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【コラボ小説「ただよふ」番外編】陸《おか》で休む 1 (「澪標」シリーズより)


僕と澪さんは、僕の学生時代からの友人であり、彼女の直属の上司だった志津を介して出会った。

お互い磁石のように惹かれ合っていたものの、僕には既に妻子がいた。今は亡き妻の実咲さんは、寛解状態とはいえ、双極性障害という完治しない病を抱えていた。息子は高校・大学とお金がかかる年頃だった。故に、僕は家族を捨てることは出来なかった。

事情を知った澪さんは、妻の病のケアに疲れ切っていた僕の支えになってくれた。僕が澪さんを思えばそれだけ、家族への思いも深めていくと分かっていながら……

しばらくは、上司と部下としてお行儀の良い関係を維持していたものの、ある事件により、僕たちは男女として一線を越えてしまった。それから、周りに関係を知られないように付き合っていたが、妻が元婚約者と火遊びをしていると僕は知ってしまった。支え続けていた妻の裏切りに、僕の心の糸は断ち切られてしまった。

僕は澪さんと、息子の大学進学を待ってから、新たな人生の航海に出ることを決めた。そのことを告げた新潟の冬の日本海のように、荒波の航海になると知りつつ、澪さんは受け入れてくれた。

長岡や土浦の花火大会へ行く約束や、澪さんの手料理によるクリスマス、互いが勧めた本の感想を言い合ったり……幸せだった。

しかし、2020年、世界規模で流行した新型コロナウイルスによって、状況は一変してしまった。僕たちが勤務していた本社で感染者が出てから、オンライン業務に切り替わり、僕たちは直接会うことが出来なくなった。妻は、僕や息子がウイルスに感染しているのではないかと、不安を募らせていき、持病の双極性障害を悪化させ、強迫性障害(不潔恐怖)を併発してしまった。

僕と息子が妻を宥めても、妻の不安は悪化の一途を辿っていった。疲れ切ってしまった僕を見かねて、息子が「僕が母さんを支えるから、父さんは自由に生きて。僕、大学に行かないで働くから」と言い出してしまった。その直後の妻の自殺未遂。僕は壊滅寸前の家族を捨てることが出来なくなった。

それに、このまま澪さんとの人生の航海を続けてしまったら、僕が妻を自殺未遂に追いやった罪を、澪さんは自分の責任として背負い込んでしまう。僕は澪さんに、1年前に人生の船出を誓った冬の日本海で別れを告げた。

水深が十分にあり、船が航行できる通路をみお。澪を航行する船が座礁しないよう、水深などを知らせる標識を澪標みおつくしという。僕は澪さんを澪標に例えて、「あなたとの別れが人生の澪標だ、この航路を絶対に外れてはならない」と誓った。

澪さんは僕と別れた後、本社から北関東事業所へ異動していき、34歳の時に寿退社した。

妻は家族だけでなく、医療関係者や同じ病を持つ仲間に支えられ、強迫性障害を寛解させた。時々双極性障害の波はあったが、妻なりに乗り越えていった。息子も大学を卒業後、自分の家庭を持ち、仕事で世界中を回っている。崩壊寸前だった海宝家は、関係を築き直すことが出来たのだ。

脳梗塞で倒れ84歳まで懸命に生きた妻を看取り、僕は人生の役割を終えた。澪さんのお陰で海宝家の今があるのだと息子に伝えた後、僕は脳梗塞で倒れ、天へ召された…はずだった──

「──エルバ…ヴェール。」
そう呟いて僕はゆっくり目を開けた。

「海宝課長!」

「…ここは、天国?
澪さんそっくりの…天使の声が聞こえる。」
この世を去ったと疑っていなかった僕は、ここが天国だと思い込んでいた。

「課長!ここは病室です。助かったんですっ!」
僕は声の主を見て驚いた。ここは病院で、ここにいるのは歳を重ねたあなた本人なのだとすぐに気づいた。

「何で…あなたがいるんですか?僕は弱っている姿を…あなたに見られたくなかった。」
せっかくあなたに会えたのに、僕はつれない態度をとってしまった。

「…すいません。課長が倒れたって航平さんに聞いて。居ても立ってもいられなくて来てしまいました。…すぐ帰ります。」
僕に拒絶されたと思ったあなたは、悲しそうな声でそう言うと、病室を出ようとした。

このままあなたを帰してしまったら、永遠に会えなくなる。それだけは嫌だった。

「…嘘です。本当は死ぬほど会いたかった。」
おずおずと僕はあなたのいる方に顔を向き直した。

あなたは病室にある丸椅子を1脚、ベッドの横に持ってきて座った。

「…航平が、あなたを連れてきてくれたんですか。あの子には感謝ですね。」
僕は弱々しく微笑んだ。

「私も…課長に会えて嬉しいです。」
僕は退職する頃には部長になったが、あなたは知っているわけがなかった。

「もう、『課長』じゃ…ないですよ。会社を辞めて、もう何年も…経ちます。」

「…では、『航』…さん?」
あなたはまるで少女のように照れくさそうに頬を染めた。

「…あなたに名前を…呼ばれると、特別な響きが…しますね。」
まさか下の名前で呼ばれるとは思わなかったので、僕はくすぐったくなった。

昔愛し合っていた頃から、本当は下の名前で呼び合いたかった。たが、一旦そうしてしまえば、人前でボロが出てしまう気がして出来なかった。先ほど意識が混濁していた時、僕はつい【澪さん】と呼んでしまった。

