210322

久しぶりに文章を書くことにしました。
深い意味は無い。


年明けてからは、病気持ちからすると相当な重労働をしていたせいで心が参ってる、何に対してでもない焦燥感。あとは今日の低気圧。


私は父母両家ともに教員家系で、なんとなく私もそうなるんだろうな、と、漠然と考えながら生きていた。7歳くらいまで。

父の転勤で小さい頃は良く引越しをした。
保育園、入学時、小学校で転校したけど、友達作りに苦労することは無かった気がする。保育園転園初日に初対面クラスメートに、迎えに来た私の母に向かって『今日りっかちゃんが虐めてきたの』って謎告げ口はされたけど。何もしてないし大して話してもいない、未だに理解不能。

近所の人、親戚のおとな、近くの養護学校との交流、人と話すことは好きだった、し、得意だった。社交性はかなりある方だったと思う。特別目立つタイプじゃないけど、勉強もスポーツもそれなりに出来たし、空気も読める子だった。空気を読むということを覚えたのは、妹が生まれて少し経った3.4歳の頃だった。成長、といえば聞こえがいいけど、私が空気を読まねばならないと思うようになったのには色々理由がある。ゆえに、小学校に上がる前から親を始め周りの大人の顔色を見ながら過ごしていたことは、今でも忘れない。
小学校に入ってからもそう。【好きなものを画用紙に描こう】と言われ、みんながイカを描いていたから私も大嫌いなイカを描いた。何故か分からないけど、はっきりと『みんなが描いているから私も描かなければならない』と思い、描いた。適当に描いた訳じゃない。描かなければ、『りっかちゃんイカ嫌いなの?』とわざわざ言われるのが嫌だった。

優等生ではあったけど、はみ出るのが怖かった。
【みんなの好きな、夢や花を自由に描いてみよう】といわれ、控えめに言って、とても上手に花を描いた。ある人に『つまらないね』と言われた。自分の中で こうあるべき と思っていた、何かが折れた。7歳のとき。


好奇心が旺盛だったこと、親の意向もあり、子供の頃は周りの子がやっている習い事は割と手をつけていた。ピアノだけは弾くのは好きだったのにレッスンがとにかく嫌で、泣きわめいて車から降りなかった。先生も怖かったし、レッスンに楽しさが見いだせなかった。ピアノを弾くことと、レッスンに行くことは別物だった。
過去に私がこんなに嫌がったことってこれくらいしかないんじゃないかな。

その頃までは、何回か引越しはしていたけど、長野県の松本という場所で過ごしていた。父の仕事の都合もあり、家族4人で暮らしていたのはこの時までだった。
理想的なカタチではなかったかもしれないけど、仲が悪い訳でもない。
特別な意味はなくて、別に今も4人で家族。

話は戻って、異常に体調が悪かった。
そういう時は必ず過去を思い出して感傷的になってしまう、今回はこの頃の記憶。

物心ついた頃から、約3年間くらいしかない家族4人で過ごした記憶。

妹が生まれたこと、押し入れの扉を外して勉強机にしていたこと、休みの日に家の庭に砂場を作ったこと、木を切ってベンチと机を作ってくれたこと、そこに青いペンキを塗ったこと、隣の外国人夫婦とハロウィンパーティーをしたこと(その時から甘いものが大好き)、買ったばかりの父のバイクの排気口に石を入れてダメにしたこと、小学校初日に重すぎるランドセルで玄関から立てなかったこと、同じアパートの子と毎日小学校に通ったこと、相当小柄(小1、15キロ)だった私が体重測定の話をしたら母に謝られてしまったこと、外で友達と蛇の抜け殻を見つけたこと、コンクリートの上でスライムを作ったこと、チュッパチャプスを舐めて外に出ようとしたら危ないからやめなさいって怒られたこと、秋には栗拾いをしたこと、夜中に親に起こされ1階に降りたら壁にホタルが止まっていたこと、それを4人で静かに眺めたこと、枚朝卵を割って自分で朝ごはんを作っていたこと、眠れない夜にココアを作って飲ませてくれたこと、妹が拾ってきたカタツムリがたくさん赤ちゃんを産んだこと、ベランダから望遠鏡で月を見たこと、階段にいたおじさんのこと(本の背表紙)、台風で屋根が飛んだこと、


あの家、いまはあるのかな。なんて。

衛星写真には人の気配もない古いアパートが映っていた、少し安心した。けど、思い出が無くなってしまいそうで、苦しい。

私の、大切な記憶たち。


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