日本製「アイドル」に対する所感

私は、三次元男性アイドルに強い思いを持ったことはない。
そして、それは「危険な行為」なんだろうなあと感じてきた。
だって、その人は、人間だもの。
ファンに素晴らしいパフォーマンスを見せ、夢を見させてくれるかもしれない。
でも、実の所、その人は生身を持つ人間だ。
何かがあって、「裏切られた!」と感じることもあるかもしれない。
彼らは、お仕事として、「アイドル」を演じているだけだ。

今まで私が買ったCDの中で最も多いのは、二次元男性アイドルだ。
「二次元は信奉してもいいよなあ」と思う節もあった。
夢の塊。
悪い現実を、見させてくるわけがないと。
しかし、実際の所、声優さんの不祥事でコンテンツが危機的な状況を迎えたことがあり、私は悟った。
「何かに自分の大きな部分を委ねることは危険なのだ」と。

そして、
「仕事とプライベートは分けて欲しい」
「私に夢を見させてくれるなら、プライベートは問わない(犯罪行為なら別だけど、不倫くらいならどうってことない)」
と感じた。

彼らにとって、「夢を見させる」ことは、単なるお仕事なのだ。
そこにどれだけ熱量を持っていて、その熱をこちらがどれだけ熱い思いで受け止めたとしても、お仕事はお仕事。

そこを現実的に認識していないと、どこかおかしなことになる。

ファンは妄信的な信者になりうるのではないか、と感じている。
アイドルに夢の世界を見せてもらいたい。
だから、「黒い部分は見たくない」「臭い者には蓋」。

アイドルをこの日本社会で生きる、我々と同じ人権を持つ人間ではなく、「消費するためのコンテンツ」、そして一種の「神」的な扱いをしている人がいるように感じるのは、私の気のせいだろうか?

だが、「神」である方が、ファンはお金をお布施として投資する。
だから、「神」を作るのだ。
「アイドルには無条件の価値がある」必要がある。
アイドルと呼ばれる人たちは、その他の芸能人とは、何か、一線を画している気がする。

実際の所、アイドルは神ではない。
キリストのような、宗教の信奉対象ではない。

でも、彼らの存在で、勇気づけられて生きてきた。
彼らを自分のアイデンティティーと同一にしてきた。
そういう熱狂的なファン、そして、アイドル自身は、そのアイデンティティーを捨てられない。
周囲から如何に責められたとしても、自己と同一となっている、アイデンティティーを捨てられないのだ。

だから、アイデンティティーをひとつのものに委ねてはいけない。
私は、仕事とアイデンティティ―を同一化しており、無理に働きすぎて、体調を崩した。
同様の現象について、誰だって思い当たる節はあるかもしれない。

自己承認、アイデンティティーの構築のために、何か外のものに頼りすぎると、それが崩壊した際に我々は自分も崩壊してしまう。

学校、国、会社、家庭、趣味。

アイデンティティーの元となるものは多くあるが、外の世界はどうであっても、私は私。
何もない世界で、孤独の世界であっても、「私は私」。
そういう状態を私は作れたら面白いなあと思うのだけれど、

こんなことを考える私の方が変人なのだろうな、と感じざるを得ない。

まあ、趣味も仕事も人付き合いも多い方が良い、ってことだね。
たくさんの依存先があることを、自立と呼ぶらしい。

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