モノ言わぬは…
以前「もう何を言っても無駄だから何も言うまい」という相手と関わる数年を過ごしたことがありました。
普段の何気ない会話の際、まぁ普通かなとか「ちょっとディスられているかも」と半笑でながら聞けたのですが、マジここは譲れないという自分が大事にしている所の話をするとき、よく言えばロジカルシンキング的、ちょっと悪く言えば否定的にバッサリ切られることがありました。
本当にどうでもいいことだったらいいのですが、そもそも人が生きる上で大事にしていることは親族、マブダチなどなど関係性があっても全然違うという持論を持っています。
それ…否定するのってまずまずヤベーのでは。と思いつつも最初は
「そういうバッサリな意見もあると思う。○○って感じるのかなぁ?」と本人が切る真意を問いかけると
「そうして分析するのやめてくれない」とここでもザックリぶった切られます。
それを何度か、いや何度も繰り返していたのですが
もう無理になってしまって。(今書いていて当時を振り返ると胸がキューっとします)というか、人の大事にしているものを平気で自分の刀でぶった切る人と…関わっていきたいのか。そもそも、「あなたのためだから」という大義名分的スタンスを取って私は親しい人にそんな態度しない‥‥
…と見えちゃって気がついちゃってどうしましょとこれまた一大事の発見をしてから、その人とは「何も言うまい」と徐々に移行していったことがあります。
今振り返るともう少し早めに気付けるようなきっかけはあったとかは思わず。よかった気が付けてとその当時の私にグッジョブ。と言いたい。
ただ、悪い習性として「うわ~」という他者との関りの中で反応した場合に、何も言うまいモードに切り替わるクセが出てくる場面があるのです。
この2か月、メールで仕事を渡されてなんだよぶん投げて。と少々憤慨することが続いていました。
ちょっと雑な文面だったので、「こんな感じかな」と当のぶん投げ元の本人にも確認しながら進めていたんのです。
所が少々確認が減っていて「聴いてもしょうもないか」というモードになっていた部分もあり少々齟齬が出ているなと昨日発覚したのです。
「ちょっとまずいのですり合わせしましょうか」という場が。
話す中でやっぱりぶん投げ元も悪気があったわけではなく、家族の病気もあったりで「伝えている気」になってしまっていたこともわかり
私も確認をもっととるべき部分、タイミングがたくさんあったことがわかりました。
この「何も言うまい」モードになってしまったのは何だか雑にやられている感じがあって感情がざわざわしたままだった。
でも、余裕がなくて「一種ぶん投げのように」なってしまったんだよなと
ちょっと納得してしまいました。
家族の病気、はその方も猫ちゃん。結局闘病の末先日亡くなってしまいました。きっと気が気ではない数か月で…と思うとこっちまで気は回らないか。
以前「何も言わない」モードになったときとは全く事情が違うのに
何やってんだとお昼少々沈み込んでしまいました。
これは本当に悪意でやっているんだろうか?
何かその人の身に「そりゃたいそうな事」が起きての余裕のなさなのではないか。
お前の目はふしあなではないか???
何も言わなきゃなにも伝わらない。
だから、ちゃんと伝えるし、問いかけていく。
まずはそこからという事を身をもって知らされました。