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9月24日のマザコン20

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10時前にKM病院に着いて、臨床心理士さんと面談して、売店で昼食を買って車の中で食べて、さらに1時間ほど待って午後2時になり、ようやく先生に診察をしてもらえることになった。
番号を呼ばれて診察室に入ると、担当は女性の先生であった。マスクで顔が隠れてはいるが、だいぶ若々しい雰囲気のある先生だ。年齢を推定するのは失礼な気もするが、私は失礼な人間なので推定すると多分30代後半くらいの方だと思う。

これまでの経緯は臨床心理士さんを通して伝わっているのだとは思うが、事実確認とか内容の整理のためだろう、ここでも母の症状や今までのいきさつを聞かれて、私は何度目になるかわからないがここまでの流れを順を追って話した。

自分で言うのもなんだが、私は病院に来る患者(の家族)としては、トップクラスにわかりやすい病状・経過説明ができている自信がある。
なにしろ、私は帰省してから毎日、日記を書いている。両親の症状や言動を私から誰かに説明しなければならない時がこれから何度もやって来ると確信していたので、浜松に来てから毎日寝る前にグーグルドキュメントを開いて、その日にあったことや父母の様子を記録しているのだ。
日記を書くメリットは、文字で残るというのももちろんだが、「文章にすることで記憶にもしっかり定着する」というのも大きい。ある出来事を整理して文章におこすと、それが頭の中にもしっかり整理されて収まるのだ。
まあ面倒だし、辛い時にはなおさらそれを書き残す気になんてなれないものだが、いや、むしろ辛い時こそ、記録を残さねばいけないのである。これは私が過去に大陸横断等の一人旅をしている時に学んだことだ。楽しい時や順風満帆な時の日記よりも、苦しい時に歯を食いしばって残した日記や写真の方が、後から遙かに価値が出るのである。
実際に浜松で絶望に打ちひしがれながら日記を書いたことは、お医者さんや役所・施設の人と話す時にすごく助けになったし、おかげでこうして細かい描写も混ぜながら日記を再編集・公開できている。「苦しい時にこそ書く」という、一人旅で身につけた習慣が、旅とはまったく関係ない浜松での苦境で役に立ってくれている。海外の一人旅も辛くてイヤで仕方なかったが、どうやら得られたものもいくらかはあったようだ……。

母のことだけでなく、父の病歴を含めた我が家の家族の現状についても、私は切々と話した。お医者さんにとっては患者本人の病状が1番重要なのだと思うが、患者の家族にとっては、本人の病状よりも家族の状態がより深刻で、大事だったりする。この先生はそれを理解してくれる先生だったらいいのだけど……。
ひと通り私が話し終えると、担当の女医さん・H先生は一応うちを取り巻く状況はわかってくれたようだった。
私がしつこく「もう家族が限界なので、なんとか入院をお願いしたいと思い、紹介状を書いてもらいました」と強調すると、先生は「病院の先生からも(わかば先生からも)入院をすすめられたのですよね?」と聞いてきた。同じ市内の精神科なので、もしかしたらH先生はわかばクリニックのことも知っているのだろうか。
私が「そうです、ただこちらからも強くお願いしましたけど……」と素直に答えると、先生は「なるほど」と。
そしてH先生は母の方へ向き直ると、母に、「じゃあお母さん、息子さんのためにも、いったんご家族と離れて、入院して少し休憩しましょう」と言った。







………………。
















良かった………………。










その先生の言葉を聞いて……、私の肩の重りは、しっかりと、軽くなった……。

これで、母の入院が決まったのだ。
ここは病棟のある精神科の病院、その病院で患者を入院させる権限を持つ先生が、母に「入院しましょう」と言ってくれたのだ。
母はこの病院に、入院させてもらえるのだ……。絶望しながら母を車に乗せて、あの家に帰らなくてもいいのだ……。

ただ、H先生は母に話した後で、私に向かってこうも言った。

「お母さんはこれから入院して治療ということになりますが、お父さんの方をどうするかも問題ですね。いつかお母さんが回復して家に帰ることになっても、その時におうちの状況が変わっていなければ、同じことが起きてしまいますよね?」

