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9月24日のマザコン4

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この一連の日記は、当然であるが1ヶ月近く後から、過去を振り返って書いている。
なので、これを書いている今は9月末と比べればいくらかは状況が変わっているし、自分の気持ちも少しは前向きになれている部分もある(もちろん変わっていない部分もあるけど……)。
なので特に友人知人のみなさんには、私のことはそこまで心配しないでも大丈夫ですよと、この場を借りてひと言伝えておきたい。
ただ執筆時の心境がどうかは置いておいて、この日記内ではあくまで当時の出来事を忠実に、私の心境もその時感じたことをそのまま記していこうと思う。「くよくよし過ぎ」「ネガティブ過ぎる」と感じられるかもしれないが、そこをかっこつけて平気なふりをしたら深刻さが伝わらなくなってしまう。
こういう事態が起きた時に人はどういう心理になるか、そのありのままの恐ろしさを感じてもらえば、いつかこれを読んでいる誰かが同じ目に遭うことを防ぐことができるかもしれない。
私は他人の不幸をわりと面白がるような性悪な人間だが、それでもここまで追い込まれるトラブルは、私以外の誰にも味わって欲しくないと思う。こんなことを背負わされるのは人類で私が最後にしてくれと言いたい……。


翌、金曜日。
9時ごろ起きて、まずは精神科のわかばクリニックに電話をかける。一刻も早く母を受診させなければいけない。
今日は混んでいるんですよ……でもお急ぎなんですよね?と電話口の方が融通を利かせてくださり、午後4時に予約を入れてくれた。よかった、今日診てもらえる……。
ただその前に、午前中は父の病院がある。
これは入院していた総合病院ではなく、たまたま眼科の定期検診が今日の午前に入っていたという。73歳ともなれば、あちこちの病院に通っているのだ。
父が元気な頃には自分で行っていたし去年くらいからは母が父を乗せて行っていたのだが、ほんの数日前からは両親ともに運転ができなくなっている。目の検診など行ってる状況ではないと思いつつも、数ヶ月前から入っていた予約ということで、私が運転して連れて行くことにした。

その眼科は人気があるのかなんなのか、よくわからないが人で溢れていて、予約のある検査にもかかわらずとんでもない待ち時間であった。10時に着いてから、私は待合室で4時間ほど待つことになった。

一応電子書籍でも読もうかとKindle端末を持って来ていたのだが、しっかり寝て起きたとはいえ、やはりそういうものに頭を使える心理状態ではない……。
ひと晩経って、そしてこういう空き時間ができてあらためて今の状況を噛み締めてみると、やっぱり絶望的なのだ。
不謹慎かもしれないが、同じように両親とも体調を崩した場合でも、仮にこれが「交通事故で父が右足を大けがし母が肋骨を骨折し2人とも入院」……というような事態だったら、私はもちろんショックは受けるだろうが今よりは冷静に、今よりはだいぶ精神的に安定した状態で帰省して看病ができたと思う。しばらく東京の家を離れなければいけなさそうだということも、家族として当然の責務としてそれほど悲しみなく受け止めたと思う。外傷のような明らかなものがあれば即座に入院させてもらえるだろうし、退院して来る頃にはおおむね傷は癒えて帰って来るはずだ。最初からおよそ「全治何ヶ月」と先が見えている。なにより、元気に話ができる。話が通じる。

しかしうちのケースは、両親ともに、病んだ箇所が精神なのだ。正確に言えば脳ということになるだろう。
こっちは、全治何ヶ月という見込みが立たない。そもそも治るのか治らないのかも定かではない。7年前には私と母は治ったが、私は回復まで1年、母の場合は期間こそ同じく1年だったが、その間ずっと閉鎖された精神病棟で暮らすことになったのだ。
その時は、まだ父もおおむね元気であった。いや……父は父で母の影響でメンタルをやられ、母から少し遅れて父も入院したものの、2ヶ月ほどで薬がうまく効いて出て来た。おかげでその後はうちには「正気の人間が2人」となり、母の病院への面会やもろもろの手続きや家のことなどを、父と私が分担して行うことができた。母が退院してから日常に復帰するまでの間も父がしっかり動けたので、私は帰省の頻度こそ上げるようになったものの、それでも東京で自分の生活を送ることができた。

ところがその7年後の今……今回の第二次家族崩壊では、父もまた、頭がうまく働かなくなってしまっている。
現状では母よりはしっかりして見えるが、言葉がうまく出て来なかったり、なにより1日中眠そうに、辛そうにボケーっとしている。ごはんは食べられるが、その調達を自分ですることはできない。
こんなことでは、もう私は元の生活に戻ることはできないではないか。この、精神を病んでしまった両親と、私はもう何十年も離れているまったく住み慣れていない家で、いつ終わるかの見込みもないまま2人の面倒を見ながらこれから無期限に一緒に住み続けなければいけないのだろうか……?

