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ラカン思想:欲望のグラフ「第1図」

 ラカン理論を説明するのに「欲望のグラフ」というものがある。今回はそれについて解説していきたい。


■「欲望のグラフ」のグラフは円グラフ等のグラフではない

 さて、次節で「欲望のグラフ」の一番シンプルな「第1図」を挙げた。しかし、パッと見て「どこがグラフなんだ?」という感想を持つ人が多いのではないかと思う。グラフというと、大学数学に触れた人でない限り、棒グラフや円グラフ、折れ線グラフといったグラフを「グラフ」と呼ぶと勘違いするだろう。

数学のグラフ理論における"グラフ"

 ところが、数学には上の図のような対象を扱うグラフ理論と呼ばれる分野がある(註1)。グラフ理論のよく知られた問題としては、数学者オイラーが否定的に解決したことで有名な、「ケーニヒスベルクの7つの橋問題:このプレーゲル川に架かっている7つの橋を2度通らずに、全て渡って、元の所に帰ってくることができるか。ただし、どこから出発してもよい」という一筆書き問題がある。この問題にまつわるオイラーの逸話は、数学小話としてよく取り上げられるので、耳にした人も少なくないのではないかと思う。あのような問題がグラフ理論で扱う問題である。

 つまり、"グラフ"という言葉は、一般的な日本人にとってみると円グラフや棒グラフといったグラフを思い浮かべがちだが、それとは全く別のものも指し示している言葉なので、少し注意が必要である。


■欲望のグラフ「第1図」

 さて、欲望のグラフの「第1図」を下に挙げる。この図が何を示しているのかをこれから見ていこう。

 第1図を一言で説明するならば、「不定形の欲求が欲望になる様子」を示したものである。とはいえ、それだけでは何を言っているのか分からないと思うので、具体例を用いて説明しよう。

ラカンの欲望のグラフ 第1図

 さて、次のような情景を思い浮かべよう。

 ある夜にX(旧Twitter)を開きつつ、noteに文章を打ち込んでいる。ふとXのタイムラインに目をやると、美味しそうなラーメンの画像が流れていたとしよう。このとき「へぇ、タイムラインにラーメンの画像が流れてきたな」という認識が生じる。自覚は無いが軽い空腹状態にあったとき、当初の認識が「旨そうなラーメンだな」と価値判断を持った認識に変わる。そして、さらにそれが「うぉー、いまラーメンを猛烈に食べたい気分だ!」という欲望に変わる。

 この情景における「Δ,S,S',$」は以下を指している。

Δ:自覚していない軽い空腹感
S:ラーメンの実物
S':ラーメンの画像
$:ラーメンへの欲望

 まず、Δからスタートして上に向かった矢印がUターンして$になる表現を解説しよう。

 この馬蹄形のノードと経路は「自覚していない軽い空腹感が、ラーメンへの欲望に変化した」ことを示している。また、ラーメンへの欲望を示す表記が「not S」を示す「$」になっているのは、次のような事情からである。ラーメンの実物が自分の手元には無い状態、すなわちSが非存在状態にある場合にラーメンへの欲望が生じるとの事情から、実物Sの欠如状態を示す否定形$がラーメンへの欲望を示す表現になっているのだ。平たくいえば「ラーメンの実物が無いから、ラーメンへの欲望が生じる」ことを言いたいがために、欲望をそのままのSではなく否定形の$で表現している。

 また、Δが「自覚していない軽い空腹感」を意味していることからも分かるように、「空腹」という欲求の方向性はあるものの、具体的に何に向かうかは不確定である。したがって、もしもXのタイムラインに流れてきた画像が「ステーキを焼いてハイボールをキメる!」というものであれば、「$」は「うぉー、いま猛烈にステーキを肴にハイボールを飲みたい気分だ!」という欲望に変わるだろう。つまり、欲望の対象となったSは、たまたま欲望の対象になっただけで、必然的にそれが欲望されるものとなったわけではない。そのことを示す意図からも、馬蹄形の経路の行きつく先が$と表現されている面もある。

