キャラ語尾、文法、機械、価値

 「〜だったんや」はよく見かけるけど「〜やったんだ」はお目にかかったことがない気がする。エセ関西弁は要はいわゆるキャラ語尾なんやな、と今更にして気づいた。

 やっぱ時枝(巾着袋やったっけ)なんやなあみたいなこと思いつつ、こういう「語尾」の用法はなんとかならんか、と思う。わたしはこういうのやと「文末詞」がいちばんすき。文末詞もなんでもかんでも文末詞やろとか言われそうやけど、まだまともではあると思う。

 ガワを変えたりなかみを変えたりはわりと簡単にできる。でも文法を身につけるのは難しい。その文法にのっとって、そういうふうに考えるしかない。と思ってる。

 機械が人間みたいな知のありかたを実現(再現?)できるようんなったとして、わたしは文法を身につけるみたいなことが簡単なんか難しいんかってのがひとつ気になる。自転車のるのを覚えるときなんかは文法から入ってる気がする。そのうち喋ったり自転車に乗ったりを覚えられる機械がでてくるやろう(実際にそいつが喋ったり自転車のったりするかはわからんけど)。そいつにいろいろきいてみたい、そいつとつながってみたい。

 価値とかしがらみとかを捨てるのは人間でもできる。機械はいまんとこ教えてやらんと前提を共有してないぶん露骨にやるだけ。人間はたいしたことやってなくて、ただとらわれてるだけの気がする。で、その鎖に価値があると思ってる。

 それこそが価値やってのもわかるけど、その先の何かも気になる。価値の先・意味の先にありそうな価値的ななにか意味的な何かがみてみたい。攻殻機動隊の先がみたい。わたしは機械にそれをいちばん期待してる気がする。

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