見出し画像

雨あがりのデニーズで

めざめると7時半でもうすこし眠れると思いきやいや今日は休みだ。午前指定の荷物がくる予定だ。午前中の指定って幅がありすぎるからいつも後悔するんだけどそこしかないし。まぁ思っていたよりも早くにきたから出かけるためにさっさと洗濯する。昨日から気にしていた天気はずぅっと曇りという。傘のマークがあらわれないのでそれなら外干しでいいしおれも外でのんびりしたい。曇りでもいい。公園のベンチでパンを食べたいしコーヒーも飲みたい。読みかけの水の女を持っていく。電動自転車の充電はばっちりいつでも行けますゾと言わんばかりだ。なに着ていこうかな、自転車こいでると暑くなるんだよな、こういうときにちょうどいいのがないんだよな(いっぱいある)。そういえば行きつけの服屋に良さげなやつがはいったとあったな、あれを行きがけに買っていこうそうしよう。構築しかけのコーディネート、ぐわんぐわんぐわんピーピーピーと洗濯機の合図がきこえる。洗濯物の量が多く物干し竿いっぱいに吊らされしなっているが大丈夫か。大丈夫だ。

春物ジャケットを買うつもりだからカットソーとカーゴパンツだけという薄着で外へ出た。かばんを持ちたくないから暖かい時期はカーゴパンツを多用する。便利。履くかばんだ。ちょっと肌寒いがいいだろう。服屋へ行く前にパン屋が先だ。ここのバケットおよびパリジャンのサンドが好きだ。とてもシンプルだ。ハムとチーズとマヨネーズだ。おれが店の入り口でアルコールを手揉みしているそのときにサンドは店頭へならぶべく恰幅のよい店員に運ばれてきた。幸先が良い。強奪するようにバケットサンドをとる。あとはカレーパンにベーコンエピだ。レジで袋はいりますかと訊かれる。ビニールなら3円紙袋なら11円。じゅ、11円⁈たかっ‼︎っていうかもうプラごみ云々関係ねえじゃん。企業が袋代ぶん儲かるようになっただけじゃねえかあほんだらこれが資本主義だ。そうして服屋に着きお目当てのジャケットを試着する。着ていくんでタグとっちゃってくださいと告げる。速攻で決めたので店員が買い物秒ですねとくだらないことを言うのでエヘヘとキモい反応を返した。それがおれの精一杯だ。御茶ノ水から靖国通りへはいると多くの若者がいる。若者たちは道幅いっぱいにウェッヘッヘとのろのろ歩く。しかしその権利がある。若者は偉いからだ。若いだけで偉い。何者でもなく何の力もない。だが若いそれだけで偉いんだよ。そこのけそこのけ若者たちのお通りだ。着なれないスーツに見えてふーんと思ったがどうやら今日は卒業式のようで気づくと振袖の女がわんさか歩いていた。九段坂が見えるころにはもう若者しかいないんじゃないのってくらい。九段坂は若者と親御さんたちでいっぱい。それに囲まれて自転車を押すのはとても心細かった。桜満開の下、達成感と寂しさ、晴れやかな笑顔と装いでもって写真を撮り合う彼ら。そんななかおれは途中で買ったホットコーヒーLサイズがこぼれてしまわないか心配だった。華やかな喧騒をぬける。お花見の時期なのでいつもよりひとが多い。しかしどうやら千鳥ヶ淵をのぞむ山の上と中央広場はコロナ対策として封鎖されている。すれ違うおばさまたちがあら行けないのぉと不満を言う。せっかく来たのにかわいそうに。ベンチが多いのでとりあえず座って昼食をとる。コーヒーの紙カップは茶色くよごれている。うまいうまいとパンを食べていると雨が降ってくる。うそだろ。ウェザーニュースをひらく。傘マークがある。裏切り者が。樹々の下にいたので小雨のうちは気にもならなかったが一向にやむ気配がなく本も開けない。水の女を持ってきたせいか。コーヒーの残りを一息に飲む。雨あしは強くなっている。どうしようもないので帰りによるつもりだった丸善へむかう。途中、美術館の前を通るとあやしい絵展なる魅力的な看板が見えたがおそらく予約制で飛び込みじゃ入れないだろうとそのまま通り過ぎる。飛び込みで入れない美術館ってなんなの。

