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ロジャース派の自己概念理論6:カウンセリング3原則とラカンの鏡

 "重要な他者"はロジャース派の自己概念理論において"価値の条件"を形成する重要な役割を果たす。重要な他者が保有する"価値の条件"を内面化して理想自己を形成していくことになるのだが、この過程はラカンの鏡像段階およびシェーマLの考え方を導きの糸にすると理解できる。

 因みに、私個人の好き嫌いでいえばラカンは大嫌いである。似非数式を用いたラカンの欺瞞的表現は、ソーカル事件で明らかになったポストモダン思想群の「それっぽい表現をすれば正しくなる」という風潮を生み出した。その風潮がフェミニズム思想のダブスタ上等クソ言説の大量生産に繋がっていると私は考えている。とはいえ、ラカンの似非数式を用いた欺瞞的表現のヘドロを剥ぎ取って、内容の好意的理解に努めると意外にもマトモなことを言っていることが分かる。ただ、ラカン思想に関しては「それが言いたいなら別の平易な表現で言えよ」との感想を抱かざるを得ない。

 それはともかく、ロジャース派の自己概念理論における"価値の条件"と理想自己における"重要な他者"の関係は、ラカンのシェーマLの考えを用いれば容易に把握できる。シェーマLは鏡像段階の考えを下敷きにしているので、鏡像段階の話を踏まえてシェーマLの理解を進めるとよい。「鏡像段階と結びつくシェーマL」を理解したならば、何故ロジャース派カウンセリングにおいてカウンセリング三原則が重視されているのかも掴めるようになる。

 つまり、ラカンが言う鏡像という他者から自我を獲得する発達過程における鏡がロジャース派の"重要な他者"になる。

 このことに関しては少し説明が必要だろう。もともと、ラカンの鏡像段階の概念が意味するところは「乳幼児の自身の身体についての全体的・統一的なイメージの形成において生じるメカニズム(とそのメカニズムが生じる段階)」であった。しかし後の思想的展開によって、鏡像段階が乳幼児期という特定の発達段階に生じる現象ではなく、広く自我形成メカニズムにおいて(当初の)鏡像段階に生じたものと同様のメカニズムが働いているとラカンは考えるようになった。それを示したものがシェーマLである。

図1「涙なしのジャック・ラカン」のサイトより

 シェーマLと呼ばれるものは上図から色付きの部分を除いたものである。色付きの部分はシェーマLの各部が何を示しているかを適切に解説に解説してくれている。そして、シェーマLが示す自我形成の有り様を理解すれば、カウンセリング三原則を遵守するカウンセラーが「A:大文字の他者」として理想的であることが分かるだろう。

 ここで遅まきながら、ロジャースが提唱したカウンセリングについての以下の三原則を示すと以下である。

  1. 純粋性・自己一致

  2. 無条件の肯定的配慮・無条件の積極的関心・受容的態度

  3. 共感的理解

 上記の三原則が、カウンセラーの「(クライエントを写す)鏡として性質」に大きく関わってくることが理解できるだろう。

 とはいえ、本稿ではこれらのカウンセリング三原則を含めロジャース派心理学は全く関係が無い。今後のnoteでロジャース派心理学を考えていくにあたっての準備作業として、本稿ではラカンの「鏡像段階」の考えと「シェーマL」の考えに関する私の解釈を纏めておきたい。


■統一的身体イメージの獲得段階としての鏡像段階

 乳幼児が鏡を認識できる時期を「鏡像段階」とラカンは名付けた。そして鏡像段階は精神発達にとって重要な時期であるとしている。多くの場合、生後6-18ヶ月の期間に乳幼児はこの過程を経るとされる。

