがわかる。

ノアから数えて十代目がテラである。
「これはテラの歴史である。
テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ」


そしてここに、ある人の名が出てくる。
「アブラム」――有名な名ではないだろうか。

アブラムは、ノアの息子セムから数えて十代目の子孫にあたる。
(ノアがアダムから数えて十代目の子孫であることを思い出す)

そしてまた、ノアを知る最後の世代でもある。
(ノアはアダムを知らない最初の世代であった)


だが、ここに「アブラムの歴史である」とは記されない。
あるのは、父である「テラの歴史である」ということだ。
非常に興味深い。

そして、父テラが「親族の地であるカルデア人のウル」を出発して、カナンの地に向かう様子が記されている。


「テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ」

親族たちから離れ、寄留の民として「カナン」に出発したのは、アブラムではなく、彼の父テラなのである。だが、テラはある町まで来ると、そこに住み、そこで生涯を終える。

なぜだろうか、と考えていたときに、旅の途中に住むようになった町の名前が目に留まった。
「ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ」

“ハラン”
この名は、テラが亡くした息子の名前なのである。
「ハランは父テラに先立って……ウルで死んだ」

息子を亡くした地を離れ、親族の地を旅立ちカナンを目指したテラは、旅の途中で亡くした息子と同じ名の町に到着する。
彼は、その名のゆえに、そこから動くことができなかったのではないだろうか。
子を亡くした親の悲しみゆえに、そこから旅立つことができなかったのではないだろうか。

「テラの生涯は二百五年であった。テラはハランで死んだ」

だからこそ、これはアブラムではなく、「テラの歴史」なのだ。
亡き息子を思い、歩みをとめた父。そして、そのハランの忘れ形見である甥ロトとともに、アブラムは父テラの歩みを引き継ぐことになる。弟を亡くした兄として。

創世記を読んでいて、何度も出てくる家系図に大きな意味を感じるようになってきた。
新約聖書の始まりの章であるマタイの福音書も、家系図から始まる。
私たちは大きな歴史の中で、家系図の中に生きているのだ。

生きていくのだ。



©新改訳聖書2017

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