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主婦の仕事の年収換算のデタラメさ

 「主婦の仕事を年収換算すると1300万円」論争というものがSNS上で少し話題になった。またテーマにしてTV番組においても議論がされたり、ネットニュースなどでも取り上げられる。例えば、以下のものなどがそうだ。特に上の記事など、yahoo!ニュースで転載されている。

 これらの記事や番組で高額な年収に換算された根拠となる理屈は以下のようなものだ。

専業主婦(主夫)には勤務時間や休日といった概念は存在しないため、極論で24時間365日働いていると仮定すれば、「1300円×24時間×30日×12ヶ月=1123万2000円」となり、年収1000万円もらっても多くない

専業主婦・主夫の仕事を年収換算するといくらになる? 1123万円の可能性も!?
 執筆者:FINANCIAL FIELD編集部  2023.04.06  ファイナンシャルフィールド

ある女性がTwitterでつぶやいた「専業主婦の年収は1,300万円」というツイートが大きな話題に。その試算方法は、時給1,500円で労働時間が24時間、労働日数365日で、合計が1,314万円。

“専業主婦の年収1,300万円”論争…専業主婦&共働き主婦のリアルな声は?
2023/01/23 堀潤モーニングFLAG

 さて、上記の理屈はこれでも洗練されてきた理屈だ。かつてはもっと雑な算出方法で専業主婦(主夫)の仕事の年収換算が行われていた(註1)。例えば、以下のような記事にその考え方が示されている。

 ファイナンシャルプランナーの中村芳子さんは「200万円なんてとんでもない。家事労働をお金に換算するととんでもない額になります」と言う。
(中略)
「主婦がやっている家事労働を家政婦さんにお願いすれば、簡単なお掃除でも1時間あたり1800円。ベビーシッターなら大体2000円かかります。こうした金額をもとに主婦の仕事を平均時給換算すると2500円くらいになる。
 単純労働か頭脳を必要とする高度労働かでも時給は違ってきます。お弁当作りでも、材料もそろっていて決まったレシピを作るなら時給1000円前後。栄養バランスを考えて食材からメニューを考えるなら、時給3000円かそれ以上になる場合もある」
「食器洗いや掃除、洗濯などの単純労働を時給1000円、家計のやりくりや栄養バランスが求められる買い出し・食事作り、義理の家族の世話などの高度労働を時給3000円とした場合、日給はモデルケースで2万8400円になります。
 8時間を超えた労働時間はサラリーマンでいう、残業割増や深夜割増にあたるので3割増で計算する。モデルケースでは6時から16時までの間に7.5時間労働しているので、16時以降は残業と見なしています。休日ならば当然休日出勤と同様、割増料金になる。こうして計算すると、主婦の年収はざっと1200万円近くになるのです」

主婦の家事 単純労働と高度労働考慮したら年収1200万円換算
2014/06/29  女性セブン

 これらの専業主婦(主夫)の年収換算の議論に関して「よくもまぁ、こんなにツッコミどころ満載の雑な議論するもんだ」と逆に感心するぐらいに、いくつものトピックで批判や反論が可能だ。


主婦の労働単価の理屈のデタラメさ

 細部に着目すれば、「主婦の家事 単純労働と高度労働考慮したら年収1200万円換算」に関しては、以下の引用で示すように賃金の算出(=労働の単価)の根拠が無茶苦茶であったりする。

主婦がやっている家事労働を家政婦さんにお願いすれば、簡単なお掃除でも1時間あたり1800円。ベビーシッターなら大体2000円かかります。こうした金額をもとに主婦の仕事を平均時給換算すると2500円くらいになる

同上 (再掲)

 上記の中村氏の発言から「家政婦の家事サービスやベビーシッター代金=家政婦・シッターの賃金」すなわち

サービス代金=賃金

という有り得ない想定を置いていることが分かる。この想定が如何にオカシイかは以下を想起すれば十分だ。

 美容院で散髪したときに支払うヘアカット代金全額がカットしてくれた美容師に賃金としてそっくりそのまま渡されるかどうか?

