私はリストもビバップも聴けない

フランツ・リストは、彼の時代においても、そして現世でも大きな人気を博しているピアニスト・作曲家である。音楽にさほど詳しくない人でも、その名前は耳にしたことがあるだろう。有名人には、有名になるだけの理由があるものだ。
そんな人気者、リストの音楽が聴けない、なんてのたまえば、古今東西、たくさんの人を敵に回してしまうだろうか。

私はリストの音楽が聴けない。それは彼の音楽が嫌いだからではない。寧ろ、好きすぎるからこそ聴けないのだ。

リストの音楽を聴くときはいつも、うっとりする。かと思えば苦しくなる。けれども心は幸せな気持ちで満たされる。彼の演奏を聴いて卒倒した女性というのは私の先祖ではないかと、いや、私自身だったのではないかと思うことすらある。リストの音楽を聴くとき、21世紀に生きる私が知るはずもない19世紀のヨーロッパのコンサートホールに、確かに私が「存在している」感覚を覚えることがある。彼の音楽を聴けばさながら燃え上がる恋のような感情を抱えることになるし(それはとても疲れることである)、時には歴史上に魂を置き去って、私の実体があるはずの「ここ」に帰ってこられなくなるような感覚に陥ることもあるのだ。だから私はリストが聴けない。しかし、それと同時に、リストの音楽は私の帰るべき(或いは還るべき)場所であるようにも感じている。


私が聴けない音楽は、リストだけではない。

洒脱なハイハットにピアノの軽妙なバッキング。その上をウッドベースが歩き回った時、私の心は落ち着きを忘れてしまうし、実際に行ったこともなければ、あまり映画を見ない私には想像すら難しいはずのアメリカの大衆酒場にいるかのような錯覚さえ起こしてしまうこともある。私は、確かに1940年代アメリカの酒場に存在しているのだ。或いは、確かに存在して「いた」のかもしれない。私が生きている「今」「ここ」に戻れなくなってしまうこともある。(戻れないのか、戻りたくないのかは、私にもわからない。)チャーリー・パーカーを、デクスター・ゴードンを聴く時、否が応でも顔が綻んでしまう。かと思えば、時には苦しくもなる。
私はビバップも、聴くことができない。


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