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『ごんぎつね』の技法分析(3)

1.2.3 観客の見たかったものがちゃんと出てくる

 本稿では、クライマックスにおける登場人物、とりわけ主人公の想いについて取り上げる。また、同時に想いに伴う感情・気持ちも見ていく。

 読者が登場人物の想いによって如何に心を動かされるか、クライマックスの感動のメカニズムをみる。また、同時にクライマックスにおいて、如何に読者の願望が達成されているかも確認する。

 それらを通じて、クライマックスのストーリーにおける役割を理解しよう。


■『スペードの女王』のクライマックス

クライマックスの典型

クライマックスの役割とは簡単にいうと観客の望んでいたものを見せること。

「物語の才能」

 前記事の「1.2.2間違いが正されていく」でドストエフスキー『罪と罰』でナポレオン主義によって引き起こされた罪そして罰と再生を考察した。この節でも同じナポレオン主義を取り上げたプーシキン『スペードの女王』を用いてクライマックスの役割をみていこう。

 『スペードの女王』は賭博を題材にしてナポレオン主義による破滅を描いたものだ。だからクライマックスも破滅のシーンになる。ではどうして主人公の破滅が「観客の望んでいたもの」となるのかを示すため、必要な範囲であらすじを述べていこう。

主人公ゲルマンが友人トムスキイから、彼の祖母の伯爵夫人が秘密のトランプの必勝法を知っているとの話を聞く。堅実に生きるべきとゲルマンは一時考えるのだが、やがて必勝法の秘密を探るべく策略を巡らす。伯爵夫人が側近女性を虐待していることに付け込み、伯爵夫人の家に侵入して銃による脅迫で秘密を聞き出そうとするのだが、彼女はショック死してしまう。ところが不思議なことに、必勝法である「三枚のアタリ札」を亡霊になった伯爵夫人がゲルマンに教える。必勝法を得たゲルマンは3度のチャンスを活かすべく全財産を掛け金として3度の賭けを行う。1度目2度目は成功して財産を数倍にする。しかし、最後の3度目の勝負で、ゲルマンはアタリ札の「1」に賭けたはずが「スペードの女王」に賭けていたことになってしまい、ゲルマンは破滅してしまう。

『スペードの女王』あらすじ 筆者作成

 さて、あらすじに書いていないが、主人公の容貌・出自・地位・野心などといったモチーフにより主人公はナポレオンに類似した人物としてプーシキンによって描かれている。だが、主人公ゲルマンがナポレオン主義者であることは、あらすじにもあるとおり、行動から決定的になる。

 伯爵夫人への脅迫(と間接的殺害)・無垢な側近女性の利用に関して主人公ゲルマンは躊躇しない。また、その後に良心の呵責に悩まされることもない。事を為した後にグダグダ悩む『罪と罰』のラスコーリニコフとは対照的に、ゲルマンは生粋のナポレオン主義者である。

 ナポレオン主義の「目的のためなら何をやってもいい姿勢」は、基本的には読者に受け入れられない。「いくら目的がよくても手段もキチンとしていないとダメだろ」というのが一般的な読者の価値観である。もちろん、行動の目的によってはある程度は手段の適切性に関して不問に付されることはある。読者からみて、手段が不適切であっても十分に納得し得るだけの目的と事情があるのであれば、ナポレオン主義も読者に受け入れられる。ひょっとしたら、ゲルマンのナポレオン主義による行動もその目的に大義があれば、読者はゲルマンの行動を是認した可能性があったかもしれない。

 だが、そのゲルマンの行動の目的は私利私欲に基づく個人的なカネと名誉の獲得である。こんな目的では読者は納得しない。さらに、ゲルマンの2度目の勝負までの構図を示すと「不正な手段(脅迫・殺害等)で得た、卑怯な方法(アタリ札の予言)によって、私利私欲を満たす」という構図である。

 ストーリー展開の最後までこの構図が成立したまま推移し「ゲルマンは3度の勝負に打ち勝ち大金持ちになりました。めでたしめでたし」となったとしたら、読者は到底納得がいかないだろう(※1)。

 「不正に入手した卑怯な方法で巨万の富を得るだって?許せるワケないだろ!」との怒りの感情移入によって、こんな構図が木っ端微塵になる願望を読者は抱く。そして、読者の願望通りに木っ端微塵になるのが、以下のクライマックスシーンである。

チェカリンスキイは顫える手に札を配った。右手には『女王』が、左手には『一』が出た。
「『一トウズ』がやった!」とゲルマンは言って、持ち札を起こした。
「いや、『女王ダーマ』の負けと存じますが」とチェカリンスキイが優しく言い直した。

ゲルマンは愕然と自分の手を見た。張った筈の『一』は消えて、開いたのはスペードの『女王』であった。―この指が引き違いをする筈はないのだが。―
そのとき、スペードの『女王』が眼を窄めて、北叟笑みを漏らしたと見えた。その生き写しの面影に、彼は悚然とした。……

「あいつだ!」彼は眼を据えて絶叫した。

『スペードの女王』

 大勢の貴族たちが平民出の士官の勝負を息を詰めて見守るなか、胴元が震え上がるぐらいに膨れ上がった全財産を賭け、伝説となる栄光の勝利を確信した瞬間に、死んだ老伯爵夫人による痛烈な復讐で、ナポレオン主義者のゲルマンは破滅する。絶頂の瞬間に復讐者によって地獄に叩き落されるのだ(※2)。劇的なクライマックスである。

