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9月24日のマザコン10

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記事の本題とはズレますが。
まだ連載を開始して1ヶ月も経っていないのに、非常に多くの方……noteインフルエンサーの方たちに比べたら何百分の1ではあるけれどそれなりに多くの方にこの日記を読んでいただけて、とても嬉しく思っています。
Twitter等で励ましのコメントもいただき、本当にしっかり励まされています。皆様、ありがとうございます……。

そのコメントの中でたびたび言われることがありまして、それが、「有料noteにして販売したらどうか」「Amazonの欲しい物リストを公開して物資(介護用品とか新居の家具とか)を集めたらどうか」という2つです。これをかなり言われますね……。
ので、ちょっとこの場を借りてそれに対する私の考えとかスタンスを書いておきたいと思います。なかなか本題に進まなくて申し訳ないですが、まあたまにはよいではないか。

私はそもそも職業が文筆業なので、文章でお金を取ることにはなんの抵抗もありません。なにしろ、私生活を原稿に書いて販売することを15年生業にしてきた男です。
なので販売にはまったく抵抗がないし、実のところ有料noteにすることも考えています。
……ただし、以前も書きましたが、私は今回の自分の体験はできる限り多くの人に読んでもらいたいのです。同じ苦しみを味わう人を1人でも減らしたいので。
そこで、この日記では、この後事態がひと区切りしたところで、いったんそこまでを総括し「うちの家族はなにが悪くてこうなってしまったのか」「これは防げる出来事だったのか or どうすれば防げたのか」「こうなりかけてしまった時はどう対処するのが1番いいのか」「親が元気なうちから普段なにを準備しておくのがよいか」「私が『これがあって助かった……』『あれがあればもっと助かったのに……』と思ったこと(物とか能力とか)」etc...、などをまとめて書きたいと思っています。
まだしばらく先になりそうですが、そこまで書くまでは、無料記事を続けたいと思っています。似たような苦境に陥っている人が誰でも検索してこの記事を見つけられるように。
ただひと区切りと総括が終わった後も日記はできれば続けたいと考えていて、そこから先は有料noteにしようかな(設定できる最低金額くらいで)……と今のところ考えています。
まあまだ未定ではありますがしばらく先、区切りがついたら有料になるかもしれないということはご了承いただけたらと思っております。

なお一方で、「欲しい物リストの公開」は全然考えておりません。
これはもう単純な理由で、文章を書いてお金を稼ぐのとはまるっきり違うことだからです。自分の欲しい物を一般公開して「よかったら誰か恵んでください」とやるのはとても下品に感じるんですよね。乞食っぽいです。それは私が本当にホームレスにでもならない限りやらないでしょう……。
もちろん個人の価値観なので、見る人によってはただの日記で金取るのも欲しい物くれくれと変わらないじゃないかと思われるかもしれません…………が、同じAmazonでも自分の著作を買ってくれくれと頼むのにはなんのためらいもないのに、ただの欲しい物を買ってくれくれと頼むのは大人として抵抗があるんですよね私は。まあ個人のポリシーの問題です……

以上……
余計な話がやたら長くなりました。お詫び申し上げて日記に戻ります。


…………月曜日。
父の元入院先の病院・S病院に電話をかけ、折り返し連絡をもらうことになったので、その間に私は別の精神科専門の病院、KM病院へ行くことにした。

読んでいてかなりややこしいと思うので、ここで整理してみたい。
我々家族が関わっている(関わっていた)病院は、精神科に関しては3つある。なぜ3つもあるんだ。
ひとつは、父がつい先日まで入っていた総合病院・S病院。次に、私はずっと通っていて母も先月から通院し始めた個人病院のわかばクリニック。
そして3つ目が、KM病院だ。
KM病院は、現在はうちの家族は誰もお世話になっていないが、ここは7年前に、母が入院していた病院である。
母は最初はまた別の大きな病院にかかっていたのだが、ようやく入院となった(診察時に付き添いの父が倒れてやっと入院になった)時に先生がこのKM病院に紹介状を書いてくれ、その日から1年間、母はKM病院で過ごすことになった。
そして、1年後に母は元通りの母になって帰って来た。

そのKM病院に今から一人で行く。なんで行くかというと、これはたいした用事ではなくて、「診療情報提供書」という書類をもらいに行くのだ。
母は先週から7年前とまったく同じ症状が出ているのだが、では7年前には母はどういう診断でどういう治療をしたのか、それを私は……当然父も母本人も……まったく把握していなかった。当時は把握していたかもしれないがなにしろ7年も経っているので忘れている。
なので、その情報をなんとか入手したい。当時どういう投薬によって症状が改善して行ったのかという資料をもらい、それをわかばクリニックのわかば先生に渡せば、今回の治療にもおおいに役立ててくれるに違いない。
私はすでに先週の金曜日にKM病院へ電話をして、「診療情報提供書」の作成を頼んでおいたのだ。もちろん診療情報提供書という名称の書類があることなど知る由もなかったが、「7年前に母がそちらに入院していたのですが、どうも病気が再発してしまったようなので当時の診断や治療内容を知りたいです、資料などいただくことはできませんでしょうか」と頼んだのだ。
そうしたら今朝、親切にも「書類が出来ましたよ」と電話があったので、取りに行くのだ。本人の保険証を提出したりお金を払ったりしなければいけないので、郵送では受け取れないのだ。

