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愛の言葉のその種類 「別れる決心」パク・チャヌク

言葉というものはとても厄介なもので、それのために苦悩したり勘違いしたり早とちりをしたりして、そのために苦労することがある。
私は時間があれば本を読むかツイッターアプリを開くかあるいは音楽を聞いてその歌詞について空想を拡げたり、映画やドラマのセリフをいちいちメモして大事にとっておいたり、言葉というものに傾倒し、それなしでは人生なんて生きてはいけないと思うのだけれど、それでも普段言葉を扱うのにはかなりの労力を使っている気がする。
それはやはり、幼いころより言葉が伝達のツールとして機能的でないといけないと学んできたからでもある。どんなに難しい言葉をたくさん知っていても伝えたい気持ちや用件などが相手に伝わらなければ意味がないし、礼儀正しく美しい言葉だからといって、自分のイメージをなるべくそれに近い感じで伝えることが果たして可能かというと、意外と雑であったり擬音を織り交ぜた適当な言葉で相手と繋がることもある。というか、日々の私たちの会話はそういった曖昧な言葉遣いや擬音に溢れている。お喋りが上手な人が、決して国語の成績が良かったとは限らないのだから、言葉というものは本当に難しく奥深いものだ。
特に恋愛では、身に染みてそのことがよくわかる。普段より相手の言葉を、ひいては気持ちを、注意深く拾おうと耳を澄ますからだろう。

我々はなんともややこしい日本人なので、思っていることを直接的に言わずにどうやって相手に伝えるかということに随分骨を折る。それはしかし、意外と外国でもあまり変わらないようで、「別れる決心」の殺人の容疑者である人妻を追う、生真面目な刑事へジュンも決して自分の気持ちをストレートに言わない。ソレを一目見た瞬間に、全世界の人間にバレてしまいそうなほど恋に落ちたのに、捜査だと言い張って執拗に彼女を追いかけ回したのに、「別れる決心」をしたその瞬間でさえ、彼は一言も彼女を愛しているとは言わなかた。

私の好きな井上荒野の小説にこんな一文がある。
" 愛が、人に正しいことだけをさせるものであればいいのに。それとも自分ではどうしようもなく間違った道を歩くしかなくなったとき、私たちは愛という言葉を持ち出すのか。"

人は一人でいるときには、だいたい正しい存在であると思う。私は恋をしていないとき、自分を自由で完全体だと思うし、毎日結構ハッピーだ。
誰かと関わるから、軸が歪み、心が揺れ、善悪の基準が少しずつおぼつかなくなる。それぐらい、人と人が繋がることは平穏な日々を脅かす「事件」であり、普段から「正しい」人であるほどその人生を根底から揺らがす。
常に正しく優しく仕事に誇りをもち離れて暮らす妻をきちんと愛しているへジュンは、その善良さゆえに愛の果てに落ちることもできず、やがてある決心をする。魂の抜けたような姿で妻の元に戻った彼の前に、しかし再びソレが現れ、彼はまた忘れていた自分の人生を生きはじめるのだが、「あなたの未解決事件になりたい」と言うソレに翻弄され、やがて彼女を永遠にうしなう。

観客だけが知っているソレのその「行方」の上で、男が一人絶望とも困惑ともとれる顔で、ただ叫んでいる。涙を流し、波に足をとられてふらつきながら、愛する女を探す。彼女はもう帰ってこないことをどこかで知っているような、そんな目をして映画は終わる。
答えはすべて「言葉」にあるのがこの映画の素晴らしいところだと思う。
正直、パク・チャヌクは「渇き」や「お嬢さん」など、破壊的で極彩色のような激しい映像とどんでん返しの監督、というイメージがあったので、ただただ中年の男女二人の報われなかった恋を劇場で見届けたあと、この作品が自分にとって、今後も心に残る映画になるだろうとは思わなかった。
けれどふと、あのときのあの会話の意味はもしかしたら思っていたのと違うかもしれない、と時間が経っても考えてしまうほどに、私にとってはどこか中毒性を持っている作品であった。
本国ではシナリオがかなり人気であるらしく、やはり監督はかなり言葉に重きを置いていたのかもしれない。

あなたが私を愛していると言ったとき ——— ソレが電話でそう言ったとき、へジュンは、そんなこと言いましたっけ?と本心から疑問に思ったようにそう返す。
そのときの彼女の表情を、私はもう忘れてしまったけど、きっと笑っていたのではなかったか。男がとっくに忘れてしまっていた言葉だけを、彼女はずっと握りしめていた。恋愛の結末を請け負うのは、いつだって女のように私は思う。

愛していると言わずに、どうしてあなたに伝えようか。
そんなふうにして男は慎重に言葉を選ぶ。
そうして女は耳を澄ます。
どんな言葉があなたの唇から優しい声となって囁かれるのか。
誰にもわからなくても、自分にだけ届く愛の言葉を女はいつも待ちつづける。


「別れる決心」 監督パク・チャヌク
「あちらにいる鬼」 井上荒野


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