 いくら他人のものであれ、いくら不正によるものであれ、巨額の富が一瞬で失われる恐怖と破滅とを目撃した巨大な衝撃とともに、不正が正され、復讐が成し遂げられ、因果応報への読者の願望が劇的にそして瞬時に達成される。

 プーシキン『スペードの女王』は、読者が望む以上の形で、読者が見たかったものをクライマックス出してくる。クライマックスの一つの典型がここにある。


主人公の強い想い

クライマックスで主人公の想いが強く出てくる。だから映画を観ていた人は感動します。主人公のその想いに観客は胸を打たれます。

「物語の才能」

 クライマックスで主人公の想いが強く出ているのが理解しやすい作品は、やはり、主人公が何かを成し遂げるストーリー展開の作品である。もちろん、主人公が何かを成し遂げる訳でもない作品であっても主人公の強い想いが出ているクライマックスの作品はある。

 この『スペードの女王』においてもそうである。クライマックスの3度目の賭けにおいて主人公の野心というべき想いが強く出ている。

 だからこそ、その破滅に読者の心が動く。先述の通り、悪党が因果応報で報いを受けて読者の願望が達成されるとの側面もあるのだが、強い想いで事を為そうとするからこそ、一歩及ばなかった主人公ゲルマンの破滅に哀愁を感じる。それがたとえ悪党であったとしても、その強固な意志と想いが報われなかったことに読者は悲劇性を感じるのだ。

 シェークスピア『マクベス』のクライマックスでマクベスが敗れ去ることに読者が感じる悲劇性なども同じである。


■『野菊の墓』のクライマックス

マッチした感情が強く出るクライマックス

観客の願いにぴったりマッチした感情が強く出てくるシーンです。これがちゃんと用意されているからこそ観客は胸を強く打たれ感動します。
これが感動のメカニズムです。

「物語の才能」

 クライマックスで私自身がもっとも強く、主人公の感情に同調し胸に迫るものを感じた作品は、伊藤左千夫『野菊の墓』である(※3)。著者の伊藤左千夫自身が作品の朗読会で泣きながら読んだとのエピソードもさもありなん、と納得できるクライマックスである。

 さて『野菊の墓』は、旧家の10代の息子政夫と下働きで住み込んでいる2つ年上の親戚の少女民子との悲恋を描いた作品である。ストーリーの大筋を以下で示そう。

政夫と民子の二人は子供の頃からの付き合いで仲良く惹かれ合っていたが、女のほうが年上ということで付き合いに周囲が反対し、二人は引き裂かれた。その後、民子は亡くなり、それを知った政夫が墓の前で号泣する。

『野菊の墓』のストーリー

 恋愛小説としては非常に単純なストーリーの作品である。登場人物像やストーリー展開は陳腐とすら言えるかもしれない。だが『野菊の墓』の傑作性はそんなものでは損なわれない。

 我々の素朴で愛おしい少年少女時代を閉じ込めたかのような作品世界の美しさこそが『野菊の墓』の傑作性である。民子の墓は、我々の戻り来ぬ少年少女時代の煌めきがもはや我々の手に届かぬ世界にあることを示す象徴でもある。大人になることで我々は何を失ったのか、かつての瑞々しい感覚をも蘇らせて、思い出させる作品なのだ。

 『野菊の墓』のクライマックスに話を戻そう。

 まず、『野菊の墓』の承のパートの話をしよう。

 そこでは、二人でのおしゃべりや家の中でのちょっとしたやり取り、あるいは農作業といった日常のほんの些細な出来事の中で「お互いのかけがえのなさ」を感じ合う政夫と民子の純愛が丁寧に描かれる。その描写によって、政夫にとっての民子、そして民子にとっての政夫の価値の大きさが読者にも感じ取られる。この読者が感じ取った価値の大きさが深い感情移入を読者にもたらす。そして、この感情移入がクライマックスでの強い感動を生み出す。

 ではクライマックスを見ていこう。

 クライマックスシーンと言えるものは以下の二か所である。とはいえ、政夫が電報を受け取って郷里に帰るときから始まる「結」のパートのほぼ全てが『野菊の墓』のクライマックスといってもよい。

世の中に情ないといってこういう情ないことがあろうか。もう私も生きて居たくない……吾知らず声を出して僕は両膝ひざと両手を地べたへ突いてしまった。

『野菊の墓』民子の墓前での政夫の慟哭

お祖母さんが、泣き出して、そこにいた人皆涙を拭いている。僕は一心に畳を見つめていた

『野菊の墓』民子の永訣の様子を聞いている政夫の姿

 クライマックスでの民子の墓標を前にした政夫の慟哭、そして、一心に畳を見つめて民子の永訣の様子を聞いている政夫の姿から、かけがえのない存在を失った事に感情移入している読者が感じている感情そのままを、主人公もまた非常に強く感じているとハッキリ分かるのだ。

 この主人公と読者の感情の一体感が感動のメカニズムだ。

 感動のメカニズムが働くクライマックスは、『野菊の墓』のクライマックスが典型と言えるだろう。


「想い」と「気持ち・感情」の違い

クライマックスは火力勝負です。とにかく主人公の想いを強く出しましょう。
強く出さないといけないのは気持ちとか感情ではありません。主人公の想いです。似ているけど同じものだとは考えないように