午後2時になって、やっと会計が終わり帰ろうかという時に、家で待機している母から電話があった。最初は父のスマホに着信があったのだが、ボケっとして動きが鈍い父はスムーズに電話に出られず、次に私のスマホに着信。応答するとひと言目に「どうしたの!? なにかあったの!?」と不安が炸裂した声。我々の帰りが遅すぎて事故にでも遭ったのかと思い、心配を抑えきれず電話をかけて来たようだ。
とにかくあらゆることが不安になり、その不安を自分の中で留めておくことができない……増幅させて誰かに話さずにいれないのが今の母である。最初に父が電話に出なかったことで、余計に不安が増長したようである。
電話でほんの数十秒でも、おかしくなってしまった親の声を聞くのは苦しい……。

この私自身も、早速昨日から少しずつ精神がうつ状態へ向かっているのがわかる。経験者なので、うつがどういう状態かはわかっているのだ。
わかりやすい基準は食欲だ。私の認識では、食欲がある、ごはんを食べたいとか食べて美味しいとか思えるということは、精神的には健康ということだ。うつまで行かずとも、悲しい時やイライラしている時には誰しも美味しくごはんは食べられなくなるだろう。
それが抑うつ状態にまでなると、食欲は完全に無になる。抑うつ状態(よくうつ状態)というのは、激しく落ち込んでいたりショックを受けていたり、一時的に精神が病んでいる状態である。これが一時的ではなく、慢性化・常態化するとそれは「うつ病」になるのだ。

私はもう一切の食欲を失っているのだが、父はそうでもないようで、病院からの帰りにハンバーガー屋に寄りたいということだった。父は認知症(軽度から中程度の)なので、今の状況の深刻さや母の不安妄想からも私ほどはダメージを受けていないのかもしれない。
ところがハンバーガーショップの駐車場に着くと、父はカバンをごそごそやり、領収書や診察券をぽいぽいと放りながら「クレジットカードがない」と騒ぎ出した。
さっき病院の隣の薬局で支払いをして、それからここまでの間にカードをなくしてしまったそうだ。「どうしよう、どうすればいいか」と聞かれたので、まず私は薬局に電話で問い合わせた。落とし物としては届いていないそうだったので、「じゃあ家に帰ってカード会社に電話して、カードを止めてもらおう」と父に言った。
もうハンバーガーどころではなくなったらしく、父も「もうごはんはいいから、すぐ帰ろう」とのこと。
…………こういうひとつひとつのことが、私の気持ちをどんよりと落ち込ませる。朝から病院の付き添いで4時間も待たされたり、あれをなくしたこれをなくしたという親の騒ぎに付き合ったり、こういうことに私は今後ずっとつきあって行かなければならないのか。しかもこれは父だけの話で、父一人でもこういう大変なところを、さらにうちにはもっとおかしくなった母がいるのだ……。

帰宅して、大変なことをやっちゃった、クレジットカードなくしちゃった、と焦りながら報告する父だったが、母が父の財布を受け取ってあちこちのポケットを調べると、普段と違う場所からあっさりとなくしたはずのカードが出て来た。
さすが母親、45年も夫婦をやっているだけあって、よくわかっているなあ……。
遅い昼食として家にあったパンを両親は食べていたが、私はなにも食べられない……が親がまた余計な心配をするためとりあえず「僕は後で食べるから」とごまかし、でもカロリーは採らなければいけないだろうから部屋に戻って昨日買ったウィダーインゼリーをすする。

落ち着く間もなく、今度は母を病院に連れて行かなければならない。わかばクリニックの予約は4時からだ。
「なんで私が病院に行くの? この前行ったばっかりなのに。行ってもしょうがないよ。これはもう治らないんだから!」と悪態をつく母親を、私は無理矢理のような形で車に乗せてわかばさんへ向かう。
この前行ったばっかりなのはそうらしく、母は2週間ほど前にも、睡眠導入剤をもらうため1人でわかばさんを受診したらしい。
ただ行ったばっかりでも、2週間前と今ではまったく症状が違うのだから仕方ない。
我々家族が破滅の道から逃れることができるかどうかは、精神科での治療にかかっているのだ。


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