 さて、まだ鏡を認識できない乳幼児は、身体的統一性を獲得しておらず、自分が一個の身体であるという自覚がない。バラバラの部分の集まり、すなわち「寸断された身体」(仏:corps morcelé)のイメージの中に生きている。鏡像段階以前の乳幼児は、動かすことが出来て目にも見える手足・親からポンポンされる背中・おしめを替えるときに拭かれる臀部などについて個別的な認識はあるが、統一的な一個の身体としては理解していない。

 しかし、鏡を認識できるようになった乳幼児は、自分の全体像の輪郭が映し出されている鏡を見ることで初めて、自分丸ごとの姿を確認する。つまり、「鏡像=鏡に映る自分の姿」を見ることで自分の身体を認識し、自己を同定していく。この鏡像段階のメカニズムを以下に図示しよう。

図2:鏡像段階におけるメカニズム(筆者作成)

 この鏡像段階において着目すべき点は、鏡がまぎれもなく「自分に含まれていない他者」であることだ。つまり、他者を通して統一的な自己像を見出しているという点にある。


■「鏡像段階」というアイディアの自我形成理論への拡張

 ラカンは鏡像段階というアイディアを自我形成理論へと拡張し、シェーマLという図式を考え出す。しかし、ここでシェーマLの話をいきなりしても、シェーマLの各部が具体的には何を意味しているのか理解し難い。そこで先に提示した図2を変形することで、シェーマLで何を示そうとしているのか説明しよう。

図3:鏡像段階の構造を示す図をシェーマLを理解する為に変形した図(筆者作成)

 鏡像段階のメカニズムは「鏡に生身の身体(=生体)が映って像を結ぶ。この結ばれた像を鏡像といい、その鏡像から乳幼児は自分の身体についての統一的イメージ(=全身イメージ)を形成する」というものだ。このとき、鏡・生体・鏡像・全身イメージは各々別個の存在である。そして、このメカニズムを自我形成メカニズムに敷衍して考えるのがシェーマLという捉え方である。

 このことをシッカリと理解するために、詳細に見ていくことにしよう。

 「鏡」と「鏡像」は非常に当然ながら別モノである。鏡は物理的実体をもった存在である一方で、鏡像は鏡で反射した光が起こす現象である。もっとも、物理的実体をもった存在と反射した光が起こす現象との差異自体は以降で論じる内容において関係がない。ただし、それら二つが全く別モノであることは理解しておく必要がある。そしてシェーマLにおいては、鏡は「大文字の他者A」に、鏡像は「小文字の他者a'」に対応している。ラカン読解において、この二つが何であるか理解していない人間をしばしば見かけるので、繰り返し注意を促しておく。

 さて「生体」と「鏡像」もまた別個の存在である。当たり前のことだが、物理的実体をもつ生身の身体と鏡に反射した光の現象に過ぎない鏡像が、同じ存在であるはずもない。ただし、上述の差異と同様に以降の議論においては物理的実体と現象の差異が問題なのではなく、「生体」と「鏡像」が別の存在であることが重要なのだ。また、シェーマLにおいて生体は「エス」に対応している。

 ここで「シェーマLにおけるエス」について注意をしておく。シェーマLにおけるエスは本体Sとも表記されるもので、サブジェクトS(=主体)を示すとともに、フロイト的なエス(あるいはイド)も示す。更に言えば、ラカンの「本体S」はカントの「物自体」に非常に近い概念である。カントの物自体とは「感覚の束としての表象を与える起源であるものの、それ自体は決して確かめ得ず、不可知である本体」を指していた。つまり、ラカンの「本体S」の概念は、「それ自体としては不可知であり、本体Sの鏡像である『小文字の他者a'』や湧き上がる欲望を通じてのみ認識されるもの」である。したがって、フロイト的なエスに限定した意味で捉えると、ラカンが何を言っているのかよく分からなくなるので注意が必要である。

 さて「鏡像」と「全身イメージ」もまた別個の存在である。鏡像は鏡に反射した光の現象である一方で、全身イメージは主体が脳裏に描くイメージである。この二つに関しても各々が違う点だけが重要である。また、シェーマLにおいては全身イメージは「自我a」に対応している。