「物語の才能」

 主人公に限らず「登場人物の強い想い」は読者の胸を打つ。『野菊の墓』でも「民子の強い想い」が出てくる。以下に見よう。

民子はしばらくたって、矢切のお母さん、私は死ぬが本望であります、死ねばそれでよいのです……といいましてからなお口の内で何か言った様で、何でも、政夫さん、あなたの事を言ったに違いないですが、よく聞きとれませんでした。それきり口はきかないで、その夜の明方に息を引取りました……。それから政夫さん、こういう訣です……夜が明けてから、枕を直させます時、あれの母が見つけました、民子は左の手に紅絹もみの切れに包んだ小さな物を握ってその手を胸へ乗せているのです。それで家中の人が皆集って、それをどうしようかと相談しましたが、可哀相なような気持もするけれど、見ずに置くのも気にかかる、とにかく開いて見るがよいと、あれの父が言い出しまして、皆の居る中であけました。それが政さん、あなたの写真とあなたのお手紙でありまして……

『野菊の墓』民子との永訣

 民子は泣き叫びもせず静かに息を引き取るが、このシーンに現れる民子の政夫への想いは何という強さを持っているか。感情でもなく気持ちでもなく、まさしく「想い」が読者の胸を張り裂かんとする。

 そして、その民子の想いを受け止める政夫の姿もまた、気持ち・感情といったものでなく強い政夫の民子への想いが表れている。

お祖母さんが、泣き出して、そこにいた人皆涙を拭いている。僕は一心に畳を見つめていた

『野菊の墓』民子の永訣の様子を聞いている政夫の姿

 民子の墓前での政夫の慟哭は、抑えられぬ悲しみと嘆きによって生じたものだ。それは感情であり気持ちである。しかし、民子の永訣の様子を聞いている政夫が一心に畳を見つめる姿は、溢れ出そうになる自身の悲しみなどよりも民子の最期の想いを受け止めることを優先している姿なのだ。民子の最期の想いを聞こうとする政夫の民子への想いの強さが、あの慟哭に表れる激しい感情・気持ちを抑え込んでいるのだ。本文の表現には無い政夫の握りしめた拳の白さすら眼前に浮かぶようなシーンである。

 クライマックスにおいては登場人物の感情や気持ちが強く出ることが多い。だが、それは登場人物の想いに伴った感情や気持ちである。真にクライマックスに必要なものは、登場人物の想いなのである。


■『長距離走者の孤独』のクライマックス

『長距離走者の孤独』のテーマ

クライマックスで主人公の想いが強く出てくる。だから映画を観ていた人は感動します。主人公のその想いに観客は胸を打たれます。

「物語の才能」

 ある意味で王道の主人公が何かを成し遂げるストーリー展開でクライマックスを迎える作品としてアラン・シトリーの『長距離走者の孤独』を挙げよう。以下にどんなストーリーかを示す。

 主人公の非行少年スミスは窃盗罪で感化院に入れられる。そこでスミスは長距離走の選手としての才能を見出され、厳しい練習が課されるが、自身も長距離走を愛すようになり、感化院の代表に抜擢されるまでに成長する。
スミスが陸上競技大会で良い成績を取ることは、感化院の院長個人および感化院の側からしても、感化院での非行少年の更生が成功しているとの名誉が得られる。
大会当日、圧倒的な実力でゴール手前まで独走し、観客もまたスミスの優勝で間違いないと確信する状況で、ゴール手前でスミスは走ることを止め、後ろから遅れて走ってくる選手に優勝を譲ってわざと負ける。

『長距離走者の孤独』あらすじ 筆者作成

 さて、作家のアラン・シトリーに関しては以下のように説明されることが多い。

第二次世界大戦後のイギリスの労働者階級の若者たちのやり場のない怒りや反抗を描いた50年代の「怒れる若者たち」のひとり

 また、『長距離走者の孤独』についても、どんなテーマの作品かに関して以下の一言で述べられることが多い。

労働者階級の不良少年が、大人たちの偽善や階級社会に対して怒る姿が描かれた作品

 このように評価される作家であり作品であるので、反抗期のティーンエイジャーに非常に刺さる。「大人や体制側は汚い!許せない!」との気持ちから『長距離走者の孤独』は共感を呼ぶ作品である。

 ただ、この作品のテーマを「大人や体制側への反抗」としてだけ捉えると、「ああ、若者のとき罹る"はしか"だね。あるある」となってしまい、若者の青臭さだけしか感じ取れなくなる。したがって、もう少し詳しくテーマを掘り下げる必要がある。

 さて、主人公スミスがなぜゴール手前で走るのを止めたのか、それはスミスが優勝してしまうと感化院や院長個人が利益を得てしまうからだ。優勝すればスミス自身にとっても利益が発生するにも関わらず、自分の行為によって他者が利益を得ることが許せないのだ。つまりwin-win関係の拒否である。

 優等生的人物や世知に長けた大人であれば、自分に利益があり他者も利益があるwin-win関係を拒否する理由すら思いつかない。あるいは他者の事には本質的には関心が無い利己的人物であっても、自分に利益があるのだからwin-win関係を拒否しない。したがって、そんな人間にとってはwin-win関係を拒絶するのは愚者の所業としか感じられない。

