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【コラボ小説】ただよふ 12話(「澪標」より)


僕は呆然としたまま、帰宅した。
妻はもちろん、息子もまだ帰っていなかった。

僕は玄関で、靴を履いたまま座り込んでしまった。

「…実咲さんが、不倫?」
実際に声に出してみると、裏切られたことへの悲しみと怒りがぐちゃぐちゃに溢れてきた。

玄関に飾られている花の香りが、鼻についた。
毎週新しく替わる花は、男から贈られているものに違いなかった。

僕は花を三和土たたきに投げつけようと、立ち上がって花瓶に手をかけた。

『航、お花は生きているから乱暴に扱っては駄目だよ。弱いものには優しくするんだよ』
幼い頃、祖母と新潟の庭で土いじりをした記憶が頭を過ぎった。

僕は花瓶から手を離し、代わりに壁を強く殴り付けた。

少しでも気持ちを落ち着かせようと、台所に行き、コップに汲んだ水道水を一気に飲み干した。

僕はリビングのソファに座り、きつく手を組んで、妻の帰宅を待った。

20分後、妻が鼻歌を歌いながら帰ってきた。
いつもなら病の寛解が続いていて、喜ばしく思えたことも、只々腹立たしかった。

「ただいま〜」
挨拶して僕の方を見た妻は、瞬時に顔色を変えた。

「…実咲さん、あの男は誰?」
僕は低い声で、妻に尋ねた。

「あの男って、誰のこと?」
妻が僕から目線を外した。

「誤魔化さないでっ!さっきまで男と一緒にいたでしょう!?僕、電車から見たんだ!!」
僕はつい感情的になって、声を荒げてしまった。

「航くん、怒鳴らないで。あの人は『友達』よ。航くんには関係ないわ」
僕は体が硬直し、喉が詰まるような感覚に陥った。

「…みさ──」
僕が更に問い質そうとした時、息子が玄関を開ける音がした。

「航平、おかえりー!航くん、今日の夕飯は私が作るわね!」
そう言うと、妻は僕の尋問から逃げるように、夕飯の支度を始めた。

この日の夕飯は、気まずい雰囲気が流れていた。
理由が分からない息子は、早めに食べ終えると、さっさと子ども部屋に行ってしまった。

「…航く──」
「すいません。今…口を開くと、酷いことを言ってしまいそうです。」
僕は話しかけようとする妻を拒絶し、黙って食器を片付けると、自分の部屋に籠った。

翌朝、僕は妻が起きる前に家事を済ませ、いつもより早めに出社した。
既に出社している人が何人もいて、僕は驚いた。

「海宝課長、おはようございます。今日は早いですね!」
話しかけてきたのは、運営部の柴田さんだった。
手には缶コーヒーと何かのテキストを持っていた。

「おはようございます、柴田さん。まだ始業まで時間がありますが、いつもこんなに早く出社しているんですか?」

「はい。私、郊外の方に住んでいるので、電車の混雑を避けて、早めに出社しているんですよ。始業時刻までは、朝活してます」
そう言うと、柴田さんは運営部の方に去っていった。

僕は自動販売機でホットの爽健美茶を買い、自分の席に座った。
僕は新聞を広げながら、社内の様子を観察していた。

朝活をしている人もいれば、社内で朝食を食べている人もいた。
僕が見ようとしなかっただけで、会社という小さな世界にいろいろな人生が詰まっているのだと思った。

早く結婚を決めなければ、僕にも別の可能性があったのに、と思わずにはいられなかった。

しばらくして、あなたが出社してきた。
「おはようございます。昨日はすいませんでした」
あなたは申し訳無さそうに頭を下げた。

「いえ、僕のあなたへの配慮が足りませんでした」
前日あなたが泣くまで、僕はあなたが妻に抱いている嫉妬や我慢に気づかなかったのだから、謝るべきなのは僕の方だった。

あなたは、僕の手元のペットボトルに目を遣った。
「珍しいですね、あなたが爽健美茶を飲んでいるの」
「…今日は、ちょっと胃の調子が良くなくて」
僕は胃の辺りに手をあてた。
帰宅後に妻と揉めたストレスが原因だとは、あなたに知られたくなかった。