 当然ながら、雇われ美容師に「ヘアカット代全額」が賃金として支払われることはあり得ない。施術した美容師に賃金としてヘアカット代金全額を美容院が渡すなら、当たり前の話だが、サービス提供毎に美容院は経費丸損になってしまう(もちろん、オーナー美容師ならヘアカット代金はそっくりそのまま受け取り、店の収入になる。とはいえ、店の収入から経費諸々を差し引いた後に残る分だけがオーナーの所得になる)。

 もう少し詳細に議論しよう。

 そもそも論として我々の社会においては、成果物の販売価格に関して

販売価格=材料費+人件費+経費+利益

という構成になっている(ただし、継続的な販売を前提とした価格の構成。すなわち在庫処分等の販売価格ではない)。つまり、人件費(ちなみに、労働者に支払われる賃金はこの人件費の一部)は、販売価格(と販売数量)を抜きに考えることができない。

 したがって、専業主婦の仮想的な人件費の一部である仮想的な賃金は、専業主婦の成果物の仮想的な販売価格とその他の費用を抜きに考えることはできないのだ。

 では、専業主婦の仮想的な年収を1200万円と算出した中村氏が、具体例として出した専業主婦の成果物と賃金の水準を確認しよう。

お弁当作りでも、材料もそろっていて決まったレシピを作るなら時給1000円前後。栄養バランスを考えて食材からメニューを考えるなら、時給3000円かそれ以上になる場合もある

同上 (再掲)

 さて当たり前の話だが、店で売られている弁当の価格もまた「販売価格=材料費+人件費+経費+利益」という構成である。当然、家庭で作られる弁当もまた同様の構成になるだろう。利益は0でよいとしても、材料費・水道光熱費・冷蔵庫や電子レンジまたはコンロ等あるいは包丁や鍋などの什器の経費・キッチンの減価償却費、および、専業主婦の人件費を含めて構成される家庭の弁当の仮想的な販売価格をいくらにして想定しているのだろうか。また、時給3000円との想定を置くならば、その仮想的な時給に見合うだけの付加価値を弁当作成において付加できているのだろうか。もし時給3000円に見合わない付加価値しか付加できていないのであれば、当たり前だが、そんな高給は支払われない。さらに重要なことだが、その仮想的な家庭の弁当の販売価格は家族が仮想的に購入し得る適切な価格だろうか。もしもボッタクリ価格になっているのであれば、当然ながら時給3000円は適切ではない(そもそも、2023年でさえ全国加重平均の最低時給が1000円超えない程度であるのに、その3倍となる時給3000円は何かしらの専門性や特殊な事情を背景にした労働単価である。単に裁量権が大きいぐらいではこんな単価にならない)。

 引用文において「栄養バランスを考えて食材からメニューを考える…」とあるのだから、冷蔵庫に残っている食材も考慮しつつスーパーで買い物をする時間もこの単価の時給で労働していると見做してよいだろう。つまり、弁当を供給するための時間は、弁当の内容物を調理をする時間だけではないのだ。そう考えると弁当作成に1時間は必要と仮定してもよいだろう。仮に弁当を3個作成するとすると、人件費のうち主婦への仮想的支払賃金は1個あたり1000円は配賦しなければならない。材料費は上手く遣り繰りして200円、経費100円(因みに、キッチンの場所代は相当高い。仮に家賃3万円のワンルームでも1日あたり約1000円、キッチンスベースが1/4として1日250円。朝昼晩で割ると83円、さらに弁当が3個だから1つ当たりの配賦額は28円。持ち家ならこの3倍は掛かるだろう)とするとしたならば、弁当1食1300円である。

 はてさて、専業主婦に弁当作ってもらったときには仮想的な支払いで、外食なら実際の支払いをするのであっても、「昼食で1300円掛けて良いよ!」と言われたときに、レストランの1300円のランチではなく主婦の弁当を選択する夫や子供たちはどれくらいいるのだろうか?