 そんな愚者の所業としか言えない、win-win関係の拒否、すなわちレース優勝をスミスはなぜ拒否したのか。それを考えていこう。

 感化院側からすると、スミスがレースで優勝すると感化院は名誉が得られる、だからスミスを応援している。したがって、名誉が得られるのであれば選手がスミスである必要も無ければ、競技が長距離走である必要すらない。すなわち、スミスを長距離走の代表として選ばずに別人を代表にしてレースで優勝させてもよいし、競技が長距離走でなく体操競技であってもよい。つまり、感化院側の視点から見ると「スミスの長距離走での優勝」の固有性は必要でない。換言すると「スミスの長距離走での優勝」は感化院にとっては名誉を得る手段にすぎないのだ。

 このことは感化院および院長が、スミスを道具的存在として扱っていることを意味する。スミスがスミスであるが故に、長距離走を走っているが故に、応援してはいない。あくまでも代替可能な存在として応援している。

 これがスミスには許せないのだ。誰かを応援するのであればその誰か自身を最終目的として応援するのが誠実であり、別の目的を得るための手段として応援するのは不誠実なのだと考えているのだ。

 スミスからすると「『オレのために応援』しているならオレがオレであるが故に応援してくれ。オレにも利益があるからといって『オレのために応援』しているなどと言わないでくれ。自分の利益が目的で応援しているのに『オレのために応援』だなんて偽善じゃないか」という訳である。

 このスミスの道具的存在として扱われることの拒否反応は現実世界でのプロポーズで考えるとよく理解できるだろう。

 結婚を考えている男性から「結婚しよう。俺と結婚すれば家計収入は保証するよ。君は生活するお金の心配をしてたから俺と結婚すると安心だよ。だから結婚しよう!俺も君がいると家のことをやってもらえるし」などとプロポーズされたら「はぁ?自分だけじゃなく私にもメリットがあるから結婚しようってわけ?私と結婚したいのは、私自身を愛しているからじゃないの?」と女性は百年の恋も醒めて男性をひっぱたいて破談にするだろう(※4)。男性はwin-win関係を押し出してプロポーズするのだが、プロポーズで道具的存在として扱われた女性は拒否反応を示さずにはいられない(とはいえ、現実世界では道具的関係として結婚生活をスタートする夫婦もいないではないし、スタートがそうであってもお互いがお互い自身ゆえに結びつく夫婦関係にならないとも断言できない)。

 上のプロポーズの例からも分かるように、個々人を道具的存在として扱うことにはある種の不当さが存在する。代替不可能な固有性を有する個々人に関し、そういった存在であることを忘却した関係には偽善が混入することは避けられない。そして他者を道具的存在として扱う大人に対して偽善を感じ、また個々人を道具的存在として扱うことで成立している社会の体制に拒否感を覚えて、大人や体制に反抗することは、ある意味で人間としての自然な感情である。それは愚者の所業と片付けてよい問題ではない。たしかに、スミスが言うように誠実さをもって個人に向き合うならば、個人は個人自身として扱われなければならない。道具的存在として扱われてはならない(※5)。

 だが、全ての人が全ての人に対して代替不可能な個人自身を目的として行動すること、あるいは、我々の社会がその全構成員に関して代替不可能な個人自身を目的とした制度を持つことは不可能である。現実という世界はそれを可能にする構造になっていない。それは家族や友人間などのごく限られたプライベートな人間関係にのみ可能な事態である。

 したがって、スミスは現実離れした理想を抱いているといえる。「他に替えが効く存在としてではなく、何か別の目的のための道具的存在としてではなく、オレをオレ自身として扱ってくれ」と赤の他人や社会に対して実現不可能な要求を押し付けている。そして、その要求が通らないことに怒り、スミスの理想が叶うことが原理的に不可能な構造を持った世界での社会体制やプライベートな関係を取り結んでいない赤の他人である大人に対してスミスは反抗しているのだ。つまり、世界が自分の理想通りなっていないことへの怒りがスミスの怒りであり、この種類の怒りは若者特有の怒りともいえる。

 とはいえ、社会が人間を道具的存在として扱うことは、現実問題として全ての人を道具的存在として扱わず、全ての個人を個人自身として扱うことが不可能であるがゆえの、やむにやまれぬ妥協である。叶うならば道具的存在としてではなく個々人を個人自身として扱わなければならないといえる。したがって、完全に理想が叶う事がないにしても、理想を目指して現実に抗うことに意味が無いわけでは決してないのだ。

 以上でみてきた「個人が道具的存在として扱われることへの反抗」こそが『長距離走者の孤独』のテーマである。


主人公の想いが強く出るクライマックス

クライマックスで主人公の想いが強く出てくる。だから映画を観ていた人は感動します。主人公のその想いに観客は胸を打たれます。

「物語の才能」再掲

 『長距離走者の孤独』のテーマをおさえた上でクライマックスシーンを見ていこう。

今や観覧席では紳士淑女連中が叫び、立ち上がって、「走れ! 走れ!」ときざな声でわめいてやがる。だが、おれは、目も見えず耳も聞こえずまるで阿呆みたいにその場に立ったきりだ。…赤んぼみたいにおいおい泣きながら立ちつくしていた。とうとう奴らをやっつけたことで、嬉し泣きに泣けてきたのだ。

『長距離走者の孤独』

 「観覧席では紳士淑女連中が叫び、立ち上がって、『走れ! 走れ!』ときざな声でわめいて」いることが、なぜ「とうとう奴らをやっつけたこと」になるのだろうか。それを考えよう。