 ここで、「A-a'-a」の表現に関して説明しておこう。

 シェーマLにおいて他の人間という意味での他者は「大文字の他者A」だけである。「大文字の他者A」とは、「ジョン・ドゥ」や「日本花子」みたいな誰でも無い様な誰かを示す表現である。つまり「もしも具体的ケースで考えたいのであれば任意に誰でも入れていいですよ」という訳である。したがって、「他の人間という意味での他者」としてAではなくBやCを考えたとき、「B-b'-b」や「C-c'-c」も考えることができる。すなわち、「大文字の他者A」とは「他の人間としてのA氏」であり、「小文字の他者a'」とは「A氏の中に見出した自分の鏡像のa'」であり、「自我a」とは「A氏の中に見出した自分の鏡像a'によってイメージした自我a」を示しているのである。同様に考えて「大文字の他者B」とは「他の人間としてのB氏」であり、「小文字の他者b'」とは「B氏の中に見出した自分の鏡像のb'」であり、「自我b」とは「B氏の中に見出した自分の鏡像b'によってイメージした自我b」を示している。これはC氏について「C-c'-c」を考えても同様である。

 さて、「生体」と「全身イメージ」もまた別個の存在である。生体は物理的実体をもつ生身の身体であり、全身イメージは脳裏に描かれた身体のイメージであるからである。この違いもまた各々が違う点だけをシッカリと押さえる。そしてあとは、これまでの説明と同様に考えればよい。

 以上述べてきた通り、当初の鏡像段階のアイディアに関して、生身の身体を「エス」に、鏡像を「小文字の他者a'」に、全身イメージを「自我a」に、鏡を「大文字の他者A」にそれぞれ対応させたものが、シェーマLである。


■シェーマLの各部の用語の指定

 シェーマLについて、矢印関係も含めて何を表しているのかを具体的に見ていこう。まずは、本稿での以降の議論におけるシェーマLの各部の表記について統一しておこう。下図において色々と書き込まれているものも含めて基本的には次のように表記する。

図1「涙なしのジャック・ラカン」のサイトより(再掲)

本体S:図における「S,Es,エス」
小文字の他者a':図における「a',a'utre,小文字の他者,鏡の中のじぶん」
自我a:図における「a,moi(フランス語の"私"),自我」
大文字の他者A:図における「A,Autre(フランス語の"他"),大文字の他者」

S→a'関係:本体Sから小文字の他者a'に向かう矢印関係
a'→a関係:小文字の他者a'から自我aに向かう矢印関係
A→a関係:大文字の他者Aから自我aに向かう矢印関係
A→S関係:大文字の他者Aから本体Sに向かう矢印関係

 まずシェーマLの最重要ポイントを示しておく。それは小文字の他者a'である。これが何を言っているのか分からないと一体全体シェーマLが何なのか理解できない。したがって、何よりも「小文字の他者a'」とは何であるかをまず把握して欲しい。

 とはいえ、いきなりシェーマLに取り掛かるには、自我に纏わるイメージが邪魔をして構造が理解しにくいので、まずは他の類似の構造をもつもので考えていこう。


■シェーマLと類似の構造を持つ言語習得過程

 「単語の意味を自分が理解し、更には自分が理解した意味は他人にも通じる」という言語習得の過程は、本体Sを抜いた「小文字の他者a',自我a,大文字の他者A」の三要素でのシェーマLと類似の構造を持っている。この言語習得過程との類似性に関してだが、シニフィアンやシニフィエといった言語学上の概念がラカン思想には登場することからも窺えるように、ラカン自身も自我形成と言語習得との類似を理解している。

 この類似した自我形成と言語習得のメカニズムだが、言語習得メカニズムの方が構造を理解し易い。したがって、自我形成メカニズムの理解にあたっては、まず対応する形で示された言語習得メカニズムを理解することが近道だ。そこで「小文字の他者a',自我a,大文字の他者A」の三要素の関係に対応させることが可能な言語習得の構造を図示してみよう。