 つまり、専業主婦が栄養バランスを考えた弁当を作るのに時給3000円を仮想的に請求するのは、顧客が支出しうる価格についての限度を考慮せずに主婦の労働単価が設定していると考えて差し支えない。仮想的な弁当の買い手が実際には金銭を支出しないからこそ、そんな高額の時給の想定が置けるのだ。

 中村氏は「単純労働か頭脳を必要とする高度労働かでも時給は違ってきます」などといった理由で、時給3000円という高額の労働単価を算出している。しかし、中村氏が算出したような高額の労働単価は、弁当製造の人件費を上昇させて弁当の仮想的な販売価格を引き上げる。この仮想的な販売価格の引き上げ要因は、弁当の仮想的な販売価格を、買い手側が買ってもいいかなと思える水準を超えてしまうような水準にまで上昇させてしまう。弁当作成時の主婦の時給3000円はあくまでも「机上の話」であるので、実際に金銭を支出して弁当を家族が購入することがないから、家族は高額の主婦の賃金が配賦された弁当をレストランのランチを比較することなしに選択してしまう。つまり、主婦の仮想的な高額時給による仮想的な販売価格の上昇は、仮想的であるがゆえに主婦の弁当への選択行動に影響を与えていないから、中村氏は時給3000円という水準が高すぎることに全く気がついていないのだ。つまり、彼女の弁当に関する労働単価の議論は全くの机上の空論でなのある。

 更に言えば、この時給の算出方法の考え方は、「ワタシの仕事は○○円の価値があるとワタシが思っているから、それだけの価値が客観的にあるの!」という、非常に独善的な思考の下で算出される労働単価に過ぎない。中村氏の専業主婦の所得の換算の枠組みには、主婦が提供する家事サービスの(たとえ仮想的であっても)購入者の視点が全く欠けているのだ。買い手と売り手が合意し得る価格が客観的な価格(≒市場価格)なのであって、売り手が勝手に自分の理屈だけで決めた主観的価格は、他者である買い手に受け入れらるとは限らないのだ。つまり、主観的価値と客観的価値の関係を中村氏はまったく理解していない。

 言ってみれば、中村氏の主張は「私が書いたこのnote記事は5000万円の価値があると私が思ったから、5000万円の価値が客観的にもあるんだ!」との主張と大して変わらない。そんな理屈は、誇大妄想に取りつかれた病人の戯言なのだ。

 以上、この節において中村氏の「主婦の労働単価」に関して二つの点から批判した。

 第一点は「サービス代金=賃金」の認識に基づいた労働単価の考え方はオカシイと言うものである。我々の社会において取引されている財・サービスの価格は「販売価格=材料費+人件費+経費+利益」で構成されている。すなわち、販売価格を構成する一部である人件費の、さらにその一部が労働者に支払われる賃金なのだ。つまり、「サービス代金=賃金」という中村氏の認識は、我々の社会における財サービスの価格構成の有り方からみて間違っている。賃金は価格を構成する一部分にすぎないにも関わらず、価格全額そのままが賃金になると想定をおけば、その想定から算出された労働単価は、実際よりも不当に高くなってしまうのだ。

 第二点は、家事サービスの売り手側(=専業主婦)の視点のみからの労働単価は独善的でオカシイというものだ。家事サービスの買い手側の評価は、実際には金銭を支出せずとも、主婦が供給する家事サービスの評価を仮想的に貨幣的価値で示すにあたっては、無視し得ないものだ。仮想的であっても供給者の言い値で家事サービスを買い手が買うと想定するのは間違っている。売り手と買い手が同意しうる水準の(仮想的な)価格が、客観的価格なのであって、売り手側だけの判断に基づく主観的価格は、客観的価格ではないのだ。つまり、中村氏が示した家事サービスの売り手側である専業主婦の都合だけからみた主観的な労働単価は、家事サービスの買い手側からみると(仮想的とはいえ)高すぎる水準であるのだ。


主婦の労働時間の理屈のデタラメさ

 次に、2023年の言説を検討しよう。

 流石に「サービス代金=賃金」との考え方は鳴りを潜め、また、中村氏の主張に登場した、どんな専門性に依拠しているのか不明の、妙ちくりんで無根拠の、非常に高い労働単価も登場しない。2014年の言説とは異なり、2023年の言説では政府による統計調査の結果に準拠した時給を出している。

厚生労働省が発表した「令和4年賃金構造基本統計調査」によると、短時間労働者の1時間あたりの賃金は男女合計で1367円でした。実際は年齢や勤続年数、経験値等によって対価も大きく変わるものと考えられます

専業主婦・主夫の仕事を年収換算するといくらになる? 1123万円の可能性も!?
 執筆者:FINANCIAL FIELD編集部  2023.04.06  ファイナンシャルフィールド

