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ルッキズム・反ルッキズム関連のトンデモ主義

はじめに

 反ルッキズムに関する記事がメディアに取り上げられるようになったのだが、どうにも腑に落ちない記事がしばしば登場する。数ある反ルッキズム(?)記事のなかでトンデモさにかけてはスマッシュ・ヒットと言える記事は、端的にいえば「美人はNG。だがイケメンはOK」という主張がハイライトである、フェミニストの上野千鶴子氏の対談記事だろう。


 それならば、女性が男性に「イケメン」などと言うことも問題視されるべきではないのだろうか。
「よくある反論ですが(苦笑)、女の場合は一元尺度でランクオーダーされるのに対して、男は多元尺度なんです。たとえばイケメンじゃなくたって、学歴とか地位とか、そういった尺度が男にはある。男の尺度の中で一番強力なのは金力(稼得力)であり、イケメンかどうかなんてことは、男にとってはマイナー尺度です。つまり男女のランクオーダーは非対称ですから、『女だって同じことをやっているだろ』とはなりません」

上野千鶴子氏に聞いた「美しい人に『美人』と言ってはいけない理由」
対談:上野千鶴子 2021.12.2 週刊ポスト2022年1月1・7日号

 流石にこの理屈のヘンテコさ加減は身内のフェミニストからも批判されている。一例として治部れんげ氏のルッキズムをテーマにした記事が挙げられる。上記の上野氏の対談記事はyahoo!記事にも転載され大炎上していた経緯からか、ただちにYahoo!ニュース個人編集部が上野氏とは別のフェミニストである治部れんげ氏にルッキズムに関する記事の執筆を依頼したようだ。その記事とは以下である。

 記事の冒頭では以下のように記事の目的が書かれている。

 この記事では「なぜ、最近、見た目を褒めることが批判されるのか」、「どんな場合でも見た目を褒めてはいけないのか」そして「美人はダメと言われるがイケメンはスルーされている」ように見える「男女の非対称性」について考えたい。

美人はダメでイケメンはスルー……軽視されがち?男性容姿への言及の違和感を考える
治部れんげ 2022/1/21 Yahoo!ニュース

 表題と冒頭で太字で強調された記事の目的からすると、ルッキズムについての「男女の非対称性」に関する考察(?)には分量的に多くの紙面が割かれてしかるべきであると思われるが、フェミニストの大御所である上野氏への忖度から以下で引用するぐらいの分量が限界なのだろう。では、治部氏の上野氏への批判にあたると言える部分を引用しよう。

男性も違和感を覚えている
 では、男性の容姿を「イケメン」などと評価することはスルーしてよいのだろうか。私自身はダブルスタンダードを排するべきだと思うので、公の場で「美人」を使ってはいけないと思う人は「イケメン」も使うべきではないと考える。
 例えば元プロ野球選手の斎藤佑樹さんは、高校時代「ハンカチ王子」と呼ばれた。甲子園で所属校が優勝した際の活躍が注目され、学校の近くまでメディアのカメラが集まったという。当時、この状況を「ものすごくイヤ」だったと文藝春秋などのインタビューで振り返っている。
 ジェンダー問題に関心が高い女性でも、この辺りは態度が分かれるようだ。ある県で男女平等の研修をした際、男性職員から、こんな話を聞いた。
 「若い頃、県の女性センターを管理する仕事をしていた。センターを利用する女性団体の人から『この男の子は…』としょっちゅう言われて、モヤモヤしました
 何が問題なのか分からない人は、この場面を男女逆にして想像してほしい。県の施設を使用した男性グループが、自分より若い女性の県職員を「この女の子は…」と言ったとしたら。若い女性を見下していると批判するのではないだろうか。
 このように男性からも容姿や若さに注目されることに違和感を覚えるという話を聞く。ルッキズム批判をするなら、男性の見た目をいじるのもやめるべきだと私は思う。

同上

 さて、ルッキズム批判は上記の上野氏をはじめとしたフェミニストが行うことが多い。そのせいなのか、明らかに奇妙な理屈でもってルッキズムを批判・非難している主張を見かける。しかし、ルッキズム批判はそんな奇妙な理屈を用いずとも十分に可能であるように思われる。そこで、この記事ではフェミニズム論やジェンダー論の理屈とは別の理屈でのルッキズムや反ルッキズムへの批判を考えたい。

