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虎に翼 番外編2(重遠の孫)

明治大学女子部は、昭和4年、松本重敏、穂積重遠の提案により開設された。
開校式挨拶で、重遠はこう述べている。
民法といふ法律は殊に婦人に重大なる関係のある問題で、家庭に密接な影響を及ぼす法律である。その法律を審議するのに男子だけでやってよいものか・・・」
「良い弁護士を造る為、婦人代議士を造るためといふこともあり得るでありませう。併し私はさういうの目的に余り重きを置かないで、婦人が法律を勉強されるといふその事がこの明治大学女子部の目的である(と考えたい)」
そして、
昭和7年第1期卒業生54名、8年弁護士法改正、11年施行。13年田中(中田)正子、武藤(三淵)嘉子、久米愛三 3名合格、となる。
8年に重遠
「私は明治大学女子部の民法講義では、教科書を学生と一緒に読むと云う態度を執り、断えず学生に問いかけ、学生からも質問を受けつつ、所謂一問一答式に講義を進めて居る。ただこれは明大女子部が一級三・四十人の少人数だから出来るので、帝大法学部の如く五百六百、事によると一千もの学生が大講堂に一杯の講義では、中々さふ云う訳に行かない」と述べている。

昭和6年満州事変勃発、7年5.15事件と続く激動の時流のなかで、重遠は、8年京大滝川事件、14年東大平賀粛学問題等、政治権力・軍部と大学・学生、右派と左派、の間に立って、東大法学部の舵取りをやりながらの関与だった。

チフス饅頭事件は14年。被告弁護人を、滝沢事件で京大を追われた、瀧川 幸辰が務めている。
帝人事件は9年の事だ。

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