丸善につく。一階にいちべつくれてさっさと二階へあがる。欲しい本はあるっちゃあるがないっちゃあない。ざっと見回って川上未映子のそら頭はでかいです、檜垣立哉のドゥルーズ解けない問いを生きる、飯野亮一のすし天ぷら蕎麦うなぎ、を買う。料理の四面体という本を読んでから料理関係のおもしろい本はないかと探しているのでなんとなく買った。料理なんてほとんどしない。レシピ本が読みたいわけじゃない。あれのおもしろみは料理云々でなく物事の捉えかたやアングルの妙だ。なぜ料理関係がいいのと言われるとよくわからないけどたぶん食欲はプリミティブな欲求に一番近いからじゃねって感じ。そういったものにまた出会いたいが今のところない。店員がおじいさんに絡まれている。クレームの類いではなく延々とうんちくを披露されているようだ。加齢は別れの連続だ。友達も家族もいなくなる。物理的に離れてしまう。疎遠になる。死別する。知識と経験だけ取り残される。知識と経験はより良いコミニュケーションをとるためのものだったはずだ。彼らのまわりから親しいひとはいなくなる。メメントモリだ。年寄りがよくしゃべるように思えるのは取り残されてしまった蓄えの発露であるからだ。悲しいことではない。それはおれもその店員にも必ず訪れることだ。だから年寄りの長話は聴いてあげなさい。それは自身であるからだ。丸善のなかにある喫茶店へ行く。梶井基次郎の檸檬にちなんだレモンケーキ。売り切れだって。くやしい。着座すると眼前にアマリリスと書かれたふにゃふにゃのネームシールを貼った造花がある。なんだか薄汚れているし繊維が縮毛のように飛び出ている。なんでこんなもん置くのかと思ったらどうやら仕切りとしてビニールカーテンの支柱が必要でその役割のようだ。おつとめご苦労さまです。家から持ってきた水の女を読む気になれずさっき購入したそら頭はでかいです、を読み始める。この文体、乳と卵を読んで以来だったのでうぉっ…と面食らってしまったが最初の文章がもうさっそく彼女らしく凄まじいズンドコリズム(褒めてる)でもうシルバニアファミリーの話なんて最高にノってるしたまんねえじゃん。文章のリズムってやっぱり真似できない。ただの文章であってだれでも書き写せばよさそうなものなのに。栗原康にしろ川上未映子にしろああいったリズムを発している文章は内容や思想抜きに読むだけでもこちらの力がみなぎる、というかウォーッ‼︎ってなる。おもしろいなぁ。

暗くなるとたぶんまだ寒いだろうから明るいうちに帰宅する。途中、正規ルート(?)を2本手前の道に進むと普段は行かない、遠くもないが行ったことのない街へ入ってしまった。なるほどここらが次世代おしゃんてぃ清澄白河か。きれいだ。整っている。江東区は道路が白い。そう感じるのおれだけなのかしら。ともあれ気づけば電動自転車のバッテリーは1/5になっている。1/5とはこの自転車における残機1を意味する。ヤバい。かなり遠回りしているので家までもたない。橋という橋を渡る。余計にバッテリーを消耗する。そのうちひとつの橋は全く無駄に渡っている。もとの島へ戻るしまつだ。スマホをみろ。みない。めんどうだ。スマホのバッテリーはたっぷりあるくせに。こうして自転車のバッテリーはゼロになる。ケイデンスは格段に落ちる。さんざん甘やかした大臀筋はかんべんしてぇといいやがる。目の前にデニーズの看板がみえる。しょうがない。フライドポテトをつまみながら本の続きをよむ。脂っこいゆびをナプキンで拭きふと気づけば窓の外はもうすっかり夜よ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?