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『ストップ・メイキング・センス』を観て、考えたり、思ったり。

 トーキング・ヘッズが1983年12月に行なったライヴを収めたライヴ映画。監督は後に『羊たちの沈黙』でアカデミー賞を受賞することになるジョナサン・デミ。映画の公開は1984年。オリジナルネガの発見、4Kレストア。メンバーであるジェリー・ハリスンがサウンド面を監修。40年という時を経て、2024年にIMAXという巨大フォーマットでの上映。これだけで期待するしかない。期待以外の何物でもない作品。はたして、それはいかなるものか?

結論

とんでもないものでした。圧巻でした。

 そう、これまで何度も観た『ストップ・メイキング・センス』とは別物と言っていいくらいに。といっても劇場で見たのは今回が初めて。単純に“今までとは違う”と言葉にするには的確でないだろう人材。それが僕。

 僕が観たのはIMAX GTレーザーである池袋のグランドシネマサンシャイン。そのサイズは25メートルプールが丸々収まるサイズ。つまりはバカでかい! そのスクリーンをフルに活用しているわけではないのだろうが(といっても、ほぼほぼフル活用だったと思う)、そのサイズはやはりでかい。

 そこに映し出される足元。そして床に置かれるラジカセ。プレイボタンを押して始まる「サイコキラー」。すでに頭にインプットされている映像であるのにドキドキ、ワクワクが止まらない。この段階ですでに、すごいものを観てしまっている。頭の中にはそんな感情が芽生えていた。

 先に触れたように劇場ではこれまで一度も観たことがない僕。ひとり、テレビ画面越しにビデオで観ていただけなわけだから、誰かと同じ空間で見るのは初めてなわけで。同じ時間に同じものを体感する。同じ空気を感じている。これは映画という形を借りたライヴだ!そんな気持ちが89分という映画の最中、ずっと続いていた。

 それにしてもこのライヴ。単純に考えてみても演出がすごいと思う(語彙力なさすぎるな、ほんと)。

 演者がひとりひとり増えていく(それだけならきっとどこにでもあるだろう)。演奏中にセットというか、楽器が設置されるステージが作り上げられ、次の曲からひとり増えていく(それだってどこかにあるだろう)。しかし、そのセットを組むスタッフまでもが完全に演者として記憶にインプットされていく。設営するスタッフが違和感なくステージ上に存在する。そう、舞台上にいる人物すべてが演者になってしまう。そんなライヴ、自分の中の記憶を辿ってみてもなかなか見つからない。つまり、音楽を奏でる者だけで成り立つライヴではないのである(まあ、ライヴが出来上がるのはスタッフがいてこそだというのは当然なのはわかっている。しかし、ここで言うことはそういうことではない)。

 そうやって進行するライヴは、アコースティック・ギターと歌。ベース。ドラム。と増えていき、大所帯のバンド編成に。そこで奏でられる身体を動かさずにはいられなくなる楽曲たち。これはもう祝祭以外の何物でもない!

 デヴィッド・バーンのその姿(傍から見たらちょっとやばそう、なんて思われてしまうかのような)と動きはその楽曲を立体化させ、聴覚だけでなく、視覚でも楽曲を感じさせる。その動きは神経症(という言葉をしようしていいものだろうか?今回はあえて使おう)のような。目つきだってまさにサイコキラー感あふれる感じ。しかし、それでないと成立しない。そうでないといけない。誰かが真似を使用としても成り立つことはまずない(やってしまったらとんでもなく陳腐なものになってしまうはずだ)。

 もちろん、この映画のアイコンとなる大きすぎるスーツ姿も、異常なまでにクネクネしたダンス(スパークスのMVにおけるケイト・ブランシェットも似たように動くがけれど、やっぱりデヴィッド・バーンはストレンジなのよね)。奇妙かつ異様なものがこれだけスタイリッシュかつアーティスティックに見えるのは、デヴィッド・バーン(のルックス)だからこそ成立するもの。そうに違いない。ライトスタンドを使った演出も取り立てて斬新なものではないはずなのだが、とんでもないものを観てしまっている感覚を覚える。とにかく、もう、すごいのだ!(語彙力失ってしまうことは、観た人ならわかっていただけるかと思う)。