 「専業主婦・主夫の仕事を年収換算するといくらになる? 1123万円の可能性も!?」においては時給1300円に数値を丸め、「“専業主婦の年収1,300万円”論争…専業主婦&共働き主婦のリアルな声は?」においては、何に準拠して時給1500円なのかはイマイチ不明なのだが、一応は厚生省の調査結果に近い数値になっている。つまり、労働単価についてみれば一先ずは問題無しとしても、然したる不都合はないだろう。

 さて、2023年の議論の奇天烈さ、すなわち、「専業主婦・主夫の仕事を年収換算するといくらになる? 1123万円の可能性も!?」と「“専業主婦の年収1,300万円”論争…専業主婦&共働き主婦のリアルな声は?」の議論の奇天烈さは、労働単価ではなく、労働時間の想定にある(実際のところ、2014年の中村氏の主張でも労働時間の想定は相当に変である)。

24時間365日働いていると仮定すれば、「1300円×24時間×30日×12ヶ月=1123万2000円」

専業主婦・主夫の仕事を年収換算するといくらになる? 1123万円の可能性も!? (強調引用者)

試算方法は、時給1,500円で労働時間が24時間、労働日数365日で、合計が1,314万円

“専業主婦の年収1,300万円”論争…専業主婦&共働き主婦のリアルな声は? (強調引用者)

 つまり、どちらの主張も全時間が労働時間という想定を置いている。ハッキリ言って正気を疑うレベルの想定である。

 非常に当たり前の話だが、有償労働者が労働時間外に行っているプライベートな行動は労働ではない。家族旅行に行ったり、夫婦で酒を飲んだり、友人とお喋りしたり、喫茶店やジムに行ったり、TVを見たり、コンサートを聞きに行ったり、散歩に出かけるといった時間は、当たり前だが労働時間にはカウントされない。

 専業主婦は上記に挙げたようなプライベートな行動を一切しない、できないのかと言えば、そんなことはあり得ない。一家揃って旅行していたり、庭でのバーベキューで夫婦そろってビールを飲んだり、友達と会って話し込んだり、スターバックスやタリーズでコーヒーを楽しんだり、TVのバラエティ番組やドラマを見たり、散歩に出かけたりといったシーンで女性が存在していることは珍しい事態ではない。もちろん、前述のシーンで私が出会った女性たちが全員、非専業主婦である可能性も(まぁ理論上は)ないではないが、そのようなシーンでは知り合いの専業主婦も居たため、全員が非専業主婦という事態は無視しても良いだろう(当たり前だが、私以外でも前述のシーンで専業主婦の女性を見かけた人は多いだろう)。

 つまり、(当たり前の話だが)一年365日24時間プライベートな行動を一切許さないような生活を専業主婦は強制されてはいない。

 また、人生の時間の長さのうち1/3から1/4を占める睡眠時間についても考察しよう。

 大抵の労働者に関しては、睡眠時間は労働時間に含まれない。しかし、警察官や消防士、あるいは医師のように当直中の仮眠時間もまた労働時間に含まれる一部職種はある。そこで、専業主婦の睡眠時間は、当直中の警察官や消防士、あるいは医師の仮眠時間に相当するのだろうか、という観点で検討してみよう。

 子供が乳児期であるという限定的な期間でみれば専業主婦の睡眠時間は当直中の仮眠時間に当たる、という考え方も理解できなくはない。なぜなら、夜中でも乳児は目を覚まして、母乳を求めたり、あやすといった対処が必要な行動を取るからである。したがって、専業主婦が専業主婦として乳児に対処する限りにおいて、その時期に限れば、当直中の警察官・消防士・医師と同等であると見做しても良い。

 だが、夜泣きをするような子供が居ない期間、とりわけ小学生以上の子供しかいない家庭の専業主婦の睡眠時間を、当直中の警察官・消防士・医師の当直中の仮眠時間と同等と見做すことはできない

 このとき「いやいや、小学生以上の子供であっても、夜中に救急車を呼ばなければいけない事態になったら、飛び起きて専業主婦は対処しなければならないのだ!」などと宣う人間が居るかもしれない。

