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コロナの風景の記憶。

韓国政府は20日にも「室内でのマスク着用義務の解除」を正式に発表するという。おそらく今月末から、室内でのマスク着用は義務ではなくなり、「勧告」へと緩和される。

最近、こういうニュースに接すると、私は足元がずるっと滑ってどこに立っているのか分からないような気分になる。情報と現実の乖離ということで比喩するならば、ものすごく寒く感じて温度計を見たら摂氏30℃と表示されていて、かつ気象情報でもそう言っていて、ガタガタ震えながらまったく実感の伴わない夏の気温の情報を飲み込まなければならないような、そういう感覚だ。

防疫緩和の理由は、新規感染者数および重症者数の顕著な減少だという。確かに1月第2週目の一日平均感染者数は約43,000人で、1月第1週の約59,000人より3割弱減ったという。重症者の週ごとの一日平均数は、12月第3週が528人、第4週が580人、1月第1週が597人、第2週が524人だという。これが「顕著に減った」と言える推移なのか、私には本当にわからない。
ある時期から、コロナに関連する数字の情報の質感が完全に失われてしまったように感じる。「顕著に減って」一日4万3千人の感染者。でも、オミクロンが初めて登場して大騒ぎになり防疫が強化された一昨年末は、一日の感染者数は5千人前後だった。もちろん、2022年を経てコロナの様相はかなり変化したので、単純に数字を比較できない。だからこそ、数字の質感が失われたいま、何を判断基準にすればいいのか分からず思考停止になりがちだ。

コロナに関してなんやかんやと書くのは、はっきり根拠にするデータが乏しい私としては無責任な気がして気が引ける。ただ、なにか違和感を感じているのは事実だ。

だから、まだ今はふわっとした感覚的なことしか書くことができない。ちゃんと向き合っていないという気の咎めはあるけれども。

仕事を終えてソウルのある駅から帰路の電車に乗る前に、駅につながったデパートに立ち寄るのが癖になっている。入り口のガラスドアを押して入るとき、しょっちゅうある光景を思い出す。建物に入るたびにスマホを開き、ワクチンパスポートのQRコードを読み取らせたセンサー。もっと前は、入り口の両脇に立って一つひとつワクチンパスのチェックをしていたスタッフ。発熱を測るサーモセンサーの前に並んだ行列。さらに前は、感染者が発生したとのことで全館封鎖になったがらんどうのデパート。

あのときどきの、超現実的な風景を感覚として覚えている。先の見えない息詰まる閉塞感のなか、いっぽうでは、この先どうなっていくのか予想のつかない未来に一種の高揚感を感じていた。いつも人でごった返していた乗り換えの多い大きな駅が、全ての飲食店のシャッターが閉まり、人影もまばらなくらい空っぽになった、あの風景。

今日もおなじ駅を通ってきたが、風景は2019年くらいの頃にほぼ戻っている。違うのは、ほとんど全ての人がマスクを着けていることだ。韓国では去年9月に屋外でのマスク着用義務は解除されたものの、街行く人でマスクを着けずに歩いている人はごく少数であるように思う。解除直後よりも、数カ月たった現在のほうがマスク着用率が高いようにすら思える。

そうやって、コロナ直後のシュールな風景は徐々に薄れながらも、社会は確実に変わってしまってもう戻れない風景を、また作り上げているような気がする。

そんななかで、「政府は室内のマスク義務解除を検討」などと言われても、まったく体感の伴わないものとして届くのは無理もないだろう。

コロナを経験した後の社会を、国の政府と、世界と、個々人が、それぞれてんでバラバラに捉えているような気がする。私の感じている足元がずれるような違和感は、強いていうならばそういう感覚だ。