「最高じゃないか、真人を生むなんて」

 『君たちはどう生きるか』みた。
 打たれた。打ちひしがれた。嗚咽しそうになった。した。叫びたかった。行き場がなかった。絞られたぞうきんみたいになった。ぐんにゃりした。

 どうしてもどうしようもなくてもう一回みにいった。やはりよかった、すごかった。

 前の記事では「ただただ疲れた」しか言えんかったけど、ある意味ではそれ以上言えることはなんもないけど、もう一回みにいって、あるていど気合いれて整理してみてきた。

 やりたかった・言ってたことっていうのは「あなたがいるそこの流れ・そこに至るまでの流れ、来し方行く末、それらすべてが何かの何か・誰かの何かであるということ」ってことなんやろと思う。

 終わりのほう、ヒミ(ヒサコ?)が大叔父様の積み木が宇宙(?)へ消えていくのを見て泣くこと、それでいて自分が焼け死ぬのをわかってても「最高じゃないか、真人を生めるなんて」みたいなこと言って笑って自分の時間にかえって行けること、そこのふたつのギャップに何よりも心動かされた。
 真人が大叔父様の(石の)世界を放棄することをわかってても、その真人を愛おしく思えて、でもその愛おしい真人の選択であってもやっぱり大叔父様の世界が消えるのはさびしい、っていう。どっちもあって、どっちもよくて、どっちにも正直で。

 最後、真人は東京にかえるときにもおそらくまだお守りを持ってる。お父さんの呼びかけに「はーい」って応じつつ、それをやっぱり右ポケットに入れる。
 あのお守りっていうのは「虚構を経験すること」みたいなことなんかな、と思う。忘れようが、覚えてようが、どのくらい忘れようが、どのくらい覚えてようが、残る。残ってる。そういうもんなんかなーと。たとえば、真人があの世界のことを忘れても、あるいは夏子に「嫌い」言われたことをいつまでも覚えていたとしても、おそらく夏子を「母さん」と呼び続けるであろうように。
 悪意に満ちた炎の世界で、自分で選んだその世界で、でも大叔父様の目指した世界の残したものをお守りとして持ち続けてる。ということが示唆される。

 宮崎駿は「長い人生のなかでのひとときの夢まぼろし」をかくことが多い気がするけど(千と千尋とか典型)、『君たちはどう生きるか』は宮崎駿の映画のなかでも「夢まぼろし」パートに入るまでが長い気がする。入ってからも、そこの世界のありかたっていうのを明に暗にうるさいくらいかいてる。
 それっていうのは、「人生のなかでのひとときの夢まぼろし」におけるその・・人生、その・・ひととき、その・・夢まぼろしっていうところをグッとくっきり出すためのもんなんやろと思う。それぞれがどんなんであるかをうるさいくらい見せることで、ひとときの夢まぼろしがひとときの夢まぼろしとして果たす役割の深さが際だってる。だからこそああやってあっさり終わるのがあまりに正しく感じられる。何がどうであろうが、人生はつづく。続く人生の底で、何かがどうかでありつづける、変わりつづける。

 絵もいい。絵がほんといい。繋ぎとか昔ながらのやりかたで、過剰なくらいわかりやすくなってて。キャラが見切れていって次のショットに移ったり、同じ構図を繰り返したり、横にまっすぐ広げたり。キャラの動きとかも、いちいち説得力あって、なんかもうほんとに文句のつけどころがない。すごい。鳥のフン描写もすごい。肝心なとこでもみんな鳥のフンかけられてる。まあキレイなキャラはそのあと鳥フンもキレイにされてたりするけど、そこも含めて徹底してる。

 あとどうしても『すずめの戸締まり』と対になってるように見えるところがけっこうあって、それもいつか気が向いたら書きたい。

 思想的にはハヤオ的左翼感ありつつ、でもいつもより右翼的なものを感じつつ、功利主義(わりと古典的な功利主義)を感じつつ、でもそれぞれへの違和感距離感みたいなのもありつつ。けっきょくはそういうのよりも絵と話と見せかたでぜんぶ語る。

 いやもうほんとにすごかった。わけわからんかった。立ち上がれんかった。疲れた。でもほんとによかった。こんなに感動したの久しぶりっていうか初めてじゃないかってくらい心動かされた。とんでもねえ。自分にこんな情緒情動のたぐいあったんやなってびっくりした。

 でもなんか、思い出すだけで、打ちひしがれてまう。ぶわーってなる。映画に・絵に息づくものを思うだけで、あの感じを思い出すだけで、なんかあふれだす。思いもせんかったような見たかったものっていうんか、なんかそういうのが、ある、あった。ぼっちざろっくの「今日もバイトかー」もよかったけど、ほんとそれとおなじようなかんじで、それ以上に、きく。生きていこうと思える、なんか。途方もねえ。

 「君たちはどう生きるか」っていう問いかけ、この問いじたいが(この問いに前提されてるものこそが)こたえなんやろな、と思う。あなたがいるそこの流れ・そこに至るまでの流れ、来し方行く末、それらすべてが何かの何か・誰かの何かであるということ。そのことを知ること。それが絵に、話に、見せかたになってる。映画になってる。それに打たれる、打ちのめされる。

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付論


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