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1月24日の日記

太平洋はつや消しの紺だった。
強い風が吹いていたからきっと大きな波がたっていただろう。遠くの山頂からみえる海は絵に描いたように静止していた。紺色の水面に溶けたバニラアイスのような陽の光が注がれている。雲はゆっくりと移動しながら新しい島をつくっていく。鵠沼海岸は白い三日月みたいで江ノ島と七里ヶ浜とあわせるとかもめのようでもあった。毎日えんえんと繰り返す空と光と海のあわいに私たちは存在している。

このあいだ、15年ぶりに会った旧友から数年前に逗子へ移り住んだと聞いた。海は近いけどサーフィンをするには波がないからSUPをしていると写真を見せてくれた。ボードの上に立つ旧友を背部からとらえた構図だ。写真にうつる水面は陽の光でまぶしくかがやいている。やわらかく冒しがたいまたたきがここにあると思った。そしてこのまたたきがいつまでもありますように。まだ幼い下の男の子はカメラの向こう側のもっともっと向こうにある何かわからないものをじっと見つめていた。

有限であることはおそろしい。そして救いでもある。人は具体的な生命の限りを知っている。ゆえにおそろしい。しかしいつまでも続けていく必要はないということでもある。なんか安心する。知っているからこそ恐怖を手放せない。ときには途方もない無限をたぐり寄せて安心したりもする。荒唐無稽な事象を信じたり抱くためだけの愛を説いてみたりする。ずっと続いてほしいことはいつでも消えてしまうようなことだ。

息をあげながら何度も立ちどまり呼吸をととのえる。そのたびに後ろを振りかえり太平洋をみる。海は変わらず静止したままだ。午後5時の太陽はオレンジジュースを紺色の海に注ぐ。遠くから見る海は陽の光をもってしてもきらきらと輝くことがない。

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