 多くの人は『アメリカン・ユートピア』を比較対象として連ねていることだと思う。それは当然だ。デヴィッド・バーンの現在を知る上でも、この『ストップ・メイキング・センス』からどう進化を遂げているのかを語る上でも。しかし、比較してしまうことで、この映画の特異性が失われてしまうような気もするのは僕だけだろうか。

 このライヴ映画は単に”ライヴ”なのだ。もちろん、1983年12月に行なわれたライヴを切り取ったものだからそれは当然だ。しかし、カメラワークをみてもメンバーの表情や動きを的確なタイミングで的確にとらえ、高揚感というものを編集やカットで見事に表し、ライヴ感をその映像のテンポで見事に生み出していると思う。いや、高揚感を増幅させているともいえるかもしれない。固定カメラで撮影された映像でこのライヴを観たとしてこの躍動感、高揚感は生まれるだろうか? 

 待てよ。これはパフォーマンスアートなのかもしれないぞ。音楽というものを最大限に活かしたアート作品。ライヴという生の状態で繰り広げられるアート。それはその会場にいる人も一緒に作り上げていく作品。そして、それを劇場で見る人も作品を作る一人になる。つまり、作り手がどんどん増殖していく、そんなアート作品。そう。アートスクール出身のバンドだからこそ成り立つだろう、完璧すぎる作品(なんて思ったり)!

 そう考えると、この映画は単純にライヴという“空間”“時間”を真空パックした作品ではないのではないか?ということだ。比較対象としてやっぱり挙げてしまうけれど、『アメリカン・ユートピア』は“空間”“時間”というものを真空パックしたものに僕は思う。だから、舞台の感動や興奮はそのまま体感できるのだと思うが、素晴らしい映画にとどまってしまうと思ったりもする(もちろん、これは僕個人の中に生まれた思い。異論は当然あるでしょう)。
 『ストップ・メイキング・センス』が史上最高のライヴ映画と言われる所以は、ライヴ以上の興奮を生み出してしまうからではないだろうか? そう、実際にライヴを体感する以上の興奮がここにはあり、強烈なアート体験としても脳にインプットされていくからではないだろうか?(実際のライヴを観てない人が何を言ってんだ!って思うのは至極当然です)。

 で、僕が観た劇場では映画のエンドクレジットが終わった瞬間、拍手が起き、劇場をその音が埋め尽くしていた。それは、それだけ映画として感情に訴える作品であるということだ。単に楽曲が、単にステージングが、単にライヴが、、、ということでは片づけられない強烈な体験といて観た人に響いたからだろう。40年という時を経て、より強固なものとなってスクリーンに映し出され、観た者の心を撃ち抜いていく。これはライヴ、いや、映画を超えた先にあるものを体感しているのだ。きっと。いやあ、まじですげえ!

 そして、とにかく何度でも言いたくなる、これは“40年前の作品”だということ。40年前ですよ、40年前。早すぎたライヴ。というより、早いことにすら気づけない、あまりに先を行き過ぎたライヴ。そして、それを記録し、再構築された映画。ジョナサン・デミ、すげえよ

 とにかく、この映画。劇場で観ることができる今。足を運ぶべき映画であることは絶対です。トーキング・ヘッズを何一つ知らなくても、いや、知らない方がもしかしたら楽しめるかもしれない。

 レディオヘッドもリトル・クリーチャーズもバンド名に引用するトーキング・ヘッズ。これから先、トーキング・ヘッズ史上過去最大の影響を与えていくことになるだろう。なんて、それっぽい感じの言葉で締めようと思う今この時。


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