図4:言語習得過程における構造

 図4での位置関係で示す様に、小文字の他者a'には「単語あるいは概念」を、自我aには「観念:単語とその単語の自分で理解している意味」を、大文字の他者Aには「他の話者」を対応させる。このように対応させたとき、「概念,観念,他の話者」の関係性を理解することで、「小文字の他者a',自我a,大文字の他者A」との関係性が理解できるようになる。

 とはいえ、そもそも「概念と観念」の違いを理解していない人が少なくない。この手のことを厳密にアレコレ考えるのが好きな人が少ないからなのだろう。しかし、概念と観念の違いに関する理解がアヤフヤなまま論を進めても仕方が無いので、まずは概念と観念の違いとそれらの関係性を解説しよう。


■概念と観念の違いと関係性

 図4に登場する「概念」と「観念」なのだが、当然と思うかもしれないが、この二つの語の意味は異なっている。二つとも"考え"を指す語であるのだが、概念が客観的な考えを指すのに対して観念は主観的な考えを指す。つまり、社会において共通に了解されている考えが概念なのに対して、個人的に「そうである」と信じている考えが観念である。

 具体的に「猫の概念」と「猫の観念」とを比較しよう。

 猫の概念の一部として例示できる典型例は辞書に載っている内容のものである。すなわち、以下のようなものだ。

ね‐こ【猫】
1 食肉目ネコ科の哺乳類。体はしなやかで、足裏に肉球があり、爪を鞘に収めることができる。口のまわりや目の上に長いひげがあり、感覚器として重要。舌はとげ状の突起で覆われ、ざらつく。夜行性で、目に反射板状の構造をもち、光って見える。瞳孔は暗所で円形に開き、明所で細く狭くなる。単独で暮らす。家猫はネズミ駆除のためリビアヤマネコやヨーロッパヤマネコなどから馴化じゅんかされたもの。起源はエジプト王朝時代にさかのぼり、さまざまな品種がある。日本ネコは中国から渡来したといわれ、毛色により烏猫・虎猫・三毛猫・斑ぶち猫などという。ネコ科にはヤマネコ・トラ・ヒョウ・ライオン・チーターなども含まれる
(2-5の意味は省略)

デジタル大辞泉

 先に触れたように猫の概念としては上記のものは一部に過ぎない。猫の概念は膨大で、以下の引用で示す病気に罹り易い動物というものも猫の概念に含まれる。

猫の七大疾患をご存じでしょうか。諸説ありますが猫の七大疾患は、腎臓病・糖尿病・尿路結石・腫瘍・甲状腺機能亢進症・炎症性腸疾患(IBD)・肥大型心筋症・肥満とする獣医師が多くいらっしゃいます。腎臓病のようになぜ発症するのかメカニズムが解っていない病気や、肥大型心筋症のように先天性の疾病もありますが、猫の病気のほとんどが、飼い主の日々のケアで防げるものが多いのです。

猫がかかりやすい病気リスト!病名・原因・治療法を解説
水科希望  2022.2.17 ねこ大学  

 以上で挙げたものが一部であるような膨大な「猫についての社会的に共有し得る客観的な考え」が猫の概念である。

 一方、猫の観念とは、ある個人の「猫とはこんな動物であるという考え」である。具体例として私個人の猫の観念を以下に挙げよう。

 膝の上に収まる大きさのニャアと鳴く可愛い動物でペットになる。昔はネズミ捕り用に飼われることも多かった。マタタビが大好き。飼い主に非常に懐く個体もいて、車の音を聞き分けて飼い主の帰宅時には玄関でお出迎えするほど。10歳を超えると行動や体調に老いの影響が出てくる。38歳まで生きた記録はあるが、平均寿命は15歳前後である。

