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9月24日のマザコン21

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とにかく時間がないので、ドンキホーテに入るとすぐ店員さんをつかまえ、あれこれのある場所を聞く。筆記用具と財布、それから予備のシャンプーやボディソープも買っておこう……。
お菓子のコーナーには立ち寄らなかったため、ドンキホーテ×自分史上最短記録となる、10分以内で買い物を終えることができた。
また猛スピードで運転し、幾度となく建物や周りの車、歩行者などにぶつかりながらもそんなことは意に介さず、一目散に家まで帰る。
15時40分に有玉の家に到着。今から荷物の用意を30分ちょっとでして、遅くとも16時20分にはまた家を出なければいけない。

父親はいつも通りリビングでソファーにぼーっと座っている。
「お母さん入院になったから」と伝えても、「ふーん」と鈍い反応。それでも家族かよ……
私はリビング、父の座る横で、母が昨晩まとめていた服や下着、夜に私が買って来た洗面用具やスリッパや今しがた買った筆記用具など、とりあえず絨毯の上で一箇所にまとめ、まだ記名されていない物全部にマジックで母の名前を書き始めた。
入院のために親の名前を靴下や洗面器に書くというのも、心が削られる作業だ……。

父は私の様子を見ても、特になにもしようとしない。
あいかわらず、ボケーっと座っている。朝早くから母親を病院に連れて行って、この時間にやっと帰って来て入院の準備を必死にしている、家族の一員である私を手伝おうという態度はこの人にはまったく見えない。
これは父も病気だからとか、ボケ始めているからとか、そういうことではない。この人は根本的にそういう人なのだ。単純な人間性の問題だ。
なにかこの人に手伝わせられることはないだろうか……と考えて、私は父をダイニングにある母の引き出しの前へ連れて行き、あるとしたらこの段だろうという一段だけ開けて、「ここにテレホンカードが入ってるかどうか探して!」と言いつけた。

私はまたリビングに戻り、入院のしおりの持ち物リストを確認して、揃った物はひとつずつ線を引いて消していく。
割と早く荷物はまとまった気がするが、昨日の夜ドンキホーテ三方原店で買った「歯磨き用のプラスチックのコップ」を手に取ったところ、そこそこ大きく製品情報のシールが貼ってあり、「みっともないからシール取っておこう」と剥がし始めた……のが失敗だった。
この令和の時代には、製品シールなどというものは跡形残らずキレイに剥がれるのが当たり前だと思っていたのだが、端の方から慎重に剥がしたにもかかわらず、1センチもめくれないうちにあっさり浅破れし(浅破れ=「あさやぶれ」と読む。シールの表面とノリの部分が汚らしく分離して破れてしまう様子。私の造語)、見事に「散らかったシールの剥がし跡」ができてしまった。これじゃあシールがそのまま残っているよりももっとみっともないので、剥がし跡を退治しようと爪でカリカリやってみるのだが、粘着力が強くて取れない……。
台所へ行き、水に濡らして、食器を洗うスポンジやら金だわしやらでプラコップを全力で擦る。なんとかコップの表面がつるつるになった時には、もう出発しなければいけない時間になっていた。30分しか準備時間がないのに、15分ほどコップのシールを剥がしていた……。

母の寝室から持って来た旅行カバンやらビニールの買い物袋やらを並べて、荷物を詰めていく。
ダイニングで引き出しを探っている父に、「テレホンカードあった!?」と聞くと、「ない」との答え。と思ったら、父は白い封筒を手に戻って来た。そしてやや嬉しそうに、「お金を見つけた」と言う。
それは母がこの家の生活費をいつも入れている封筒で、うちはまだ現金払いも多いので、この封筒に常時千円札から万円札までを数枚ずつ保管しているのだ。父はそれを知らなかったのかボケて存在を忘れてしまっていたのか、現金入りの封筒を手にして「いいものを発見したぞ……」というたたずまいである。
これも、父の人間性である。我々家族は今、母が入院先から家に電話をかけられるための、テレホンカードを必要としているのだ。それがなければ、母は怖い病院にいるのに家族と話すこともできなくなる。その大事なテレホンカードを探してくれと、私は父に頼んだのだ。でも父には「知らないお金を見つけた」ということの方が、母が入院中に誰にも連絡できずに心細い思いをすることよりも、重要なことなのだ。
せめてお金を見つけても続けてテレホンカードを探し続けるのならいいが、父はその封筒を見つけた時点でさっさと捜索は諦めてしまい、引き出しは放置された。
(余談だが、この日の夜に私があらためてその引き出しを探したところ、テレホンカードは簡単に見つかった。)