 観覧席の紳士淑女連中は体制側の人間である。そして、非行少年が更生して長距離走の選手として陸上競技大会で優勝することは、彼らにとって「いまの体制が正しい事」を証明することになる。つまり、体制の正しさの証明手段として「スミスの優勝」がある。

 だからこそ、スミスはゴール手前で立ち止まる。トップで独走してきてゴールして優勝する、それをしない理由が体制への反抗以外に見当たらないようにして、立ち止まる。その行為で、自らが体制の正しさを証明する道具的存在に堕することを拒絶するのだ。つまり、彼を道具的存在として貶めようとする、有形無形の力に、ゴール手前で立ち尽くすことで勝利するのだ。

 そして、自分を道具的存在として貶めようとしてくることへの反抗の想いの強さこそが、ぶっちぎりでゴール手前までやってくることを可能にし、大観衆が「走れ!走れ!」と叫んでもスミスを立ち止まり続けさせ、赤ん坊のようにおいおい泣かせているのだ。

 このシーンは、先のプロポーズの譬え話で説明すれば、win-win関係を強調したプロポーズをしてきた男に対して、プロポーズを蹴ることで女性が損をしようがそんなことは全く関係なく、自分が道具的存在に貶められたことへの怒りを込めて、男を引っ叩いて破談にした女性の行為の痛快さと同様の痛快さがある。つまり、主人公のスミスが立ち止まってレースでの優勝を蹴った痛快さは、優勝してしまうことでスミスが道具的存在に堕することを蹴っ飛ばして欲しいという読者の願望が達成されたことで生じる痛快さである。

 『長距離走者の孤独』のクライマックスは、道具的存在に貶めようとする諸力に反抗するスミスの想いの強さとスミスの怒り、そして、その諸力に対するスミス自身の勝利、スミスの溢れ出る喜びと爽快感を描き出している。

 つまり、『長距離走者の孤独』のクライマックスでは主人公の想いと感情、そして主人公が為し得たことが描き出され、そのことで読者の願望を達成させ、読者を感動させるクライマックスとなっている。


■『ごんぎつね』のクライマックス

 これまで本稿で見てきたように、『ごんぎつね』のクライマックスで注目すべきは以下の三点である。

  1. 主人公の強い想いが出ている

  2. 登場人物と読者の感情がマッチする

  3. 読者の願望が達成される

 この三点が『ごんぎつね』のクライマックスにおいてしっかりと存在していることを確認していこう。では、『ごんぎつね』のクライマックスを引用する。

「ごん、お前だったのか。いつもくりをくれたのは。」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。
 兵十は、火なわじゅうをばたりと取り落としました。

『ごんぎつね』

 主人公ごんの強い想いが出ているのは、当然ながら「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました」の部分である。この箇所は、ごんのこれまでの行動の意図を兵十に伝達できたことについてのごんの胸中に関する部分として注目を集めやすいが、それだけでなく、ごんの兵十への想いの強さを示す箇所でもあるのだ。


主人公ごんの強い想い

 クライマックスの状況がごんの想いの強さの表れであることについて、理解しにくい向きもあるかもしれないので、そのことを現実世界における例で考えてみよう。

事故に遭って病院に担ぎ込まれた夫の枕元で「あぁ、アナタ、しっかり」と妻が涙声で呟いたとき、それまで意識が混濁していた夫が、薄目を開け微笑んだ。だが、それきり夫は亡くなった。

 このときの「薄目を開け微笑んだ」夫の動作から、夫の妻への深い想いが感じ取れないだろうか。自分への妻の呼びかけだからこそ夫は応答したのだ。自らにとって妻が大切な人でなければ、死にゆく夫がどうして応えようか。

 上記の例の夫と、クライマックスでのごんは同じである。

 ごんにとっての兵十は、単なるイタズラで迷惑を掛けた相手や単なるひとりぼっち同士などではなく、かけがえのない相手なのだ。そのことは「転」のパートをみれば分かる。

二人はそこに入っていきました。ポンポンポンポンと木魚の音がしています。まどのしょうじにあかりがさしていて、大きなぼうず頭がうつって動いていました。ごんは、「お念仏があるんだな。」と思いながら、井戸のそばにしゃがんでいました。しばらくすると、また三人ほど、人が連れ立って、吉兵衛の家に入っていきました。お経を読む声が聞こえてきました。
 ごんは、お念仏がすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。

『ごんぎつね』

 ごんは狐だからお念仏には当然ながら興味など無い。さらに、村のコミュニティの一員でもないので、村の一種の行事であるお念仏に参加する必要もごんには無い。だが、木魚の音やお経を読む声が聞こえ、障子に映った坊主のシルエットが見える井戸の傍にしゃがんで、お念仏にごんは参加するのだ。

 その理由は考えるまでもない。ごんは兵十と同じ時間を過ごしたかったのだ。たとえそれが一方的なものであっても、かけがえのない相手と同じ時間を過ごせることがごんの幸せなのだ。

 現実世界のアイドルのコンサートなどを考えればそれがよく分かる。

 アイドルの姿形、ダンス、歌声を見て聞くだけならTVやビデオで十分である。だが、ファンはアイドルのコンサートに参加したいと欲する。一時であってもよいので、アイドルと同じ場所で同じ時間を過ごしたいと願う。このとき、コンサートに参加したファンは、自分が居ることなどアイドルは認識しないことを知っている。それでもファンは幸せなのだ。たとえ相手が知らなくとも自分にとってかけがえのない相手と同じ時間を過ごせることが幸せなのだ。

