9月24日のマザコン9

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月曜日。
すでに、朝目覚めたその時からなかなかの絶望感、死にたさに包まれるようになっている。これも7年ぶりの感覚だ……。
2階の自分の部屋で寝ていて、9時過ぎに起きて1階に降りて行くと、リビングのソファーに精神の正常でない高齢の両親がズーーーーンと落ち込んだオーラを出して並んで座っている。
私が起きるまでは早起きの父が母の不安口撃を一人で受けているため、この時点でもう朝なのに父も相当疲弊した状態になっている。
こんなに爽やかさと縁遠い朝があるだろうか。
今から1日が始まるという時間なのにこんな光景。私だってもっと爽やかに朝を迎えたいし、清々しい日記を書きたい。
でも、朝起きたらもうこの光景で、自分もその空間に加わって1日を過ごさなければならないのだ……いや1日どころか、こういう1日を過ごさなければいけない期間がこの後1ヶ月も何年も続くかもしれない……。そう考えると朝から死にたくもなるよ。
これがこれから何年も続くというのなら、早くそう言って欲しい。それを教えてくれれば、さっさと一家心中するから。ただ精神的拷問を受けながら過ごすために無理矢理カロリーを摂取して生きながらえるというのは、無意味、無益、無価値だ。それは無駄な人生、無駄な苦しみでしかない。個人の感想です。

ただ、先のことはわからない。何年も続くかもしれないし、もしかしたら続かないかもしれない。放っておいたら続くが私次第では続かないかもしれない。だからこそ、この状態からどうやったら脱け出せるのか考えなければならないし、私が住んでいる国・町はこういう境遇の人間も助けられたり救われたりする方策がある社会であると信じたい。

ただこの世の中、仮に助けになり得る手段があったとしても、助けは自ら求めなければ与えられることはない。助けを自分で求めることすらできない人間は放置され死んで行く、それが我々の生きる社会なのだ……。

であるからして、週が明けて月曜になったからには、私は助けを求めて行動しなければいけない。
助けを求めるだけの力が残っているうちにどれだけ声を上げられるかが、私と我が家の生死の境目ではないだろうか……。

まずは朝一番で、父が入院していた総合病院に電話をかける。
今、母がこうなってしまっているのは、父が退院して来たことが原因だ。
父の入院から退院までというのは、またちょっとややこしい経緯があった。話が前後してしまうが、うちにとっては重要なことなのでそれも書いておきたい。

父は不眠がひどくなり自ら入院を希望したにも関わらず、いざ病院に入ったらかなり早い段階で「退院したい」と言い出し、それを何度も病院から母に電話をかけて訴えていた。
入院前、私も急遽帰省して参加した家族会議では、父には不眠に加えて呂律が回らなかったり昼間から具合が悪そうに横になっていたり……要するに「うつ症状がひどい」ということだと思うが……いろいろな不具合があって本人も家族(母)も大変なので、この際入院してまとめて治して来てねということで話はまとまっていた。
それは本人も了承して家族会議は結論が出たはずなのに、入院からたった1週間やそこらで、父は病棟から母に電話をかけて退院したいと訴えるようになったのだ。まだ呂律も回っておらず入院前とほとんど変わらない病状にも関わらず。
もちろん精神の病気というのは完治はなかなか望めないものなのかもしれないが、それでもいくらなんでも早すぎる。家族3人で出した家族会議の結果を、父が勝手に破棄しようとしているのだ。

父は担当の先生から「別に退院したいならしてもいいですよ」という許可は取り付けていたようだ。先生としては、病院が指示したわけでなく本人の希望により入院したわけだから、本人が退院したいなら別にしてもいいよというスタンスらしい。

母は父の入院でしばらくストレスから解放されるはずだったのだが、入院早々に父がしつこく電話をかけてくるので、だいぶ精神的にまいっていたようだ。
そこで、今度は私がリモート参加する形式での家族会議を行うことになった。とりあえず母が父を迎えに行って一時帰宅させ、家に母と父がいる状態で、東京の私に電話をかけてもらいそこで今後の方針を話し合うことになった。
とはいえ、その場は話し合いというよりも、私が一方的に父を説得するという形になった。ついこの前みんなで話したよね、お母さんに負担がかかるからお父さんは入院してしっかり治すって決めたよね、精神科の入院は辛いかもしれないけど、今後のことを考えたら、病院でしっかり治療して元気になって帰って来るのが1番いいよねと、前回の会議の内容をなぞる形で私は繰り返した。
そして、話し合い(説得)の甲斐あり、父は「そうだな……、こうなったら、長く入る覚悟で、治した方がいいよな」と納得してくれたのだった。