筆者の猫の観念

 上記の私個人の猫の観念から窺えるだろうと思うが、私は猫を飼っている。その猫を飼っている経験で得た知識を含めて私の猫の観念は形成されている。

 しかし、ここでよく考えてみよう。

 私は自分が飼っている「モフモフしたニャーとなく小動物」が猫であると理解している。しかし、なぜモフモフしたニャーとなく小動物を猫であると判断できたのか。それは私個人を含めた人間から構成される社会において猫という概念が既に存在していたから判断が可能であったのだ。言い換えると、「その動物が猫と呼ばれる動物である」との判断が可能な猫の概念が既に存在していたからこそ、私個人は猫の観念の形成ができたのである。

 猫の概念に基づいて自分が飼っているモフモフしたニャーと鳴く小動物を猫であると私は判断した。そして、社会に存在している猫の概念に照らし合わせて猫を理解し、猫の概念の内容も含めて猫の観念を個人は形成していく。このことは、私個人が体験していない「猫の長寿ワールドレコードは38歳」「昔はネズミ捕り用として飼われていた」等の内容が、私個人の猫の観念に含まれていることからも分かるだろう。

 以上が概念と観念の違いの説明である。これを踏まえたうえで、シェーマLの理解に繋がる図4で示した言語習得過程について考察しよう。


■見知らぬ単語を習得する過程

 一先ず図4は脇において、言語習得での「単語」の習得について考えよう。幼児の言語習得過程で考えてもよいのだが、自覚的に習得過程を認識できる大人の外国語習得過程で考えよう。

 さて、ロシア語を殆ど知らない日本人が博多に旅行に来たロシア人とロシア語と日本語を交えながら会話をしていたとしよう。このとき、「博多で食べたもので何が美味しかったですか?」といった会話で「Икра(イクルァー)が美味しかった」とロシア語の単語が登場したとする。このロシア語の単語は日本語にもなっている「いくら」の語源である。しかし、日本語の「いくら」の意味は鮭の魚卵に限定されているが、ロシア語の「Икра(イクルァー)」は魚卵全般を指している。このシチュエーションで考えてみよう。

日本人N氏(以下N氏):博多で食べたもので何が美味しかったですか?
ロシア人R氏(以下R氏):Икра(イクルァー)が美味しかったです
N氏:博多名物の明太子ではなく「いくら」なのが少し残念です。そうだ、この近くに明太子が美味しいランチを出す店があるので、そこで一緒に食べましょう。
             (レストラン着)
N氏:この皿に載っている明太子が博多名物で美味しいんですよ
R氏:おぉ、これです。このИкра(イクルァー)は美味しいですよね
N氏:(明太子を指しながら)これを「いくら」って呼ぶんですか?
R氏:そうですよ。ロシア語ではこれは「Икра(イクルァー)」です。
N氏:勘違いしていた。ロシア語での「イクルァー」って他にどんなものがあるんですか?
R氏:他のИкра(イクルァー)ですか?有名なИкра(イクルァー)だとキャビアがそうですね
N氏:ひょっとして、ロシア語だと食べる魚の卵なら全部「イクルァー」と言うのですか?
R氏:そうですよ。ロシア語の「Икра(イクルァー)」は魚の卵です

 以上のN氏とR氏の遣り取りを図4に当てはめて考えてみよう。

 まず、R氏が「Икра(イクルァー)」とのロシア語の単語を言っている訳だが、これは図4の「単語(概念)」に当たる。ここで注目して欲しい点は2点あって、「Икра(イクルァー)」と言っているのはR氏であってN氏ではないこと・R氏はロシア語の意味である「魚卵」の意味で「Икра(イクルァー)」の単語を用いているという点である。

 このR氏が使っている「Икра(イクルァー)」の単語を、N氏は自分なりの理解で「いくら=鮭の魚卵」という意味であるとして捉えた。すなわち、「それは"いくら=鮭の魚卵"である」というものが、「Икра(イクルァー)」についてのN氏の観念ということだ。