 ごんも同じである。兵十が知らなくとも、それが一方通行のものであっても、兵十と同じ時間をごんは過ごそうとしたのだ。

 また別の場面をみよう。

兵十のかげほうしをふみふみいきました。

『ごんぎつね』

 戯れ以上の意味など何もない、なんとも無邪気なごんの行動だろうか。兵十が動き、それで影が動き、ごんがそれに合わせる。兵十が気付いていないのだから双方向性など一切ないのだが、兵十との交わりを如何にごんが楽しんでいるかが窺える。

 これも現実世界での例で考えるとよく分かる。

 通り過ぎる自動車の影を跳び越す遊びを下校中の小学生がしていることがある。実に楽し気に「来たぞ~!せぇの、ジャーンプ!」と歓声を上げるなどしている。つまり、通り過ぎる自動車にとっては下校中の小学生は通行人以上の意味が無いも関わらず、小学生にとって通り過ぎる自動車は無邪気な喜びを感じさせる存在なのだ。自動車の影が動いて小学生の足元を通り過ぎる、そんな交流ともいえない交わりが小学生に笑いすら伴う喜びを感じさせている。大人になってしまった我々にとって通り過ぎる自動車とその影は、単なる通り過ぎる自動車と影以上の意味を持たないが、下校中の小学生にとってはそうではないのだ。

 ごんもこの小学生と同じである。

 兵十の影が動き、それをごんが踏む。兵十にとっては何の意味もないごんの行動だ。しかし、それはごんにとっては何とも言えない愉快さを齎す行動である。また、ごんにとって兵十はそんな喜びを齎す存在なのだ。

 ごんにとって兵十は、たとえそれが一方通行のものであれ、かけがえのない相手なのだ。だからこそ、火縄銃で撃たれて死が迫り、もやは目を開けることも叶わなくなっているにもかかわらず、ごんは兵十の問いかけに頷くのだ。この箇所ではごんの兵十に対する思いの強さが如実にあらわれている。

 読者はごんの想いの強さを読み取らなければならない。


登場人物と読者の感情がマッチする

ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。
 兵十は、火なわじゅうをばたりと取り落としました。青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました。

『ごんぎつね』

 最初に注意をしておこう。この引用の「青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました。」の部分は『ごんぎつね』のクライマックスではなく『ごんぎつね』のラストシーンである。したがって、その作品における働きも厳密にはクライマックスとは異なる。ラストシーン一般がどのような働きをするか、そして『ごんぎつね』のラストシーンは何を意味しているかに関してはラストシーンを扱う章でまた後で見ていく。今回はラストシーンの要素の一部分である兵十の様子と感情だけを補助的に取り上げ、クライマックスと併せて見出しの件について述べる。

 クライマックス(とラストシーン)で描き出されているのは、ごんの想いおよび兵十の想いと感情である。ごんの想いについては先に見たので、ここでは兵十の想いについて述べよう。

 さて、兵十とごんの関わりについて、ごんとの応答前の兵十の主観での時間軸においては「ごんのうなぎの盗みのイタズラ」の時点から「家の中にごんが入った」まで飛ぶ。この間について接点はなかったとの認識で兵十はいた。だが、それは誤解だったのだと応答後の兵十は知る。しかも兵十自身は自分が気が付いていない何か(=アンノウン)が自分と関わっていることを自覚していた。本文で確認しよう。

「おれあ、このごろ、とても、ふしぎなことがあるんだ。」
「何が?」
「おっかあが死んでからは、だれだか知らんが、おれにくりや松たけなんかを、毎日、毎日くれるんだよ。」
「ふうん。だれが?」
「それが、わからんのだよ。おれの知らんうちに、置いていくんだ。」
 ごんは、二人の後をつけていきました。
「ほんとかい?」
「ほんとだとも。うそと思うなら、あした見に来いよ。そのくりを見せてやるよ。」

『ごんぎつね』

 兵十は、ごんを撃った当日、まさに「アンノウンとの関わり」を他者である加助と一緒に確認しようとしていた。つまり、アンノウンは彼の関心事であった。ごんとの応答によって「アンノウンはごんであった」と判明するのである。兵十の主観の時間軸におけるごんとの接点は急速に修正されると同時に、兵十は自己の不明を恥じるだろう。

 さらに、アンノウンの正体と意図は加助によって示唆されていたのだ。そして、アンノウンに対してどう感じるべきかもアドバイスされていた。本文を確認しよう。

「さっきの話は、きっと、そりゃあ、神さまのしわざだぞ。」
「えっ?」と、兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。
「おれは、あれからずっと考えていたが、どうも、そりゃ、人間じゃない、神さまだ、神さまが、お前がたった一人になったのをあわれに思わっしゃって、いろんなものをめぐんでくださるんだよ。」
「そうかなあ。」
「そうだとも。だから、毎日、神さまにお礼を言うがいいよ。」
「うん。」

『ごんぎつね』

 「どうも、そりゃ、人間じゃない」とアンノウンの正体が人間以外の何かであること、また、アンノウンのしわざは「お前がたった一人になった」から行われていることを加助は示唆する。そして、そのアンノウンにはお礼を言うべきであるとアドバイスするのだ。

 客観的にみてアンノウンがごんであると判断するに足る情報があったのかはさておき、兵十の主観において、アンノウンについて自分も関心を払っており、他者からもヒントがあったにもかかわらず、その可能性が頭の片隅にすらに浮かぶことなく、お礼を言うべきとアドバイスされた存在であるごんを、誤解のもと撃ち殺してしまうのだ。