うーーん。


この先生は、とてもよくわかってくれているな……。
まったく100%先生の仰る通りで、母は父と4,5日一緒に暮らすだけで病気を発症したのだから、治療して良くなって退院して家に帰ったとして、そこに父がいたらまた4,5日で病気になって病院送りである。
それは私はとてもよくわかっていることだが、この最初のタイミングで先生がそれをしっかり指摘してくれたのはやや意外だった。お医者さんとしては「家族の問題はそっちで解決してね」というスタンスなのかなあと思っていたので。少なくとも、父の入院していたS病院の雰囲気はそうだったと思う。
私は、今はまだ頭が混乱していて具体的には考えられないのですけど、でも父のことは、僕がなんとかします………母が退院する時には、父はもう家にはいないように僕がなんとかします、と返事をした。
どうすればいいのかはよくわかっていないが、なんとかすることができるのは私しかいないのだから、私がなんとかするのだ。

母も、先生から入院する意思を問われ、「入院します」と答えてくれた。
母はお医者さんの言うことは聞く性質があるのと同時に、私を心配してくれているのだ。母は残っている部分の理性では、自分が家にいたら私が苦しむということを、ちゃんとわかってくれているのだ。
自分の親が、「子どものためなら自分が犠牲になる」という意識を根底には持ってくれている親で、本当に良かった。そうでない親が世の中にはいっぱいいて、そうでない親が子どもを精神的に殺しているということを私は知っているから……。

そこで先生は他のスタッフさんを呼び出し、すぐに医療相談員の方や看護師さんが入院の手続きのために来てくれた。
他の科はわからないが精神科の入院の場合、病棟からの外出禁止等、行動を制限するような厳しいルールがいろいろあるため、H先生からその説明があり、母が同意書にサインをする。
そのまま、もう母は病棟へ移動することに。母は病棟へ、私はいったん家に帰るが、必要なものがいろいろとあるため、また荷物を持ってすぐ戻って来る。
私と別れて病棟へ向かう母は、また「怖い、怖い」と怯え、看護師さんに慰められながら歩いていた。うちの母は、立派な母だ……。

さて……、落ち着いている場合じゃない。飛んで帰って、今日中に荷物をまとめてまたここへ来なければいけない。
まずは受付横の事務所に寄り、入院のための書類を記入する。保証人が2人要るようで、私の名前と、もう思考能力が正常でないのであまり意味がないと思いながらも父の名前を書く。
入院するにも、2人も保証人が必要なのだなあ。では、兄弟も奥さんも子どももいない私は、将来重い病気にかかったら入院もできずに家で死ぬしかないなあ。仕方ないか……。それが家族を作れなかった人間の運命だ。それが生物の生きる世界というものだ。
駐車場に出て、車に入るとまず出発前に、先ほどもらった「入院のしおり」を開く。
しおりの中の「持ち物リスト」の項目を眺めて、家にはない、買わなければいけない物をチェックする。服や洗面道具などはひと通り準備してあるが、例えば小銭用の財布は買わなければいけない。ペンとメモ帳も、しっかりしたのを買った方が良いだろう。テレホンカードは、うちのダイニングの母の引き出しにあったような気がするのだが……、買うとしても今時テレホンカードなんてどこに売っているのだろうか?
とりあえずテレホンカード以外は、途中のドンキホーテで揃いそうだ。
わりと新しく出来たドンキホーテ浜松泉町店はカーナビには現れなかったので、iPhoneのグーグルマップで探し出して目的地にセットし、車を出す。

それにしても、時間がない……。
先ほど聞いたところでは、荷物は5時までに持って来なければいけないということだった。しかし今はもう午後2時50分。家までは車で40分かかるので、まったく余裕がない。
真っ直ぐ家に帰るだけでも到着は3時半で、5時に病院に着くためには家を4時20分に出なければならず、猶予は50分。途中の買い物で15分かかるとすると、家に着いてからの荷物の準備と整理を35分で終わらせなければいけない。テレホンカードもどこの引き出しにあるか、探さないといけない……。はあ、間に合わない……。

この時、この後の行動を頭の中でシミュレーションしながら、私は本当に本当に、切実に思った。
せめてもう一人、仲間が欲しい……。
もし健康で動ける家族が、もう一人だけでもいてくれたら。ここから電話をして、「お母さん入院になったから! あれとこれと買って来て! それから引き出しにテレホンカードがあるかどうか見てみて! 服と下着もまとめてあるやつ、カバンに入れておいて! あと30分で着くから!!」と、頼める家族がいたら……。
母の入院ならば、もし私に姉か妹がいて、こういう時に協力して動けたらどんなに助かるだろうなあ…。兄弟でもいい。誰かあと一人、この状況を共有できる、普通の家族がいたら。話ができる家族がいたら……。

そんな望めない願望を頭に浮かべながら、私は目いっぱいスピードを出して家へ向かった。


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