 以上を考えるにあたって、まずルッキズムと反ルッキズムの考え方にはどんなものがあるかを挙げ、それらの中の非合理な考え方に対して何故非合理なのかを考察しよう。


ルッキズム・反ルッキズムの色々な考え方

 ルッキズムに関しては大きく以下の二つの立場がある。

  1. 外見は関係が無いにも関わらず外見を判断基準にして評価する

  2. 外見が関係する場合に外見を過大に重視して評価する

 外見についての評価すべき実体との関係性の有無でルッキズムは上記の1と2の考え方に分けることができる。ルッキズムに「外見至上主義」との訳語を当てる場合は、1の考え方に限定して用いている場合が多い。また、2の考え方について、本稿では外見過大評価主義と呼ぼう。

 また、反ルッキズムについては、1のルッキズムに対する批判的立場、2に対する批判的立場、そして、どんな場合であっても外見を評価軸にすることに反対する立場の3つの立場がある。反ルッキズムのそれぞれの立場について、本稿では以下のような名称で呼ぼう。

  • アンチ外見至上主義:外見が関係無い場合に外見で評価するのは反対

  • アンチ外見過大評価主義:外見を過大に重視して評価するのは反対

  • アンチ外見主義:どんな場合でも外見を評価軸に入れるのは反対

 以上のルッキズム・反ルッキズムに関する主義に関して、非合理なものが3つある。それは「外見至上主義」「アンチ外見主義」「外見過大評価主義」である。これからこれらの非合理性についてみていこう。


外見至上主義がなぜ非合理なのか?

 外見至上主義は、外見が関係なくとも外見を評価基準にして判断することである。極端な例で言えば、オリンピックの100m走の代表選手を選抜するのに走力ではなくルックスで選抜する立場である。この考え方がオカシイことについては以下を想像すれば明白だ。

 外見至上主義で陸上選手が選ばれる世界であれば世界陸上の100m走においてウサイン・ボルトではなくジャスティン・ビーバーが注目されることになったであろう。だが、そのような世界線においては、そもそも"陸上競技100m走"に存在意義があるのか、と言う話になる。100mを走る速さを競っているにも関わらず選手の外見で評価するのであれば「100mを走る速さ」をわざわざ競うことなど余計であり、単に外見を競えばよいだけのことだ。走ろうが走るまいが外見の良さなど変化しない。従って、陸上100m走における外見至上主義は競技の存在意義を消失させてしまうため、当然ながら外見至上主義は陸上100m走での考え方として成り立たない。

 外見が関係してこない場合に外見を評価基準にすることは、上記の陸上100m走以外の場合でも同様の事態を齎す。そのような事態は到底望ましいとは言えない。それゆえ、外見至上主義は非合理なのだ。

 以上のことが理解できれば、外見至上主義が間違っているとするアンチ外見至上主義に賛同しない人間はいないだろう。


アンチ外見主義がなぜ非合理なのか?

 先に外見至上主義の非合理性を見たわけだが、そのときの観点は「本来みるべき対象を見た結果で評価しているか?」というものだ。比喩でいえば、身長を測定するのに体重計を使っていないか(=体重を見ていないか)という観点である。この観点からは外見至上主義だけでなくアンチ外見主義もまた同じ非合理性を持っている。

 アンチ外見主義は「どんな場合でも外見を評価軸に入れるのは反対」という考えである。したがって、外見が本来的な評価対象であったとしても外見を評価軸に組み込むことを禁じるため、アンチ外見主義もまた外見至上主義と同様に非合理であると言える。

 つまり「見るべきものを見ない」という点で外見至上主義とアンチ外見主義は共通なのだ。

 それゆえ、外見至上主義が非難されるべきものであるならばアンチ外見主義もまた同様に非難されるものであり、アンチ外見主義が擁護されるのであれば外見至上主義もまた同様に擁護されるのだ。もしも、アンチ外見主義なり外見至上主義なりのどちらか一方を非難して他方を擁護するのであれば、それは党派性に基づく非合理な姿勢であり、いわゆるダブルスタンダードを振りかざして恥じない姿勢である。

 「反ルッキズムが正義!」との昨今の風潮のなか、味噌も糞もごちゃ混ぜになって、非合理な反ルッキズムに基づく主張がしたり顔で吹聴されている。ルッキズムが非難される大元は「見るべきものを見ない」という姿勢にある。ルッキズムが非難されたものと同様の非難されるべき姿勢であるにも関わらず、アンチ外見主義は反ルッキズムを錦の御旗に立てて、恰もそれが正しい考え方であるとして周囲に押し付けている。そのような事態が往々にして観察されていることに十分に注意して反ルッキズムの主張を見ていかなければいけない。


外見過大評価主義がなぜ非合理なのか?