そして父は病院に戻り、私も安心していたのだが、その5日後くらいに母から電話があり「お父さんがまた退院したいって言ってるんだけど……」と相談された。
クソッッ!!!
それを聞いて私はもう電話ではどうにもならぬと思い、また浜松へ帰った。8月だ。父にとって家族の話し合いっていうのは、そんな軽いものだったのか。
私は母と一緒に病院に行き、先生にお願いした。父が退院したいと言っていますが、うちは家族全員うつ病をやっていて、中途半端に帰って来ると母がストレスでまた病んでしまう可能性があります。だから退院はまだ待ってくださいと。
それから病室に行き退院する気まんまんでゴネる父とも話し、そんな状態で戻って来られてもお母さんにすごく負担がかかるから、ちゃんと元気になってから出て来てくれと、私は頼んだ。

そういえば、その時私は父にこんなことを言ったのを覚えている。「もしお父さんのせいでお母さんがうつ病再発したら、一人で面倒見れるの? 僕は僕の生活があるから、もう7年前みたいに長くこっちにいることはできないよ? お父さんが、おかしくなったお母さんの面倒見てごはん用意して病院に連れて行ってって、一人で責任持ってできるの?」……と、私は聞いた。
すると父は、「できるよ」と言った。
もちろん、しっかり考えたわけではなく退院したい一心で反射的に答えたのだろう。結果どうなったかと言うと、案の定母のうつ病は再発し、当たり前のように父は自分自身の食事すら面倒見ることができず、私がふたたび自分の生活をすべて投げ出して飛んで来て世話をするハメになっているのだ。

その時は、先生は一応家族の事情もわかってくれ、それ以後に父が退院を訴えた場合は「ご家族の許可が出たらいいですよ」と答えるようにしてくれた。
だが、それでも退院を延ばせるのは3ヶ月までということだった。
家族の考えとは裏腹に、病院からしたら父の具合というのはさほど深刻ではないもので、3ヶ月まではいいですが3ヶ月経ったら退院してくださいと、そのように言われてしまった。
……これはまあ、どこの病院でも同じなんでしょうけど。一般病棟では診療報酬とか制度的な問題で、3ヶ月過ぎたら出てくださいと言われるのが普通だろう。
病状によっては転院先や入る施設を病院の方で探してくれたりすることもあるが、父の場合はその対象にもならないということだった。

結果的に、それからしばらく入院していたものの、2ヶ月経った頃に母が「どうせあと1ヶ月入っててもたいして良くならないだろうから」と、3ヶ月を待たずに退院を受け入れることを決めた。
母としては、どうせダメなら先延ばしするより早く迎え入れて父のいる生活に慣れたいという気持ちがあったようだ。あとは、一人で暮らすのは寂しいという思いもいくらかあったらしい。しかし全体的には諦めの気持ちだったように思う。
ちなみに私は母からその相談をされた時には「お母さんがいいと思うんなら、いいんじゃない」と、まったく無責任に答えたのであった。
そして父は入院から2ヶ月後の9月末に退院となり、そしてあっという間に、母は精神に異常をきたしたのである。

長くなったが、それが父退院までの顛末である。
さて、現在の月曜日に戻り、月曜の朝に私は、その父の入院していた総合病院・S病院へ電話をかけた。
まず精神科に繋いでもらい、電話口に出た看護師さんにざっと状況を話す。とにかくいったん先生と話をさせて欲しいと、お願いすると先生に確認して後ほど折り返してくれるとのこと。よかった。電話を切る。
先生はあくまで父の担当で、父は病院から見ればさほど悪い状態ではない、もう退院した患者。母はもともとそこの患者ではないので、先生と面談できても話せることはたいしてないのかもしれない。しかしともあれ先生に会う必要はある気がする。だって、父が退院しなければ母は気が触れることなく健康な母でいられたのだから。
私は私で、母から相談を受けた時に適当に答えず「家族としては父の退院を断固として受け入れられない」という態度をしっかり示せていれば、母を病気にさせることはなかったのだ……。

いずれにせよ、私はSOSを発信し続ける家族の拡声器にならなければいけない。
SOSは、発信しなければ受信されないのだ。
誰彼構わず、捕まえられる人はみんな捕まえて、うちの事情を話して助けを求めるのだ。どこかに助けが転がっているかもしれないが、それはきっと私が動き回って探さなければ、見つけられないものなのだ。


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