 兵十が感じた衝撃と生じた後悔の念はいかばかりのものか。

 その衝撃と自らを責める想いの大きさは、以下の記述に表れる。

 兵十は、火なわじゅうをばたりと取り落としました。青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました。

『ごんぎつね』

 兵十は、衝撃の大きさだけから火縄銃を取り落としたのではない。取り返しのつかない結果を齎した火縄銃であるからこそ、もはや持ち続けることができずに取り落としたのだ。

 そして、その後の情景において動くものが銃口からの青い煙のみであるからこそ、ラストシーンの描写が「青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました」であるのだ。すなわち、兵十は火縄銃を拾うこともできず身じろぎ一つしていない。つまり、それほどの衝撃と自責の念が兵十を襲っているのだ。

 この兵十の様子は、まさしくごんが撃ち殺されてしまったことで感じる読者の衝撃とリンクし、そして兵十の後悔に感情移入する。

 この登場人物との感情の共有によって、『ごんぎつね』のクライマックスは読者の胸を打つことに成功するのだ。


読者の願望が達成される

「ごん、お前だったのか。いつもくりをくれたのは。」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。

『ごんぎつね』

 クライマックスにおいる事態「兵十が問いかけ、ごんが答えた」によって、読者の願望が達成されている。兵十にごんの意図等が伝わることによって読者の願望の達成によって読者に深い満足感を与える。前記事でみた面白さの原理が働くメカニズムである。

 『ごんぎつね』のテーマなどが関わるため、詳細についてはまた後の章で扱う。


さいごに

 各作品におけるクライマックスを見てきた。どの作品もクライマックスによってストーリーが収束されていく。そのなかで、読者の願望が達成される、感動のメカニズムが働く等の様々な作用が現れる。今回は主に、クライマックスにおける感動のメカニズムの中核となる、「登場人物の想い」に着目した。

 もちろん、読者の願望が達成や作品のテーマなどにも触れたのだが、それらはクライマックスを扱う以上避けられないためである。とはいえ、作品によっては解説の重点が逆転していると筆者自身が感じられるものもある。偏に筆者の力不足ゆえである。当記事の読者にはそのような瑕疵には目をつぶっていただいて、クライマックスにおける「登場人物の想い」に着目していただけると幸いである。


※0 「『ごんぎつね』の技法分析(0)」での断り書きの通り、この「『ごんぎつね』の技法分析」シリーズは、ヒロなんとか氏の「物語の才能;面白いストーリーの作り方」で示された枠組みに従って『ごんぎつね』およびその他の作品の技法分析を行うものである。したがって、根本的な枠組みの一切はヒロなんとか氏のアイディアである。当記事も例外でななくヒロなんとか氏の肩の上に乗って技法分析を行っている。そのことを改めて断っておく。またヒロなんとか「物語の才能;面白いストーリーの作り方」は以下。


※1 登場人物すべてが反社会的人物で悪辣な行動しかしない悪徳世界を舞台とする作品もある。有名なものは、マルキ・ド・サド『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』だろう。サドの作品は常軌を逸した性的描写があるため異常な性癖を著した官能小説と捉えれれる向きもあるが、それは一面的な見方で、意外なことにある種の思想性も持った作品である。例えば、主人公ジュリエットに対して女性の登場人物が

「ジュリエット、あなたは快楽ゆえに悪を行っているわ。そうじゃなくて、それが悪であるがゆえに悪を行わなければいけないわ」

といった類のことを言っている(ただし私の記憶に基づく。この作品にもう一度目を通して該当箇所を確認するだけの気力は私には無い。かつて読んだときも性的興奮などよりも苦痛が遥かに大きかった記憶がある。私が未視聴の『ソウ』『ホステル』といった映画の存在からあの手の作品を興味深く鑑賞することができる人もいるのだろうが私には無理だ)。

実はこれはカントの道徳哲学の定言命法(「命法」とは道徳上の命令のこと)の裏返しのような主張なのだ。

もし行為が何か別の或るものを得るための手段としてのみ善であるなるならば、その場合の命法は仮言的である。また行為が、それ自体として善であり、したがってそれ自体が理性に従うような意思、つまり理性を自分の原理とする意思において必然的と考えられるならば、その場合の命法は定言的である

カント『実践理性批判』

『悪徳の栄え』の主人公ジュリエットは快楽を得るために悪を行っているので、言わば「仮言命法の悪」を行っていることになる。それゆえ、件の登場人物は、それが悪であるがゆえに悪を行えと「定言命法の悪」を行うように推奨するのだ。

かつて『悪徳の栄え』の該当箇所を読んだとき、「コイツは何を言っているんだろう?快楽の為に悪を行うことは百歩譲って理解できなくもない。だが、なぜ悪のために悪を行うのだ?無意味すぎる!訳が分からない」と強く感じた。そしてそのとき「そうか!ここか!この箇所がカントとサドが逆方向を向いた思想的双子と言われる根拠となった箇所か!」と理解し、その瞬間が同時にカントの道徳哲学に潜む不気味さに気づいた瞬間だった。

カントの道徳哲学だけを学ぶと「それが善であるがゆえに善を行いなさい」との言葉に違和感を抱くことは非常に難しい。この言葉に説明が必要だとも感じない。どこに問題があるのかすら分からない。