 また注目して欲しい点は、R氏の発言中の単語「Икра(イクルァー)」とN氏の解釈「いくら」が同一であると捉えているのはN氏の想像的関係に基づいている点である。「ちょっと発音がヘンだけど、Икра(イクルァー)って"いくら"だよな」というN氏の思い込みによって、N氏の中で「Икра(イクルァー)」と「いくら」が結びついている。

 ただし、このケースにおいてN氏が誤解したままのとき、言い換えるとN氏の「Икра(イクルァー)」についての観念が「Икра(イクルァー)とは"いくら"である」のままであるとき、ロシア語話者のR氏からN氏の観念が承認されることはない。すなわち、「Икра(イクルァー)とは"いくら"である」とのN氏の観念は「Икра(イクルァー)」の概念と異なるためロシア語話者であるR氏から認められることは無い。

 しかし、ロシア語の意味として正しい「Икра(イクルァー)とは食べる魚の卵である」との観念にN氏が修正したとき、そのN氏の観念はロシア語話者であるR氏から承認される

 ただし、ここで一つ注意事項がある。博多旅行をしていたR氏でなくともロシア語話者であれば、(原則的に)誰であっても「Икра(イクルァー)とは食べる魚の卵である」との概念を共有している。したがって、今回の場合においてはR氏が「他の話者」となったが、N氏の「イクルァー」についての観念に承認を与えるのはR氏に限定されず、ロシア語話者であれば誰であってもいい。

 以上のことから明らかなように、言語習得に関して、他の話者が使っている単語(=概念)を、自分なりの理解でその単語(=観念)を用いたとき、正しい使用法のときは他の話者から承認され、間違った使用法のときは他の話者から承認されないという構造がある。


■人物に対する単語を習得する過程

 前節では日本人にとっては外国語であるロシア語の「Икра(イクルァー)」という単語・概念を用いて、図4で示した言語習得の構造を具体的に考察した。次はステップ・バイ・ステップで「人柄や人格あるいは能力といった人間と関係のある単語や概念」に関して、図4で示した言語習得の構造を考えよう。

 さて、「人柄や人格あるいは能力といった人間と関係のある単語や概念」は幾つも存在している。優しい・几帳面・寛容・鷹揚・高潔・忍耐強いといったポジティブな人格を示す概念、冷酷・怠惰・狭量・強欲・嫉妬深い・下劣・癇癪持ちといったネガティブな人格を示す概念、頭脳明晰・スポーツ万能・眉目秀麗といった能力を示す概念など様々である。

 これらの人物を言い表す単語に関しても、前節でみた言語習得の構造は成り立っている。

 その単語が指し示している内容に関して「社会的に共有し得る客観的な意味内容」と「個人的に理解している主観的な意味内容」がある。すなわち、名称と客観的な意味内容で構成される概念、名称と主観的な意味内容で構成される観念がある。そして、概念と観念とは想像的関係―—一致しているとの思い込み――で結ばれている。また、観念に沿って単語を用いる場合には、他の話者からの承認が得られるような使用法に限って、その単語に即した意味で用いていると自他ともに認識する。

 具体的に「几帳面」との性格を示す語で考えよう。

 几帳面の辞書的意味は以下だ。

几帳面(読み)キチョウメン
1.[名]角柱の角につけた面の一。角そのものは残すように、両側に段をつけたもの。もと几帳の柱によく用いられたところからいう。
2.[形動][文][ナリ]細かいところまで、物事をきちんと行うさま。決まりや約束にかなうように正確に処理するさま。「几帳面な性格」「時間を几帳面に守る」

デジタル大辞泉

 人格を示す概念としては引用の[2.]の意味がそれにあたる。社会において几帳面とされる人格は、上記の[2.]の意味内容に即した行動をとる人間の人格とされる。逆に言えば、大雑把・ちゃらんぽらん・決まりや約束を守らないような行動を取っている人間の人格を言い表すものとしては「几帳面」との語を普通一般では用いない。