 ハッキリ言うが、夜中に救急車を呼ばなければいけない緊急事態においては、専業主婦(夫)だろうが、兼業主婦(夫)だろうが、普段は有償労働をメインにしている夫(妻)だろうが関係なく、”親として”子供の緊急事態に対処するのだ。子供が救急車で運ばれるような緊急事態に「オレは明日仕事だから寝てるわ~」などと抜かす父親は居ない(もちろん、普通じゃ考えられない異常者は除く)。

 つまり、たとえ睡眠中であっても飛び起きなければならない緊急事態の対処は、専業主婦(夫)の業務範囲の対処などではなく、普段は有償労働をメインにしている夫(妻)であっても共通して背負っている親としての義務なのだ。

 ただし、乳児期を過ぎて学童期になる前の幼児期に関しては、子供の健康状態や精神状態の加減によっては専業主婦(夫)の側に、負担が生じ得るといえるかもしれない。だが、そうであっても夜中に飛び起きて救急車を呼ぶほどの緊急事態であれば、上述の通り、両親が共に対処する義務なのであって、専業主婦がどうのこうのとは関係が無い。

 以上、主婦の労働時間に関して「労働時間が24時間、労働日数365日」という想定がいかに妥当でないかを見てきた。専業主婦は有償労働者と同様に、到底労働時間に含めることのできない人間的なプライベートな時間を持っているのであり、それを無視して「労働時間が24時間、労働日数365日」という想定を置くことは妥当ではない。また、睡眠時間を労働時間に含めることに関して、子供が乳児期である期間という例外を除いて、睡眠時間を警察官や消防士や医師の当直中の仮眠時間と同等の労働時間と見做すことが妥当でない事を示した。すなわち、睡眠中に飛び起きて緊急事態に対応することが発生したとしても、それは有償労働者・専業主婦(夫)を問わず、親・家族として対応する義務であって、専業主婦特有の業務上の義務と見做すことはできないからである。


マネタイズの視点を無視するデタラメさ

 「主婦は1300万円にもなるようなスゴイ仕事してたんだ。男どもが稼ぐ金額より仮想的に主婦が稼ぐ金額の方が大きいんだ!」といった形での女性側が盛り上がりを見せることがある。それに対しては

そんなに価値があるなら、実際に1300万円分マネタイズしてこい

という男性側の激烈な反論が為されている。

 さて、“専業主婦の年収1,300万円”論争において登場する二つの主要な議論対象、すなわち、貨幣価値と専業主婦はその本質においてマネタイズが関わっている。したがって、マネタイズの視点抜きに“専業主婦の年収1,300万円”論争を繰り広げても、問題の本質から遠ざかるばかりなのである。ではなぜそのように言えるのか、“専業主婦の年収1,300万円”論争の構造について以下で示そう。

 「専業主婦の年収1300万円論争」は、専業主婦の仕事が1300万円と同等であるとする側と、1300万円とは同等ではないとする側の論争なのだから、実際に専業主婦の仕事で1300万円分マネタイズできれば論争は事実でもって終結する。しかし、専業主婦という存在は定義からいって労働力をマネタイズしないから専業主婦なのだ。つまり、実際に1300万円を獲得する=マネタイズするならば「1300万円という価値」の妥当性については最終的な決着がつくものの、当のマネタイズという行為によって、マネタイズされた仕事は「専業主婦の仕事」からは外れてしまう。一方で、主婦の仕事がマネタイズされないならば、いつまでも「1300万円という価値」の妥当性について疑義が付きまとう。

 この構造を具体的に示してみよう。

 ここに「プロではない、趣味がお菓子作りの人」がいたとしよう。そして「あの人はプロじゃないのに、1ホールで1万円の価値はあるケーキを作るよ」という主張がされたとしよう。このとき、その人がつくるケーキが1万円の価値があるかどうかで議論になったとしよう。その評価が正しいかどうかに関して、実際に売ってみて継続的に1万円で売れたとき、議論の余地なく「その人がつくるケーキは1万円の価値がある」という評価は正しくなる。しかし、継続的にケーキを販売したとき「あの人はケーキを継続的に売っているんだからプロでしょ?”プロじゃない”というのは事実に反するよね?」という議論が別の問題として出てきてしまうのだ。

 つまり、「専業主婦の仕事」はその定義上マネタイズできない。マネタイズができないにもかかわらず、マネタイズが前提となっている「換算すると○○円の仕事」という形で評価することは、本質的に不可能なことを行っているのだ。

