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扉の前で

惚れた女がいた。

紆余曲折ありようやく付き合えるようになって数年は良い関係でいられた。ちょうどその頃は周囲の就職が決まっていくような状況で、私といえば中途半端な夢想に耽り夢を叶えようとも一歩を踏み出そうともせずにただ惰性な日々を送っていた。そういった私の生き方に飽々したのであろうその女は、ある日別れのメールをよこす。しかしそれをすんなりと享受するほどの思慮深さもなく、器の大きい男などでもなく、かねてより器量の無さに自身でほとほと呆れ返っていたこともあり、子どもが玩具をねだるような七転八倒の足掻きを見せた後、やはりどうにも成らず終わってしまった。

数年の後、女のほうから連絡があり何かと思ったのだが、なんという事はなくそちらの様子はどうかというただの近況確認であった。なんだと拍子抜けしたものの、しかし興味を失った相手にそのような連絡などをする筈はなく、つまりこれはチャンスなのではと口からつい出そうな妬み嫉みを押し殺し、柔和な声色を使って会う約束を取り付けたのだった。
数日後、一人やもめの暮らす6畳間にその女は姿を現した。交際当時は女の希望もあり喫煙などしていなかったのだが、すっかり孤独というものに取り憑かれてしまうと酒や煙草といった手軽な慰み物は容易に侵食するようになる。所々黒く焦げ付いたステンレス製の灰皿はグシャっとしたフィルターの吸殻で所狭しと埋まっていて、空いた隙間を探すように煙草の火を押し消した。
「煙草吸ってるんだね」
あぁそっか、うん、ごめん煙かったよね。
そう言うが女の前で煙草を吸うことなど今までにはあり得なかった事だと分かっており、別れた後におれがどれだけ落ち込み堕落した生活を送るようになってしまったのか、それは全てお前のせいなんだぜと言いたげに、そういったことを見せつけるようにしてそもそも煙草の火を着けたのだった。ここへ至って相も変わらず地団駄を踏み続けている見苦しさはこと恋愛事になると顕在化しやすい。それは私が女たちにどこまでも許してくれるような母性を求めており、またそれは女たちが心底嫌がることなのだとも思う。

お互いの近況報告を終えると次に話すことは復縁のことである。当然私から持ちかけるわけだが、今回の逢瀬はそもそも女の方から連絡をとってしまったという向こうの落ち度がある。それを利用し、なぁ今の気持ちはどうなんだおれはあれからもずっと好きだったよ忘れた事なんてないんだまたやり直したい結婚しようなどと好き勝手にほざいてみせた。女の返答は思っていたほど悪いものではなかったが、当時の私の生活は踏んだり蹴ったりといった状況で、側から見てもまともな女なら相手にしないだろうといった有様だった。また、そうした男の弱り目を許容するほど女は阿呆ではなくやはり復縁とは合い成らなかった。

どうにもならず帰り際、諦めつつも僅かな優しさを示してやろうと古い鉄製の扉をガチャンと開けてやり、女がその前をありがとうとすり抜けて行く瞬間、かつてこの腕に抱きしめていたその女の感触がありありと思い起こされ堪らず抱き止めてしまった。開けてやった扉は自然と閉じていき、私たちはその玄関に立ちつくした。懐かしい匂いであった。胸は高鳴るが意外と醒めた眼差しで抱いた腕の内周を測った。私よりも幾分低いところにある女の肩から私の腰部にまわされた女の腕はやや強めにそれを掴んでいた。好きだと言い「私も好き」と言った。強く抱き合い上体を反らすとキスをした。

戻れない気がした。その腕の中にあるものはとうに終わった過去であった。確かめるように何度も唇を合わせ抱いていても、何もかも一向に始まる気がしなかった。互いに涙を流し理由のみつからない終焉というものを最中に確信していたのだと思う。ここまでに抱いていた好意はもう長い間ずうっと幻であったのかもしれない。

古い鉄製の扉は黄色い塗装がされており所々剥げて錆が見える。錆びた蝶番の軋む音が深夜の冷たい空気を震わせる。その扉が開き、再び閉じるともう女の姿を見ることはなかった。涙をこぼしながらコンクリートの玄関へ膝から崩れ落ち扉へぬかずくようにして泣いた。
少しばかり落ち着くと汚れた灰皿をわざわざ玄関まで運び煙草に火を着けた。感傷に浸るには寒く冷たいところで自傷的にするのがよかった。なおもその場で膝を抱えて座り直すと、なんだか自身の姿がわざとらしく気障で滑稽に思え、「ドラマみてぇじゃん」と吹き出しながら独り言を呟いた。立ち込める煙りは行き場なく辺りを彷徨うと少し経過した後、見えなくなった。

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