 また、ある個人が「几帳面」との語に対して主観的に抱く意味内容と名称が「几帳面の観念」である。個人は自分勝手な意味で几帳面の語を考えているのではなく、社会において用いられている几帳面の語の意味内容―—几帳面の概念―—と一致した意味内容で几帳面の語を考えていると思い込んでいる。もちろん、その思い込みが正しい場合も多いのだが、そういう「思い込みが正しいか正しくないか」に関係なく、概念と観念とはその個人の思い込みによって結ばれているという想像的関係にある。

 更に、ある個人の「几帳面の観念」は、「几帳面の概念」に即していれば他の日本語話者によって「その"几帳面"の語の使用法は正しいよ」と承認される。また、他の日本語話者の承認によって個人は「几帳面の語の自分の使用法」の適切さを確信する。すなわち、他の日本語話者の承認によって「几帳面の観念」に関して、自分の認識が正しいことを確信する。

 以上、「几帳面」という人格に関する語で見てきたが、この例に限らず「人柄や人格あるいは能力といった人間と関係のある単語や概念」に関しても、前節で見てきたものと同様の言語習得の構造があることが分かる。

 これまで見てきたように、言語習得の構造とシェーマLの構造は類似の構造にある。それゆえ、言語習得の構造についての理解を、シェーマLを理解しようとするときにスライドさせると、何を言わんとしているのか把握しづらいシェーマLを理解するのが容易になる。


■シェーマLの構造

 ようやくシェーマLの構造自体で考察する段階に来たわけだが、新たなトピックは、本体Sの要素を入れたことによるS→a'関係A→S関係に関連したトピックのみとなる。つまり、小文字の他者a'・自我a・大文字の他者Aおよびa'→a関係とA→a関係は、これまで論じてきた言語習得の構造における意味や関係を適宜シェーマLの構造に合わせて読み替えればいいだけである。

図1「涙なしのジャック・ラカン」のサイトより(再掲)

 さて、本体Sについてなのだが、先にも述べた通りラカン思想において本体Sは直接的にそのものを認識できないものとされている。より正確にいえば「それをどのように言い表しても、それが合っているのか合っていないのか本質的に確認し得ないもの」が本体Sである。

 その本体Sに関して「おぉ、この概念は自分をピッタリ言い表したものじゃないか!」と認識する心の働きを示す関係が、S→a'関係である。ただし、本体Sは「それをどのように言い表しても、それが合っているのか合っていないのか本質的に確認し得ないもの」であるが為に、本当にそれが「自分をピッタリ言い表している概念」であるかどうかは、当人を含めて誰にも分からない。

 「おぉ、この概念は自分をピッタリ言い表したものじゃないか!」と認識される対象となった概念は、当然ながら本体S自身ではない。また、「おぉ、この概念は自分をピッタリ言い表したものじゃないか!」と認識するためには、認識される前に既にその概念が存在している必要がある。つまり、当人とは独立して存在している他者である。それゆえ、この概念はシェーマLにおいて、小文字の他者a'と呼ばれる。

 さて、自我aに関してなのだが、このシェーマLの要素は言語習得の構造において対応する位置にあった観念には無い性質を持っている。それは「自我aは自分についての観念である」という性質である。したがって、「おぉ、この概念は自分をピッタリ言い表したものじゃないか!」と自我aについて認識するとき、実は認識の二重の一致が必要なのだ。つまり、先にみた「概念と本体Sの一致」の関係であるS→a'関係が成立していることと、前節でみた「概念と観念の一致」とが必要なのである。そして、その二重の一致を前提にした関係がa'→a関係である。