父が持っていた封筒は私が引ったくるように奪って引き出しの中に戻した。父はそのまままたリビングのソファーに落ち着いて、ジーッとしている。
……もう時間がない。私は両手に2つ3つずつ袋をぶら下げて、しかしふと思い出して父に「今日の夕ご飯は、なにか食べるものあるの?」と聞いた。すると、ないとのこと。「なに買ってくればいいの!」と尋ねると、セブンイレブンでパンを3個買ってきてくれと頼まれる。
パン3個……、決して面倒くさいことを言われているわけではないし、むしろ簡単な買い物にはなるのだろうが、しかし、こんな日にも私は父の食べるものを用意しなければいけないのだね……。うちにはなんやかやごちゃごちゃ入った大きい冷蔵庫も、カップラーメンのストックも災害用の非常食みたいなものもあるのだから、探せばなにかしら食べる物は見つかるはずだ。せめて今日くらい、「大変だろうから今日は俺のことはいいよ。なにかある物を適当に食べるから」と家族に言える人が、父親であって欲しかった。なんで、あなたは私を、助けてくれないんだ。

いくつか足りない物はあり、例えば爪切りは買い忘れたし、テレホンカードもないし、万全ではないが残りは明日持って行くことにしよう。
とりあえず家を飛び出し、軽のトランクに袋を詰め込みまた猛烈に運転して病院へ向かう。

カーナビでは到着予定時刻はギリギリで17時前、16時58分くらいになっていたが、車というものに乗り慣れていない私は、夕方に街を走れば渋滞というものに出会うということを想定していなかった……。
あっさりと、到着予定時刻が17時を過ぎ、17時1分2分3分……とどんどん数字が進んで行く。しかし、どうにもならない。早く、早く進んでくれよっ、と前の車にガンガン追突したりしてみるものの、それでも大勢は変わらず渋滞の中に留まるしかない。
結局、病院に着いたら17時を10分くらいまわってしまっていた。
まあなんとか大丈夫だろう。入院の荷物なので拒否されることはないはず。私が今日中に母の着替えやらを運んで行けなかったら、病院のスタッフさんも困るだろうから。

受付では面会用紙を記入するよう指示される。
これから、病棟に行く際は毎回面会用紙で家族の住所氏名、続柄や病棟番号や面会時間などを申告しなければいけない。
記入が終わり用紙を提出すると、「では体温を測らせてください」と、例の機械でおでこをピッとやられる。
数値を見て、受付の方は言った。
「あっ、ちょっと熱がありますね。37度1分です!」

………………。

しまった……。
ロキソニンの効果が切れた……。
そうだった。昨日から私はきわどい熱があるんだった。朝ロキソニンを飲んだものの、薬効が切れて熱が復活してしまったのだ。あまりに慌ただしすぎて、午後の分を飲むのを忘れていた。
いやいや……ここで立ち入り不可とかあり得ないだろう……。俺が病院に入れなかったらどうなるんだよ! もう家族は私しかいないんだ。後でまた来るからねって母に言ったんだから! 熱がなんだ!! 行かなきゃいけないんだよ病棟に!!!

また暗澹たる気持ちに沈んでいた私であったが、その先は昨日のわかばクリニックと同じパターンとなった。
「ではこちらでもう一度測り直してください」と、脇に挟むタイプの体温計を手渡される。祈りながらもう一度測定して結果を確認すると……、36度8分。なんとか通行証をもらうことができた。あーもう……

エレベーターで病棟まで上がり、鉄のドア横のインターホンを押す。
精神科は、他の科と違って家族と言えども勝手に病棟に入っていくことはできない。患者の脱走を防ぐために鍵付きの扉が据え付けられているので、インターホンで中のスタッフさんを呼び出さなければいけないのだ。
時間に遅れたからか、出て来てくれた夜シフトの男性スタッフさんはあまり愛想が良い感じではなかった。私から荷物だけ受け取ってすぐ扉を閉めようとしたので、慌てて「すみません! ちょっとでいいので母と会えますか!?」と申し立てる。

頼み込んで、母を連れて来てもらうが……、コロナ対策のため面会者は病棟に入ることができず、廊下で、さらに対面用のビニールのパーテーションを挟んで話すことになった。
母の様子は………、あまり良くない。すごく沈んだ表情で、いつもの不安の妄想と、それに「怖い」が加わっている。
昔入っていたとはいえ、もう7年前、自分の家ではない空間で知らない人ばかり、時にはおかしな人が(実際には母と同じように「心を病んでしまった人」であり、「おかしな人」ではないのだが)奇声を発したりウロウロ歩き回っているような場所……、そういうところで急に今日から暮らすことになって、不安と恐怖が膨れ上がっているようだ。家にいた時よりも、大きく動揺している様子である。そんな母を見ていると、私もいたたまれなくなる……。
でも私が明るさを振り絞って「また残りの荷物持って、明日来るからね」と言うと、母は「もう来なくていいよ、こんな遠いところまで、もう来なくていいから」と言う。
そんなに怖がっていて、ものすごく寂しいだろうに、来なくていいと言ってくれるんだね……。
明日、また来るから。

面会が終わり、再び扉を開けてもらうために、インターホンでスタッフの方を呼び出す。
連れられて行く母を見送る。病棟の重い扉がまた閉められた。


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