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「空間」からの解放を求める女性たち——新国立劇場《リゴレット》感想——

とても印象深い公演だった。マウリツィオ・ベニーニの指揮は、強弱やリズムの緩急による三連符のニュアンス付けが実に見事で、誰かに手を引かれているようにドラマの中へと引き込まれた。ヴェルディの音楽の中心にあるリズムは三連符である。これを上手く処理できるかが指揮者の腕の見せどころであり、観客にとっては、この三連符の中からどれだけ登場人物の感情を読み取れるかがヴェルディの作品を楽しめるかに直結してくる。今回のような上質な演奏を耳にすると、ヴェルディのことが大好きになる。
ジルダ役のハスミック・トロシャンのコロラトゥーラも玲瓏としていて、スパラフチーレ役の妻屋秀和も安定の存在感を放っていた。特筆すべきはやはりタイトルロールのロベルト・フロンターリだろう。ウィーン国立歌劇場でも歌っている役だけあって、この役のことを知悉していることが歌声からよく伝わってきた。第二幕の『悪魔め、鬼め!』は、ルカ・サルシのヴァージョンでも聞いたことがあるが、フロンターリの方が数段エモーショナルで、彼の今にも崩れ落ちそうになって歌うpieta(慈悲の意)という言葉には心を打たれた。
私は本公演を観に行くに当たって、パヴァロッティがマントヴァ公爵役を努めているヴァージョンで予習したのだが、今回のイヴァン・アヨン・リヴァスの、パヴァロッティの太陽のような明るさとは対照的で、まるで黒曜石を思わせる暗いシャープさのある声に驚きつつ、その声質が、今回の演出で強調されている「孤独」という主題を上手く浮かび上がらせているように感じた。
エミリオ・サージによる演出に基づく舞台装置はモダン・テイストでありながら決してモダンそのものではなく、そのバランス感覚に魅了された。また、私はジルダが誘拐されるときに、彼女が幽閉されている部屋と一緒に拉せられていたことに何より感心した。これにより、サージは、誘拐の場面に陥りがちな滑稽さを回避しつつ、あの誘拐がリゴレットから奪ったのは、娘だけでなく、彼が頑なに護り続けてきた「空間」でもあったことを描いている。あの「空間」、リゴレットが自らの幸福を凝縮したような「空間」は、その実、娘の支配によって作られていたものなのだ。
私が今回の演出で最大限に評価したいのは、そうしたフェミニズム的視点である。サージは今回の演出では、スパラフチーレとマッダレーナの関係が家庭内暴力による支配・被支配の関係に設定されていた。彼らのドラマが展開するのも、他でもなく、彼らの家という「空間」の中である。
重要なのは、このスパラフチーレとマッダレーナの関係が、リゴレットとジルダの関係とパラレルを成している点である。置かれている社会的地位も共通している年長の男性が、同じ空間に住む女性を支配しているのである。
そしてジルダやマッダレーナには、さらに一つ大きな共通点がある。それはマントヴァ公爵に恋をしたということである。
私は、今回の《リゴレット》を観て、彼女らが公爵に惚れたのは、彼の自由奔放さが、窒息的な「空間」で過ごしていた女性たちに眩しく感じられたからではないかと考えた。しかし同時に、もしこうした彼女たちが「空間」から解放される手段が、また権力のある男性との恋愛であるならば、それこそが、社会への強烈な風刺となっているといえよう。「家父長制の勝利」というフレーズが、鑑賞後の私の頭に何度となく去来している。


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