 ただし、ここで注意を促しておくが、S→a'関係も概念と観念の一致も「一致しているとの思い込み」である。S→a'関係の「自分をピッタリ言い表している!」というものも思い込みであり、「この人格を示す語の意味はコレである」という概念と観念の一致もまた、思い込みである。したがって、a'→a関係は思い込みによる関係―—想像的関係―—なのである。

 さて、大文字の他者Aについてであるが、ラカン思想においては「誰であってもいい誰か」が大文字の他者Aである。概念は社会に存在する特定の誰かに依存するものではないために、概念を共有している誰かでありさえすればよい。シェーマLにおいては、小文字の他者a'の候補となる概念を持つ他者が、大文字の他者Aである。また、小文字の他者a'に対応する観念である自我aに対して、「その人の人格等を言い表す語(=概念)の使用法が適切であるor不適切である」と判定することが可能な他者であれば、承認・不承認のいずれであっても与えることが可能であるからだ。

 大文字の他者Aが自我aを承認する関係がA→a関係である。このA→a関係を面倒臭くしているのが、「自分についての観念である」という自我aの性質である。この自我aの性質が無ければ、シェーマLの図の形も鼓のような形ではなく単純な四角形をしていただろう。

 ではなぜ、シェーマLは鼓のような形をしているのか。それは、「本体Sが小文字の他者a'という概念と一致しているのかどうか」「当人が持っている観念の意味が小文字の他者a'という概念の意味と一致しているのか」という二つの観点から承認するかどうかの判断を、大文字の他者Aがしなければならないからだ。

 表記がゴチャゴチャして分かり難いので、すこし整理しよう。

 小文字の他者a'というのは、本体Sが「自分をピッタリ言い表している」と感じた概念である。そこで、本体Sをピッタリ言い表しているという面を捨象した表現として「概念a'」という表現を導入しよう。また、自我aについて、自我aは「自分についての観念」である。そこで、「自分についての」という面を捨象した表現として「観念a」という表現を導入しよう。

 先程の文章で述べた内容を上記の表現で言い直してみよう。

 「本体Sが概念a'と一致しているのかどうか」「観念aの意味が概念a'の意味と一致しているのか」という二つの観点から承認するかどうかの判断を、大文字の他者Aがしなければならない。

 この二つの観点からの確認は、大文字の他者Aが客観的に「a'→a関係」をチェックするということに他ならない。それゆえ、Aから「a'→a関係」を示す線に向かって矢印のついた実線が引かれている。また、それにあたって、大文字の他者Aは本体Sを観察しなければならない。その観察の関係を示したものが、A→S関係の実線で示された部分である。

 そして思い出しておく注意点は、本体S自体は誰にとっても観察不可能な対象であることだ。本体Sを起源とする行動・言動・感情等は観察可能であっても、本体S自体は大文字の他者Aにとっても観察不可能である。したがって、本体Sの観察はあくまでも間接的な観察であって、直接的な観察ではない。それゆえ、A→S関係は途中から破線になっている。

 「本体Sが概念a'と一致しているのかどうか」「観念aの意味が概念a'の意味と一致しているのか」という二つの観点からの観察の関係を示すものがA→S関係である。この面倒臭い関係ゆえに、シェーマLが鼓のような形になり、A→S関係を示す線は途中で実線から破線に変わるのである。

 A→S関係で示される観察関係のチェックを経て、A→a関係で示される大文字の他者Aからの自我aへの承認は獲得される。

 以上で述べてきた内容が、シェーマLでラカンが説明していると私が解釈した内容である。ただ、ラカンは冒頭でも述べた通り、糞みたいな欺瞞的表現で自分の思想を語る。したがって、解釈が相当に難しい。できるだけ誠実に読んで、キチンと意味が通ると私が考えた解釈を述べてきたわけだが、「そんな解釈はラカンを曲解している」というラカン研究者は居るかもしれない。



■図をお借りしたサイト

「涙なしのジャック・ラカン」のサイトは以下である。

 ただし、上記のサイトのラカン読解は本文で示した解釈に影響を与えていない。

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