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9月24日のマザコン14

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Y先生には、父の病状についても聞いておいた。
これまでは通院の付き添いも、入院中の面会も先生との面談も主に母が対応していたため、私は父の状態についてあまりちゃんと把握していない。
母がまともであれば母に聞けばいいのだが、今の母にそのあたりの説明を求めてもしっかりした返答は望めないだろう。家族としての対応は、私が一から引き継がなければならないのだ。

父は診断としては前から変わらず双極性感情障害、つまり躁うつ病ということだった。ただし、うつの症状が強く出ていると。たしかに、この2年くらいはずっと調子が悪そうで、躁の状態(明るくなる部分)は引っ込んでいるように見える。
また、入院中に認知症のテストを受けたところ、「軽度から中程度の認知症」という判定になったらしい。専門的にはMCIとか軽度認知障害とかいうそうだ。
繰り返し先生が指摘する通り、病状だけで見れば「入院するほどひどい状態ではない人」ということになるようだ。
そこが、辛いところなのだ。父の症状が一緒にいる家族をどれだけ苦しめるかというのは、我々家族しか理解できない。病院の診察ではその部分が診断されないことが、あまりにももどかしい。

精神系の病気は、家族の負担が他の病気や怪我と比べても大きいと思う。
父は数年前に脳の腫瘍を切る手術をしたのだが、その時には、家族は今のような状態にはならなかった。
脳の手術の時は、最初の入院と手術には私も付き添ったのだが、傷の治りが思わしくなかったということで、私が東京に戻った後で追加で2回も頭を切ることになったそうだ。例によって母は私に心配かけまいとそれを私には話さなかったため、その2回は母が一人で付き添いやら面会やら退院の世話やらをやったのだ。でも、その時には母は特に疲弊した様子はなかった(もちろんかなり大変だったとは思うが……)。
それが、今回うつ状態をこじらせての精神科の入院では、父の退院からほんの数日で母は正気を失ってしまったのだ。そのことに、精神科の病気がどれだけ同居の家族の精神をも蝕むかということが、よく現されていると思う。
でもそこは病院ではほとんど考慮されない。家族の苦しさは、本人の病状としては考慮されないのだ。7年前の我々のように、付き添いの家族が診察室で、先生の目の前で倒れてようやく入院が許されるというのが実情なのだ。それが辛い。
まあ……、もちろん病院によりけりだとは思うけど……。

また車を20分運転して、帰宅した。
私がダイニングでぐったりしていると、病院でなにを話して来たのかと気になっている両親もやって来て、3人でテーブルを囲むことになった。
私はそのまま、父に話をすることにした。ここはもう時間を置きたくない。早くしないと。
まず、もし今後私が行動に行き詰まって手も足も出なくなったら、その時は父にもう一度S病院に入院してもらうということ。その許可はY先生からもらっているので、もし私に限界が来て再入院を頼んだら、その時は素直に従って欲しいということを、伝えた。

そして、これから父に入ってもらう施設を探し始めるということ……。
私も先週この家に呼び出されて、帰って来て状況を見て、もうそういう方向で考えるしかないのだろうなあと、なんとなく感じていたのだ。今日先生と話したことで、もうそれはなんとなくではなく、具体的に考えなければいけない時期にとっくになっているのだと思い知った。本当は、母がこうなってしまう前に、私が動かなければいけなかったのだ。
………その私の考えを、私は父に伝えた。
先生や医療相談員の方からもアドバイスされたが、それ以前に家族として、私がそれがベストな方法………いや、もうそれしか方法は残っていないと思っていること。
もはや父と一緒に短期間暮らすだけで、母はうつ病を再発させ前後不覚になっている現状。ことここに至っては、もううちは元通りの暮らしには戻れない。父と母が一緒に暮らすことはもう無理だ。であれば、まず父に施設に入って欲しい。
母の病状は急性なので、回復の見込みはある。しかし7年かけて徐々に悪くなり、認知症まで出ている父はもうこれから治る見込みがあるとは思えない。両親のどちらかがこの家を出なければいけないなら、それは、食べる物を自分で用意できない父だ。

私は言葉は選びながらも、気後れしないように、臆病になって思っていることを出し惜しみしないように、全部言った。

父は無言で、テーブルの上を見ていた。
意外にも……、いや、意外ではないかなあ……。私がこれしかないと思ったように、父も、もうそれしかないとうすうすはわかっていたんだろう。
なにしろ、おかしくなった母と、私よりも長く暮らしていたのだから。
この目の前にいる「正気を失った母」という、逃れようのない現実、誤魔化しようのない証拠を突きつけられたら、もう父も為す術がなかったのだと思う。
父は、涙を流しながら、「わかった、おまえにまかせる」と言った。