しかし、カントの道徳哲学の善悪をひっくり返したサドの作品の登場人物の「それが悪であるがゆえに悪を行いなさい」には強烈な違和感を抱く。

単に「善」と「悪」を入れ替えただけで発生する違和感とは何なのか、なぜ「善」の時には違和感を抱けなかったのか、この道徳感覚の構造はどうなっているのか等、様々な哲学的な問いの存在に感覚として気付く契機となったのが、マルキ・ド・サドの『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』だった(因みにこの辺りの問題はメタ倫理の問題とその感覚の問題)。とはいえ、私は二度とこの本を開きたくはない。


※2 ゲルマンが最後に賭けたカードについていくつかの解釈がある。

  1. 死んだ老伯爵夫人のオカルティックな力によって「1:トゥズ」が「女王:ダーマ」に文言通り変化した(あるいは老伯爵夫人の亡霊がゲルマンの目にだけダーマがトゥズであるように見せかけた)

  2. 良心の呵責に耐えかねて幻影を見てしまうような精神状態にゲルマンがなったことで「女王:ダーマ」を「1:トゥズ」に見間違えた

  3. ゲルマンの内面の抑圧された殺人への罪の意識の物象化というオカルティックな現象が起きて「1:トゥズ」が「女王:ダーマ」に変化した

解釈1だと、ゲルマンはナポレオン主義の体現者なのだが、老伯爵夫人の亡霊にしてやられて破滅することになる。つまり、シェークスピア『マクベス』において魔女に騙される主人公マクベスと同じ立場である。

解釈2と3は、オカルティックな力が働くか働かないかの違いがあるが、結局のところ、ゲルマンが「ナポレオン主義者=超人」として不完全だったから破滅してしまったのだという解釈だ。ゲルマンが真に超人であったなら、小動もせず「1:トゥズ」の札に賭け、そのまま「1:トゥズ」の札で勝ち切っただろう。つまり、解釈2と3のゲルマンはドストエフスキー『罪と罰』における主人公ラスコーリニコフと同様に、超人になれないのに超人となろうとして失敗した人間なのだ、と言える。この解釈においては、偉大なチャンスが転がっていようと大抵の人間は超人となれないため活かしきれず逆に破滅し、少数の真の超人だけが偉大なチャンスを活かして偉大な存在になるのだ、という含意があるように私には思われる。


※3 「『野菊の墓』でそんなに泣けるのは男性だけ、女性にとってはそこまでの作品じゃない」との声もある。そして初恋へのロマンティックな感情は女性よりも男性の方が強いせいで男性読者は『野菊の墓』を傑作と感じるだとの見解をしたり顔で述べる人もいる。だが、『野菊の墓』のクライマックスで喚起される感情の強度に男女差があるのであれば、それは単に主人公が男であるために男性読者の方がより強く主人公の感情に同調するだけではないかとの印象を私は持っている。そして、この辺りの事情は恋愛小説全般に言えるように感じられる。男性作家の作品の男性登場人物の恋愛感情には男性読者は同調し易く、それに比較すると女性読者は同調しにくい印象があり、逆に女性作家の作品の女性登場人物の恋愛感情には女性読者は同調し易く、それに比較すると男性読者は同調しにくい印象がある。更に言えば、男性作家の作品の女性登場人物の恋愛感情について女性読者は嘘臭さを感じる部分もあるだろう。逆に女性作家の作品の男性登場人物の恋愛感情に嘘臭さを感じることもある。私自身の例でいえば、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』のヒースクリフの愛憎に関して微量の嘘臭さを感じる。勿論、『嵐が丘』が傑作であることには変わりはないのだが。


※4 このプロポーズの基となる考えは当然ながら性的役割分業のジェンダーバイアスがかかった時代遅れの考えである。しかし、人生のパートナーを道具的存在として扱うことの不当さを示すために、便宜性からジェンダーバイアスを含んだ言葉にした。「二人で生活することにすると色々楽になるよ」といったジェンダーニュートラルな言葉も考えたのだが、言葉の発信者と受信者で別個のメリットが生じる状況を示す意図があったため、やむを得ず本文中の言葉を選択した。


※5 『長距離走者の孤独』において、二種類の誠実が登場する。一つが本文で述べた「スミスが言うように誠実さをもって個人に向き合うならば、個人は個人自身として扱われなければならない。道具的存在として扱われてはならない」という個人を個人自身として扱う誠実さである。もう一つの誠実さが感化院の院長のいう体制側の誠実さである。この誠実さとは、「相手にメリットがあるから奨める」というタイプの誠実さである。逆に言えば「相手が損をする場合は奨めない」という態度である。主人公と対立している側の考えは、主人公側の考えの正しさが示されると、ついつい間違った考えのように感じられることがある。だが、主人公側と対立側の考えについて背反的関係にあるとは限らない。『長距離走者の孤独』における体制側の誠実さもまた一つの誠実さの形である。このことは現実世界におけるセールスマンの態度を想像してみるとよく分かる。「客にとって損であるのに商品を奨めてくるセールスマン」は不誠実なセールスマンと我々は評する。一方、「客にとって利益が或る商品を奨めてくるセールスマン」は誠実なセールスマンと評する。つまり、「相手にメリットがあるから奨める」という体制側の誠実さもまた、スミスのいう誠実さとは異なるが、我々は誠実さの一つの形と認めているのだ。


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