「…そういえば、今あなたは…何をしているんですか?ご家族は…あなたが…ここに来ていること…ご存知なんですか?」

僕はあなたが北関東事業所を寿退社したことまでしか知らなかった。あなたの同期である竹内くんや彩子さんに、あなたの様子を聞くことも出来たが、家族を守る決意が揺らがないよう、自分に禁じていた。

「私は今は小山の病院で看護師の外科の師長をしています。あなたといた頃より、逞しくなったんですよ。たちの悪い患者さんも、一人で上手くあしらえます。」
あなたは僕に心配かけまいと思ったのだろう。しかし右手で左手を隠す動作をするのを、僕は見逃さなかった。

「…指輪、してないんですね。看護師で…指輪を付けられないとしても、こまめに…ハンドクリームを…塗り直すあなたです。もし…結婚しているなら、外では…付けるのではないですか?」

「…あなたには隠し事は出来ませんね。あなたが察した通り、私は今一人で生きています。結婚した先の家では良くしてもらえました。私が後継ぎを産めなかったので離婚という結末を迎えました。検査をしたり人工受精とかいろいろ試したのですが、ダメでした。」
あなたは笑顔を作った。

「何で…そこで…笑うんですか。捨てられたのに。あなたはっ、優しすぎる!あの頃も…今も!
もっと…怒って良いんです。泣き喚いて…良いんです。本当は…僕は…別れを切り出したとき、あなたに罵って…欲しかった。だけどあなたは、どこまでも優しくて…。」
憤った僕は泣き出してしまった。

「僕が…あなたの夫…だったら、あなたの身体に…負担をかけておいて…捨てたりしなかった。」
そう言った時、僕は我に返った。

「…あなたを置いていった男の…言う台詞ではないですね。」

あなたは家庭を築き、幸せに過ごせていると思い込んでいた。僕を身を尽くして支えてくれたあなたが、一人で生きているなんて、信じたくなかった。

「離婚のことは、もう良いんです。もう過去のことですから。それよりも、私は嬉しいんです。あなたが後ろ指を差されることなく奥様と添い遂げたこと。別れたときの切り裂かれるような痛みも無駄じゃなかったこと。だから泣かないで下さい。」
あなたは備え付けのティッシュで僕の涙を拭った。

30年近くの年月は、あなたにとって全て過去のことになってしまったのか。ずっとあなたを想い続けた僕にとっては、今もこんなに愛しいのに。僕とあなたとの心の距離が開いてしまったことが悲しかった。

「失礼しまーす。海宝さん、検温させて下さーい。」
この病院の看護師が入室してきた。

「…すいません、私そろそろお暇します。」
あなたはいそいそと立ち上がり、丸椅子を端に寄せた。

あなたが退室しようと僕に背を向けた。立ち上がってあなたを引き止めようともがいたが、思うように動くことが出来なかった。

看護師が「海宝さん、安静にしていて下さい!」
と声を上げた。
あなたが振り返ったので、僕は必死であなたに訴えた。

「行かないで…ください!もう離ればなれは…嫌なんです。せっかく生還しても、あなたがいなければ…新しい航海は出来ない!」
形振りなんて構っていられなかった。あなたの気持ちが離れているなら、僕が追い掛けなければならなかった。

「航さん。あなたは今はおかでゆっくり休む時です。回復したら一緒に新しい航海をしましょう。今日、美しい東雲が見られたんです。覚えていますか?一緒になろうって約束した日本海で美しい東雲を見たとき、『沈んでいく夕日より、昇っていく朝日のほうが僕たちの門出にふさわしいでしょう』って、言ってくれたこと。」
あなたはベッドの横に戻って、僕の目線に近づくようその場にしゃがんだ。あなたはあの頃のように、美しい微笑みを浮かべていた。

「覚えていますよ。」
僕はほっとして、もがくのを止めた。忘れる訳がない。あなたとの思い出は、全て掛け替えのないものだ。

看護師は検温を終えると、すぐに出ていった。

「…こういう時、身体の…自由がきけば…指輪を…買いに行けるのに…。本当、僕は…格好が…つかない…ですね」
僕が残念がっていると、あなたがエルバヴェールの香水瓶を2つ取り出した。エルバヴェールは、澪標として死ぬまで使い続けるとあなたの親友・彩子さんに誓った、僕にとってあなたそのものである。

「エルバヴェール…航さんのものと私のものを交換しませんか?昔、アクアクルーズを交換したみたいに。」

「良い…ですが、僕の方は…残りが僅か…ですよ?」
あなたが差し出した瓶を、僕は震える手で受け取った。

「良いんです。だって、航さんが私をずっと想い続けてくれた証ですから!」
あなたが僕が使っていた方の瓶を愛おしそうに握りしめた。

「澪さん、何て…可愛いことを…言っているんですか!」
僕は嬉しさで胸が高鳴るのを感じていた。


今回は、may_citrusさん原作「澪標」番外編「東雲の幻」と、私が書いた続編「新しい航海」の航さんサイドから見たお話です。


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