「…やはり、昨日私が泣いたから」
あなたの表情が曇った。
「それは、絶対に違います!違うので、安心して下さい!」
僕は慌てて否定した。その様子が可笑しかったのか、あなたはクスクス笑った。
「分かりました。そろそろ仕事の準備しましょう!」
あなたが笑ってくれて、僕はほっとした。

妻の、『友達』との『火遊び』は、どんどんエスカレートしていった。
家事は疎かになり、これ見よがしにお洒落をして、出掛けていっては、夜遅く帰ってくるようになった。
家にいる時も『友達』とのメールに夢中で、僕や息子が話しかけても、生返事をするだけだった。

息子が不在の時に、何度も火遊びを止めるよう訴えたが、
「航くんだって自由に仕事してるんだから、私だって自由にする権利はあるでしょ?お金だって自分がライターの仕事で稼いだ分から出しているし、文句を言われる筋合いはないわ!」
と、まともに取り合ってはもらえなかった。

妻の双極性障害を再発させてはならないと思うと、僕は強く非難することも出来ずに、ストレスが溜まっていった。

「ねえ、父さん。母さんは、躁状態ではないの?」
妻が留守中に、息子が不安気に聞いてきた。

「航平、母さんは至ってまともだよ。」
妻の目に余る行動は、躁状態からではなく、恋に狂っているからだと僕は思った。

息子も、僕の突きはなしたような口調に、両親の不仲を察したのか、アルバイトのシフトを増やし、遅く帰宅するようになった。

僕は、妻を支えていくことに、疑問を感じるようになっていた。
今までは、辛いことがあっても妻の心は僕にあると信じていたから耐えられた。
だけど、夫の目の前で他の男に入れあげる妻に、果たして支える価値はあるのだろうか。

海宝家は、確実に崩壊へと向かっていた。
僕には崩壊を食い止める術を持っていなかった。

週末、一人暮らしをしている弟の千洋ちひろに会いに行った。
弟は客船でシェフをしていて、父親が夢見た海の男を実現していた。

「別に、父親の夢を叶えるために船に乗っている訳ではないよ。料理を作ろうと思った場所が、たまたま船の上だっただけだよ。」
そう言える弟が、僕にとっては眩しかった。

「今、近所の公園の紅葉が見頃なんだ。観に行かないか?」
僕たちはその公園まで歩いて行った。
坂道が多く、あなたと横浜の公園を散歩したことを思い出していた。

公園には大きな池があり、僕たちは池の側のベンチに座った。

「兄さんが東京方面に越してきても、休みの日がなかなか合わないからなー。航平も大きくなったんだろうな」
弟が航平に会ったのは、船上で家族のみで行なった父親の七回忌が最後だった。

「航平、高校生になってからとうとう僕の身長を越したんだよ!身長は僕に似なくて、本当良かったよ!」
「兄さんが大きかったら威圧感ありすぎて、怖いから…」
弟は苦笑した。

「千洋は自分の家族が欲しいとか思わないの?」
千洋は性格は穏やかで、顔が整っているし、僕と違って身長が高いので、女性受けは昔から良かった。
結婚しないのは、何か理由があるのだと思った。

「独りが寂しいって思うことは、時々あるよ。だけど、家族を持つって責任が伴うだろ?人生の荒波から、俺は家族を守り切れるのかなって。俺はそれが怖い──」
弟は真っ直ぐ僕を見た。

弟は父親の死後、母親や僕の苦労を見てきた。
それが結婚観に影を落としてしまったのだろう。

今の僕には、結婚を肯定出来る言葉が何ひとつなかった。
申し訳なく思っていると、弟はこう続けた。

「──だけど、怖れを乗り越えて一緒にいたいと思える人に出逢えたなら、それはホンモノだと思うんだ」

弟の言葉を受け、僕は自分の心に問いかけた。
僕が怖れを乗り越えて一緒にいたいと、本当に望むのは誰なのかと。

僕が望んだのは、心が離れてしまった妻ではなく、愛しいあなただった。

僕にはモノクロに感じていた空や紅葉が、鮮やかな色を取り戻した。


今回は、may_citrusさんの原作「澪標」の10話と11話の間にあったお話として書きました。


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