KM病院は浜松でも南の方、東海道線を超えて海近くにある。対してうちは三方原の方で浜松でも北なので、遠い。
カーナビを頼りに、片道KM病院までは45分かかった。私もここに来るのは7年前母の面会に来た時以来で、病院自体は母を治してくれた素晴らしい病院であるのだが、それでもやはりKM病院の駐車場から建物に入ると当時のことが思い出されて苦しくなった。
受付で来訪理由を話して、母の保険証を渡して料金を支払って、書類をいただく。
KM病院については、以上、それだけ。今のところは以上それだけ……。

帰りに区役所に寄って、私の東京の住民票を取る。
住民票は住んでいるところでなくても、別地方のお役所でも遠隔で取れるそうだ(少し記載事項が制限されるようだが)。不動産屋から、部屋の契約の時に前住所の住民票が必要になるかもしれないと言われたので、先んじて取っておくのです。
最初に「住民票が必要かもしれません」と言われた時は、待ってくれそのために俺は東京まで戻って役所に行って住民票を取って帰って来なきゃいけないのか……それだけのために東京に往復……しかもこの状況下で……と頭を抱えたものだ。がしかし役所へ電話して聞いてみたところ、遠隔請求できるシステムがあるとのことだった。住民票がある地域でしか取れないと思い込んで「住民票を取るためだけの日帰り東京弾丸帰省」をしないで良かった。なんでもとりあえず聞いてみるもんだな……。

ちなみに「日帰り東京弾丸帰省」と書いたとおり、いつの間にか、私は「東京に戻る」ことが「帰省」という感覚になっている。
この前日、日曜の夜に東京に住む友人から食事のお誘いDMをもらったのだが、私はその返事で「今は浜松から出られないので行けないです。いつかゆっくり帰省できたらその時はぜひ飲みに行きましょう!」と書いた。特に意識せずそう書いてから、ほんの3日前までは浜松の実家に帰ることが私にとっての帰省だったのに、今は東京に行くことを帰省と認識していることに気が付いて、悲しくなった。

役所の後は銀行へ。
父の口座から、両親の当面の生活費および治療費を引き出しておかなければいけない。親は自力でATMへ行けないし、お金の計算などもできる状態ではないため私が資産管理をするのだ。今の両親は、巧妙なものでなくてもあらゆる詐欺に簡単に引っかかりそうなので、彼らにお金を管理させるわけにはいかない。
家を出る時にキャッシュカードを預かって来たのだが、暗証番号を聞くと、その数字は、私の誕生日であった。
うちのメイン口座の暗証番号が、私の誕生日なのか……。
なんだか急に子どもの頃、まだ両親ともに若かった頃のことを思い出して、切ない気持ちになった。

「買い物メモ」を渡されていたので、最後に遠鉄ストアでパンやらヨーグルトやらシャインマスカットやらを買って、その買い物をしているところで朝電話をした、父の入院先S病院から着信が来た。
慌てて買い物カゴをサッカー台に置き、応答すると先ほどの看護師さんで、先生が今日は忙しいが、明後日水曜日の午後なら会ってくれるとのことだった。辺りを見回すと「お店への要望アンケートコーナー」を発見したのでダッシュで紙とペンを拝借して、時間をメモする。
うーん、慌ただしい……。
ともあれ先生とのアポが取れたのは良かった。なにしろ父の様子を知っている精神科の先生なのだから。私が話をすることでマイナスなことはなにもないのだ。どうせ私は介護離職状態なんだから、どこでも行ってなんでもやらないと。

そしてはるばる帰宅し我が家に入ると、また病んだ両親がじっと待っていて、私は筆舌に尽くし難い暗い気分になるのだった。

ただ、この日はひとつ、気持ちが少し救われたことがあった。
夕食時に3人でテーブルを囲んでいたのだが(私はなにも食べずただじっとしていたのだけど)、母が私の買って来たお惣菜を食べて、「あ、これ美味しい!」と言ったのだ……。
なんでもないことだと思う。なんでもない、他愛ないひと言だと思うが、しかし私はその「美味しい!」を聞いて、暗雲に覆われていた心にわずかな晴れ間が差したような、救われる気分になったのである。
なにしろ先週の木曜日から、母からは呪いをかけるようなネガティブなセリフしか聞いていないのだ。破滅だの破産だのもうあんたも狂っているだの、心をドスドスと殴られるような言葉を浴びて打ちのめされていた、そんな時に「美味しい」というポジティブな言葉を母が使ったことがすごく嬉しかったのだ……。
母が食べ物を美味しいと感じているということも嬉しかったし、まだ母はそういう前向きな言葉も言えるんだという、そのことも嬉しかった。それが言えるのなら、まだ治るかもしれない……。
こんな状況だけに、前向きな言葉のありがたさが身に染みた。大げさかもしれないが……母のおかげで、言葉の持つ力、些細なひと言がいかに人に影響を与えるか、前向きな言葉を使うことの大切さ……、それを私はあらためて学ばせてもらった気がした。


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