……多分、イヤだとかそんなところ絶対に入らないとか、ごねられることを考えれば、受け入れてくれたのは良いことなんだろう。
間違いなく良いことだ。そこの合意に辿り着けずに困り果てている家族も、世間にはたくさんいるのだから。
しかし、私はとにかく辛かった。
父は家族から見ると独裁者のような人で、俗に言う「老害」という言葉がまったくぴったりと当てはまるような、横柄で自分勝手な人だ。
そんな人が、40年以上も暮らしていた自分の家に住めなくなるということに、普通に考えれば到底受け入れがたい私の提案に対し、わかったと言ってくれたこと。絶対にこの家に住み続けたいに決まっているのに、壊れていく家族を見て、もう自分が施設に行くしかないと、決心してくれたこと。
それが父にとってどれだけ辛い決断か。
父がどういう人間かはともかく、この家は父が建てた家である。私はその家で育った人間だ。この家で、ごはんを食べさせてもらい、学校に行かせてもらった。この家は私のものではない。なのに、家の持ち主でもない私が、この家を作った親に対し、「ここから出て行ってくれ」と頼んでいるのだ。
先ほど病院で話したY先生が、「お父さん、退院する時すごく嬉しそうでしたよ」と言っていた。入院中にも父は、この家に戻りたくて仕方がなかったのだ。その父に対して私は、退院から時も経たないうちに、家から出て行ってくれと要求しているのだ……。私こそ、どんな自分勝手で横柄な人間なのか……。胸が張り裂けそうに辛い。こんなに辛いものか。

私は、なんとか言葉を振り絞って、「わかってくれてありがとう」とだけ言った。それしか言えなかった。それ以上喋るとまた感情を抑え切れなさそうで。涙を堪えながら言えるのはそれが精一杯だった。
さらに少しして父は、私に「どんないいベッドに寝かせてくれるか、楽しみにしてるから」と言ってくれた。
なんで、今だけそんな物わかりが良い人間になっているのか。悔しい。普段の、独裁者みたいな態度でいてくれたら、こっちだってこんなに悲しくはならないのに。

こんなシーンというのは、別にうちだけのものではなく、今の日本においては多くの家庭が経験していることだと思う。自分の人生と親の世話と、いつか天秤にかけなければいけない日が来るのだ。誰もが同じように苦しんでいるのだ。

ただし……。
うちは、特別なところがある。
こういう話し合いというのは、どこの家でも家族が揃った時にするものだろう。そして多くの家では、その時に「悲しみを共有する家族」がいるのではないか。兄弟やあるいはもう片方の親など、家族に施設の入所を頼むその時の、「頼む側の悲しみ」を共有していくらか和らげられるような、自分以外の家族が一人や二人いるのが普通ではないか。
親一人子一人みたいな家庭では1対1になると思うが、うちの場合は、そのさらに先を行っている。
そこまでの私と父のやり取りを聞いて、母が激しい剣幕で割り込んで来た。
「冗談じゃない! そんなの、到底賛成できません。施設なんて、いくらかかると思ってるの!? そんなお金、あるわけないじゃん! 払えるわけないじゃんそんなお金!」

………………。
きつい。
今日くらい、すんなり終わらせてくれないだろうか。
私もすごく苦しみながら話したんだ。家族が苦しんで出した結論を、今日くらいは静かに受け入れてくれないだろうか……。

父は、「もうそれしかないんだよ。わかってくれ」と母を諭そうとしたが、「わからない。賛成できない。そんなお金! どこにそんなお金あるの……!? あんたたちおかしいよ……!」と、聞く耳を持たない感じだ。
お金がないということはないんだよ……。70代の日本人として平均的な貯蓄はあるんだあなたたちは。だから贅沢を言わなければ入れるところはきっとある……。
しかし、それが通じない。母は病気により人が変わっており、お金がない、あっても出せないという妄想に取り憑かれている。普通に1,2,3と進むような会話ができないのだ。

父は、母になのか私になのかそれとも独り言か、「もうこの暮らしはイヤだ」と言った。「もうこういう毎日はイヤだ。もう薬も飲みたくない。もう早く、亡くなりたい」と言った。
私はまたすごく辛くなったし、こんなに何回も気持ちを打ちのめされて、私ももう精神が持たないのではないかと感じた。
私たち家族は、いったいどんな罪を犯したというのだろう。なんでこんなになってまで、人は生きなければいけないのだろうか。
私は、もう明日なんて来ないでくれと思った。


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