後妻業の女に堕ちた父
父の七回忌を終え、振り返ることにしたエッセイです。
一人娘で父と仲もよかったのに、後妻に引き裂かれました。
実家も出入り禁止に。母の形見も失って。
父との時間を取り戻せたのは、認知症になった後でした。
私の母は、53歳でクモ膜下出血で急逝しました。
ひとりっ子だった私は、父と途方にくれたのを今でも覚えています。
私の家は自営業で、母が大黒柱のような存在でしたから。
父も私をかわいがってくれ、とても仲の良い父娘でした。
数年して、私が嫁いで家を出た後、父はすぐ結婚紹介所に登録しました。
還暦を迎えていなかった父は、一人で余生を過ごすには、まだ若く、さびしかったのだと思います。
そんな父に積極的にアプローチしてきた女性がおり、父にその女性との結婚の相談を受けました。
「あんまり好みではないのだけれど…」といていましたが、まんざらでもない様子たったので、会うことにしました。
その女性は占い師をしており、妖艶で酒癖が悪く、独占欲が強く、自己中心的で、だらしない感じで、母とは真逆のタイプでした。
初対面から、同性として、嫌悪感があったことを覚えています。
父は、私のことを最優先とし、後々問題にならないよう公正証書を残すと言いましたが、親戚も含め、父の再婚は大問題になりました。
私は、その女性の離婚した元夫まで訪ねて、彼女の話を聞きました。
「お父さんは、お墓に入るとき後悔することになるから、再婚を止めなさい」とその方から助言を受けました。
今思うと、予言は的中です。
親戚一同の反対を押し切り、父はその女性と結婚しました。
そして、母の思い出の詰まった家に住みだしました。
実家は、母が苦労して建てた家で、母の私物や思い出が詰まっています。
父も私が頻繁に帰ってくるようにも、私の部屋を残し、私物をたくさん置かせてました。
たまに実家に行くと、あの女は、母の残した着物を勝手に着たり、私のスニーカーを勝手に履いて泥だらけにしたり、やりたい放題でした。
私が不快に思ったように、後妻も私の存在が邪魔になっていきました。
結婚後、後妻が始めたこと。
まず、公正証書の撤回です。財産狙いが如実にわかる行動です。
そして、私の実家の出入り禁止です。
私の私物は、外の小屋に詰め込まれ、入らないものは処分されたようです。
結局、その小屋も朽ち落ち、母の形見も、私の学生時代の思い出の品をすべて失いました。
そして、二人で海外旅行に行きまくっていました。
母は質素な生活をし、一度も日本を出たこともなかったのに。
雪の降る寒い日に、実家のお隣さんから電話がありました。
母と大切に飼っていた猫が、軒下で寒そうにうずくまっているといういうのです。
私はびっくりして実家にとんで行きました。
父と後妻は、極寒の寒空に家猫を野外に置き去りにして、旅行に出ていました。
餌もなく体も冷え切っていたので、すぐ病院につれていきました。
風邪を悪化させていたようで、看護のかいなく翌日に亡くなりました。
今でも、凍った体で私に頬ずりをし、鳴いていたのを覚えています。
最後に会えて本当によかった。
お隣さんには、本当に感謝しかありません。
こうして、父は後妻のマインドコントロールで、言いなりになり、
後妻の前では、父は、私を傷つけることしか言わなくなりました。
あんなに私を溺愛し、優しかった父なのに。
それでも、私も自分の家庭がありましたし、父と距離を置くようになりました。
後妻の思うつぼです。
数年が立ち、今度は実家を売り払うと父から連絡が入りました。
母が苦労して建てた家で、一人娘の私に残すためのものだと聞いていた家を
後妻が「不便」といういう理由で手放すのです。
本当の理由は、年金暮らしが苦しくなったのでしょう。
後妻は年金がなく、父の資産だけが頼りです。
ところが、実家は母の名義分がほとんどなく、現金化された資産は父と後妻のものとなりました。
亡くなった母が贅沢することなく、一生懸命働いて私に残してくれたのに。
父が80歳を超えたころ、後妻から「父を引き取るように」と連絡が来ました。父の認知症が始まったのです。
賃貸の家を訪れると、荒れ放題のゴミ屋敷になっていました。
でも、父の認知症はそれほどひどくなく、同じことを繰り返して言う程度でしたが、後妻がいうには、家事をしなくなったとのこと。
元々、きれい好きでなんでも自分でできた父は、この家で家事を担当していたのでしょう。
後から二人のケアマネージャーに聞いた話ですが、
後妻がすぐヒステリーを起こし、毎日のように父を罵りDVを加えていたそうです。父は私に助けを求めることもできなかった。
そして、「あの男、私の面倒をみれなくなったから必要ない」と父のことを話していたそうです。
後妻は、父のお金を持って、行方不明になりました。
後妻に家に置き去りにされ、やっと私のところに帰ってきてくれた父を、すぐさま病院につれていきました。
脳の萎縮が激しく、アルコールのせいだと言われました。
脳梗塞を起こしており、少々不自由になっていました。
後妻から解放された父は、施設に入り、笑顔を取り戻すことができました。
あんなに飲んでいたお酒も、それ以来、口にしたいとも言いません。
辛くて、現実を忘れたくて、飲んでいたようです。
とはいえ、問題が残っていました。
後妻は離婚しないまま出て行ったので、今後面倒なことになりそうです。
ちょうどそのころ、私も自分が勤めていた会社が倒産し、自分もどうなるかわからない状態でした。
父の施設の費用は、月額30万円弱かかり、父の元に残ったお金では、数年しか持ちません。
今度は後妻と離婚調停で家庭裁判所かと、弁護士に相談しました。
戦う意志もなく、字も書けなくなった父なので、示談交渉しかありません。
後妻の息子さん経由でみつかった後妻ですが、先方も弁護士を立ててきて、なんとか離婚には応じましたが、預貯金はほとんど返してもらえませんでした。
その後数年で、父は、脳の血管がトラブルを起こす血管性認知症が進み、
テレビのリモコンも操作できず、好きだった本も読めず、アルバムの写真をちぎっていたり、洗面所に紙をつめて部屋を水浸しにしたり・・・。
それでも、頻繁に面会に行き、父を花見に連れて行ったり、今までできなかった親孝行をできる時間をつくることはできました。
そのうち、施設の人に暴力を振るうようになり、精神病院に入院することになってしまいました。
環境に慣れるまでの面会謝絶の3か月のうちに、元気に歩いていた父が寝たきりになっていました。
病状が進み、嚥下ができなくなり、誤嚥性肺炎にかかっていたそうです。
見舞いのできない間、なんでそんなことになったのか、どうすることもできませんでした。
鼻からチューブで栄養を入れられ、点滴で繋がれ、褥瘡が痛々しそうな父が、ベットに横たわっていました。
点滴を外さないように、手に固定板をつけられて・・・。
私は父の足をそっとマッサージしてあげることくらいしかできません。
それでも、父は私の話を静かに聞いてくれ、
「よかったね」など相槌を打ってくれていました。
半年ほどして、父は息を引き取りました。
あんなに元気で、50代でスキーを始めるほどアクティブだった父が・・・。
もっといい人と再婚していれば、きっと、100歳まで元気に過ごしていたのではと悔やんでなりません。
父だって一人娘ともっと仲良く過ごしたかったと思います。
人づてにきいた話ですが、父の死を知った後妻は、知人に
「あの男、死んだわよ」と話していたそうです。
最後に父はどんな思いで、母の眠る墓に入ったのでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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