 上述のような「専業主婦の仕事は換算すると1300万円の仕事と評価すること」が孕んでいる本質的な構造に関する自覚が、専業主婦の仕事が1300万円と同等であるとする側には欠けているから、1300万円と評価額を算出する方法に関する厳格な姿勢の必要性を理解しないのだ。つまり、専業主婦の仕事がマネタイズし得ないからこそ、いかに厳格にマネタイズに並ぶ算出方法で評価を行ったのかを論争相手に示す義務が、専業主婦の仕事が1300万円と同等であるとする側にはある。それにも関わらず、直接的な証明方法(=マネタイズ)が不可能だからこそ間接的な証明方法を取っているという明確な自覚が無いために、間接的証明方法の厳密さを示す義務を怠り、論争相手から「そんないい加減な方法で出した評価額が正しいと思うならば、それを直接的方法(=マネタイズ)で証明してみろ!」と激烈な反発を買っているのである。

 また、この評価額を算出する方法に関する厳格な姿勢の必要性を理解しないからこそ、前節・前々節で批判ようないい加減な方法で評価額を算出するのだろう。


スケールを見積もらないデタラメさ

 この節では、これまでの議論とすこし視点を変えて、「大まかに見通しをたてる」ということをしない論者の態度への批判を行う。

 さて、仮に私が何らかの計算式を使って「専業主婦の仕事は年収換算すると1000万円超になる」と専業主婦の仕事の評価額を算出したとしよう。この計算結果を私が見たときまず私がすることは、計算が間違っていないかを確認することだ。そして、計算が間違っていない事を確認したら次は、評価額を算出するにあたった使用した計算式が妥当だったかどうかを検討する。さらには、計算式をつくるにあたっての前提の妥当性も改めて考察する。それぐらいに1000万円超という数値は大きすぎるのだ。

 ここで、年収1000万円超のスケールを確認しておこう。

 国税庁が2022年9月に発表した「令和3年分 民間給与実態統計調査」によれば、年収1000万円超の給与所得者構成比は5%弱であり、また同様に「平成26年分 民間給与実態統計調査」では4%弱である。つまり、給与所得者の20-25人に1人程度しか到達しないラインというのが年収1000万円超である。

 つまり、「専業主婦の仕事を年収換算すると1000万円超である」との見解は、給与所得者の20-25人に1人という上澄み層の集団の仕事と、専業主婦という選抜が為されていない集団の仕事が同程度の仕事との想定をおかなければ、出てこないスケールの話なのだ。

 このスケールのおかしさを2つの譬え話で説明しよう。

 簡単にこのスケールのオカシさを示すために、まずスケールを極端にした譬え話をしよう。

 新進気鋭のピアニストがショパンコンクールで優勝したとのニュースがTVで流れたとしよう。そのとき「オレだってピアノを子供の時から習えばショパンコンクールで優勝できるね」と嘯く音楽未経験者が居たとしたら、「オマエ、何言ってんだ。トップレベルの人の業績だぞ?普通の人のお話じゃないぞ」と周囲から窘められるだろう。

 では、次にグループを明確に意識できる譬え話をしよう。

「隣のクラスの一番頭のいい奴のとったテストの点なんぞ、ウチのクラスの平均点だ!」と豪語する高校生が居たとしよう。このとき、別の生徒は「おいおい、お互い一般クラス同士だぜ?ウチのクラスの平均点が、別のクラスとはいえクラストップの点数と同じ水準になるわけないじゃん」と現実を見た発言をするだろう。

 以上の譬え話で、一般的な集団と上澄み層の集団の関係、あるいは、一般的な集団同士の関係を説明した。そして、そのような関係性にある事柄について「トップレベルの人と同じことが普通の人でもできる」「普通の人同士だけど段違いのパフォーマンスになる」という言説が出てきたら、譬え話において登場する窘めた人達のように、直ぐに違和感を覚えるべきなのだ。

 つまり、「専業主婦の仕事を年収換算すると1000万円超である」という結果が出たならば、真っ先に、普通の主婦の仕事の年収の大きさとして年収1000万円超は大きすぎると感じるべきである。給与所得者の年収の中央値なり平均値がその半分に満たない。つまり、一般的な集団同士の関係として一方のトップレベルの水準が、他方の平均の水準となることは、特段の事情が無い限り、まず生じないのだ。