 これまで見てきた、外見至上主義・アンチ外見主義の捉え方の発想は言ってみれば「on-off」の発想、言い換えれば1か0かのいずれか二値をとるとする思考である。しかし、1か0かの値だけではなくもっと様々な値をとる問題として捉えることも可能である。そうすると、これまで見てきた外見至上主義とアンチ外見主義だけでなく外見過大評価主義もまた同じ思考枠組みで考えることが出来ることが分かる。

 ただし、問題の捉え方の発想がこれまでと変わるため説明が必要だろう。そこで、この新たな思考枠組みに関して「大学入試の配点」の譬え話で解説しよう。

 外見至上主義に対応するものを数学至上主義、アンチ外見主義に対応するものをアンチ数学主義としよう。このとき、数学至上主義入試においては数学以外の学力を考慮しない入試になり、アンチ数学主義入試においては試験科目から数学を排除した入試となる。具体的には以下のような配点になるだろう。

数学至上主義入試の配点 :(数,国,英,理,社)=(400,0,0,0,0)
アンチ数学主義入試の配点:(数,国,英,理,社)=(0,100,100,100,100)

 またここで、別の配点パターンの入試を2つ考えよう。

入試パターンA:(数,国,英,理,社)=(100,100,100,50,50)
入試パターンB:(数,国,英,理,社)=(200,50,50,50,50)

 入試パターンAは平均的な配点であり、入試パターンBは数学重視の配点である。先の数学至上主義入試やアンチ数学主義入試との呼び方に倣えば入試パターンBは数学過大評価主義入試と言えるかもしれない。とはいえ、数学至上主義入試・アンチ数学主義入試および数学過大評価主義入試の呼び方は問題の解説のためにイメージしやすくした導入の方策に過ぎない。以後はこれらの呼び方に伴うイメージは解説にとってむしろ邪魔になるので、以下のように名称を変更しよう。

入試の配点パターン1:(数,国,英,理,社)=(400,0,0,0,0)
入試の配点パターン2:(数,国,英,理,社)=(200,50,50,50,50)
入試の配点パターン3:(数,国,英,理,社)=(100,100,100,50,50)
入試の配点パターン4:(数,国,英,理,社)=(0,100,100,100,100)

 上の入試パターン1~4について、大学のポリシーもあるだろうが理学部数学科の入試として考えるならば、パターン1~3はあり得えてもパターン4は数学科の入試の配点としては非合理だろう。一方、文学部国文学科の入試であればパターン2~4は有り得てもパターン1は非合理だ。更に言えば、文学部国文学科であればパターン2も数学の配点が過大であるようにも思われる。同様に、法学部の入試、工学部の入試等々を想像すればよい。

 入試において各教科の配点がどれくらいであるのが望ましいかについて、大学・学部・学科で変わってくる。配点が多すぎれば当該教科の学力を過大評価しているといえるだろうし、少なければ過小評価しているといえる。因みに、パターン1やパターン4のように特定の教科の配点が0点であったとしても入試の配点の望ましさの議論に本質的な差は生まれない。

 話を大学入試の譬えからルッキズムの議論に戻そう。「外見の評価」に纏わる問題も譬えの構造と同様である。

 評価のシーン毎に望ましい評価のウェイトは変わる。他の評価軸と共に外見という評価軸も重視されることもあれば一切無視されることもある。各シーンにおいて重視すべき評価軸とその水準は変化する。そして各シーンにおける理想の評価体系と実際に用いられている評価体系の差があるならば、当該差分だけ実際の評価体系は非合理である。

 結局のところ、外見過大評価主義に基づく評価体系は理想の評価体系よりも外見の評価軸を重視しすぎる評価体系であるので非合理なのだ。


まとめ

 ルッキズムには大きく分けて2つある。たとえ外見が関係なくとも外見のみを評価基準とする外見至上主義と、外見を過大に評価する外見過大評価主義である。この二つのルッキズムはいずれも非合理である。

 一方、反ルッキズムについては、上の二つのルッキズムが単純に非合理であるとするアンチ外見至上主義とアンチ外見過大評価主義は問題ないのだが、外見至上主義の逆方向の鏡像であるかのようなアンチ外見主義は、外見至上主義と同様に非合理な考え方である。

 本稿で見てきた、外見至上主義・外見過大評価主義・アンチ外見主義への批判は、○○至上主義,○○過大評価主義,アンチ○○主義の「○○」に入るものが、外見でなくても当てはまる。例えば、学力・血統・実績・成果・経済力等のいずれを代入しようが、評価すべきものを適切な水準で評価していないならば非合理になる。つまり、これらの非合理な考え方は、評価すべきものを適切な水準で評価していないという、フェミニズム思想やジェンダー論とは無関係の普遍的な観点から非合理だと言えるのだ。

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