 次は、Sからスタートして左から右に向かった矢印がS'になる表現を解説しよう。

 この表現は、ラーメンの実物Sはラーメンの画像S'になって、Xのタイムラインを見ていた人間に認識されることを示している。

 ラーメン画像S'の元になったラーメンS自体は、Xのタイムラインを見ていた人間に消費されることは決してない。認識の対象ではあるのだが、消費や所有の対象になることはないのだ。ラーメン画像S'をアップロードした人にとっては、その画像の元になったラーメンSは消費・所有の対象であるが故に、画像の元になったラーメン自体はSと表現される。しかし、ラーメンを認識した、Xのタイムラインを見ていた人にとって、そのラーメンは何処まで行っても食べることのできない画像に過ぎない。それゆえ、ラーメン画像についてはS'と表現されることになる。

 もう少しラーメンSとラーメンの画像S'の関係について説明しよう。以下のように当初に例示した情景を一部変更して考察してみよう。

 さて、学校の食堂で友人とお喋りしているとき、「自分とは違う誰かがトレイにラーメンを載せて歩いているのを見た」という場合について考えよう。

 思い浮かべる情景をこのように変更しても本質的には何も変わらない。他人が持つトレイの上のラーメンは、確かにラーメンの実物Sである。トレイに載せて運んでいる人間にとっては、そのラーメンは消費・所有の対象である。つまり、ラーメンを運んでいる人間にとっては、そのトレイの上のラーメンは食べられるラーメンだ。したがって、その人間にとってはトレイの上のラーメンをSと表現していいだろう。

 しかし、友人とお喋りしていた人間にとってみれば、そのトレイの上のラーメン自体は食べることのできないラーメンだ。トレイの上のラーメンを見掛けて「ラーメンを食べたい」とのラーメンへの欲望を持った人間にとっては、他人が持つトレイの上のラーメンは、先の例におけるXのタイムライン上のどこまで行っても画像でしかないラーメン画像S'となんら変わるところがない。つまり、学校の食堂での他人のトレイの上のラーメンは、物質的な意味では同一のラーメンであっても、トレイに載せて運んでいる人間にとってはそのラーメンはSであるが、友人とお喋りしていた人間にとってはそのラーメンはS'となるのだ。

 以上の具体例で見てきた内容をまとめると以下になる。

Δ:自覚していない不定形の欲求
S:消費・所有できる欲望の対象の実物
S':(それ自体は消費・所有の対象とならない)欲望の対象の情報
$:欲望の対象の非存在を前提とした、具体的対象への欲望


■「欲望のグラフ」の説明に登場する難しげな表現

 欲望のグラフでよく為される説明において、欲望$は「シニフィエSの不存在がどうのこうの」といった話がなされることがある。このとき、なにを言っているのかといえば、先の具体例で説明すると「ラーメンを食べたい!」と欲望している正にそのときにおいては、欲望の対象であるラーメンの実物Sは手元に無い、といった程度の話をしているのだ。

 また、シニフィアンという言葉が登場することもある。ただし、言語学でのテクニカルタームとしてのシニフィアンの意味として用いられている訳ではなく、「消費・所有の対象となることのない、欲望の契機となる欲望の対象の情報」ぐらいの意味で用いられていることに注意しなければいけない。先の具体例で説明すると、「ラーメンを食べたい!」という気持ちを湧き起こさせたラーメン画像に関して、「あくまで画像で、食べことのできる実体を伴っていません」ということを言い表そうとして、シニフィアンの語を用いている。そんな使用法でシニフィアンという言語学のテクニカルタームをラカン理論では用いているのだ。

 もちろん、シニフィアンやシニフィエの言い回しには、ラカン理論においても「サピア=ウォーフ仮説が主張している類のことも含めて言い表したいがために、シニフィアンやシニフィエという言葉を用いている」という面もある。

 だが、そんな意図があったとしても、別の学問領域のテクニカルタームの意味を捻じ曲げて使用して賢しらな雰囲気を出すラカンの言説に対して、私は眉を顰めずにはいられない。




註1 オイラーグラフの図をお借りしたサイト


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