 このことを一般性をもった形でまとめよう。

 ある分野AとBの間に相当程度の格差があるのでもなければ、分野Aの一般人が仮に分野Bに参入したとしても、分野Bにおいて分野Aの一般人が分野Bの上澄み層と同じパフォーマンスを実現できるとは考えにくい。したがって、分野Aの一般人と分野Bの上澄み層の、分野Bにおけるパフォーマンスが同程度なるとの想定は、どこかオカシイのではないかと疑問に感じるべきなのだ。


まとめ

 本稿では、専業主婦の仕事を年収換算する議論において、法外な評価額を出す言説の問題圏について論じた。そして、法外な評価額の主張を批判するにあたって、大まかに3つのトピックで批判した。

 1つ目のトピックは、主張の内容に関する批判である。すなわち、批判対象の主張において年収換算したときに用いられている「労働単価や労働時間」の理屈を批判した。労働単価に関しては、「成果物の販売価格=賃金」という枠組みでの労働単価設定、そして買い手側を無視した売り手側の事情からだけの労働単価設定を批判した。そして、労働時間に関しては、明らかに実態を無視した労働時間の想定があることを確認し、過大に見積もられた労働時間を批判した。

 2つ目のトピックは、方法論上の姿勢に関する批判である。“専業主婦の年収1,300万円”論争は、マネタイズと本質的に係っている。すなわち、「○○は△△円の価値がある」との議論は、究極的には○○が実際に△△円に換金し得る性質があるか否かで、正しい正しくないが決まる。したがって、直接的な証明方法は実際にマネタイズして見せることである。一方で、専業主婦はその定義上、自分の仕事をマネタイズしないからこそ専業主婦なのだ。マネタイズできたならば、その存在はもはや専業主婦ではない。したがって、「専業主婦の仕事は年収換算で1300万円」との主張を証明するにあたって、マネタイズという直接的な証明方法を用いることができないのだから、間接的な証明方法でマネタイズと同等の妥当性を持つようにしなければならない。つまり、究極的に評価の正しさを示す方法以外の方法で正しさを示そうとするのだから、「方法に関する正しさ」に対して厳格な姿勢を「専業主婦の仕事は年収換算で1300万円」との主張をする側は取らなければならないのだ。そうであるにも拘らず、そんな方法論上の厳格な姿勢は見られない。それゆえ、いい加減な方法論上の姿勢に対して批判を加えた。

 3つ目のトピックは、大まかな見通しをもって問題を考察しない論者の態度に関する批判である。取り上げる問題に関するある程度のスケールの見通しがあるならば、結果が「大きすぎるor小さすぎる」という違和感を持ってしかるべきである。予想される結果からの大きな逸脱は「テクニカルな誤りが無いか」「手法の適用は適切だったか」「問題の捉え方そのものに誤りは無かったか」「理論に致命的な問題はないか」等の反省を齎す。しかし、大まかな見通しをもって問題を考察しないならばそのような反省は生じない。反省が生じ得るような構えがない論者の態度には独善性が潜んでいる。今回の例に即していえば、「専業主婦の仕事は年収換算で1300万円」という主張において、年収1300万円というのは、給与所得者の平均年収・中央値年収の2倍超である。そして、給与所得者に関して年収1000万円超は約5%である。この結果を見たときに「専業主婦の年収が1300万円」という結果には何か大きな見落としがないだろうか?と疑問を感じない態度には、先に述べたように独善性が潜んでいる。大きな差異のない2つの集団間の平均や中央値で大きな乖離がある、大きな差異のない2つの集団に関して一方の集団の上位5%層の値と他方の集団の平均の値が同じである、という結果を観察してなんらかの異常を疑わない論者は、当該問題を論じるような資質に欠いている。そして、そういった異常の可能性を感知するためには、事前に大まかな見通しを持とうとする態度が必要なのである。

 以上、3つのトピックから、“専業主婦の年収1,300万円”論争の問題圏を論じた。


註1 ここで10年ぐらい前の議論を取り上げたのは、引用記事から分かるように過去においても1200万円前後のスケールの話が出ていたからだ。「そういや昔もトンデモない評価額を出して、物議を醸す議論していた論者がいたなぁ」と思い出して当時の記事を検索した。


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