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「内心の自由」が理解されていない?!

 最近、X(旧Twitter)界隈で性的嗜好に関する内心の自由を巡る論争があった。まぁ、論争というよりも内心の自由を理解していない人に対して「あなたの主張は内心の自由を侵害するものだよ」と教え諭す遣り取りだったわけだが、結構な人数の人間が内心の自由を侵害する主張に賛同する側に立った。自由侵害賛同側の主張には、思想警察を是とする主張だけでなく、内心の自由を表現の自由や行動の自由と混同する主張が数多く見られた。

 今回のnote記事ではなぜ思想警察がダメなのかについて論じていこうと思う。


■なぜ内心で罰してはダメなのか

 ジョージ・オーウェル『1984』を古典とする様々なディストピア作品で、内心の自由を侵害する社会体制が如何に醜悪な社会体制になるか散々に表現されてきた。文学作品だけでなく現実の過去の人類の歴史を紐解けば、内心の自由の侵害を許す体制が望ましくない体制であることは明らかだ。日本の例で考えても、治安維持法下の特高警察がどうであったかを調べれば、内心の自由に制限を加える体制を「あるべき社会体制」と見做すことは到底できないだろう。

 なぜ内心の自由を制限する社会体制が醜悪な社会体制になるかを一言でいえば、「人間はそんなに強くない」からである。手続的正義を満たさないで実体的正義を実行し続けることが可能な程には人間は強くない。手続的正義を満たさない正義は容易に暴走し、また腐敗する。現実にそうなってしまう事例として日本赤軍が仲間を処刑していったあさま山荘事件を想起すれば十分だろう。

 そして「内心でなぜ罰してはいけないのか」は結局のところ、手続的正義を満たすことが不可能であるであるから禁忌となっているのである。内心に存在する思想で刑罰を科す体制は、それを空文化するのでなければ、当人以外に確認不可能な内心に存在する思想によって刑罰を科さなければならない。しかし、思想違反の嫌疑がかけられたとき本当に違反したかどうかは当人にしか分からない。更に言えば「冤罪だ!」と当人が主張してもそれが正しいか否かも他者からは判断不可能だ。したがって、実際に刑罰が科されたとき、それが正当なのか不当なのか客観的には検証不可能である。それゆえ、内心で罰することは手続的正義を満たすことはできないのだ。


■内心だけからの処罰は生殺与奪のフリーハンド

 騒動の大元の自由侵害賛同側の中心人物の二人は、Bad Boy系であることをウリにして支持を集めている人間である。今回の騒動は失敗したものの、いわば「不良が周囲から嫌悪されている人間をぶん殴って拍手喝采」という紋切り型の絵を描いて、そのパフォーマンスで支持を集めようとしたのであり、ええかっこしい(=虚栄心)が動機だろう。そういった些か軽はずみな意見に対して「そうだそうだ!危ない性的嗜好の奴らは排除しなきゃ!」といった賛同の声が見られる。

 ここで注意が必要なのだが、実際に犯罪行為に及んで性的嗜好を満たした人間を処罰することと、実際には何もしていない危ない性的嗜好を持つ人間を処罰することは異なる処罰行為である。つまり、犯罪者を処罰することと、犯罪の虞のある人間を処罰することは全く異なるのだ。

 危ない性的嗜好を持つが故に処罰し得る社会は、前節で論じたものと同様の、内心だけから処罰する社会なのだ。そして、社会が内心だけを理由に人間を排除し得る体制となったとき、やがて邪魔者と感じた人間を意の赴くまま排除する権限を権力者に与えることとなる。なぜなら、権力者が邪魔者と感じた人間に対する「コイツは社会から排除されるべき内心を有している!」との告発に対して、被告側は自分が社会から排除される内心を抱いていないことを客観的に示すことが原理的にできないからだ。

 つまり、性的嗜好だけから処罰する社会は、社会の構成員に対する生殺与奪のフリーハンドをやがて権力者に与えるような社会なのだ。


■ドラえもんのひみつ道具「どくさいスイッチ」

 内心だけで処罰する社会体制に変わることは、マンガ『ドラえもん』に登場する、スイッチ一つで邪魔者を消し去る、ひみつ道具「どくさいスイッチ」を権力者に与えるようなものなのだ。実際、『ドラえもん』の「どくさいスイッチ」の回は、気に入らないものを排除する社会の危険性をテーマにした文学的作品である。

 マンガ『ドラえもん』の「どくさいスイッチ」の回を見る事で、この問題を考察してみよう。以下はのび太にドラえもんが問題解決のためのひみつ道具として"どくさいスイッチ”があると提示する一コマである。

 実に象徴的だが「すみごこちのいい世界」を実現する手段としてどくさいスイッチは提示される。つまり、楽園を目指す意思から用いる手段として、どくさいスイッチは提示されるのだ。

 しかし、楽園を目指す目的から使用される手段であるどくさいスイッチは地獄を創り出してしまう。なぜそのようなことが起こるのか、その構造を示したものが次のコマである。

 つまり、どくさいスイッチは注意も熟慮もそして大した手間やコストも必要とせず簡単に使用することができる。換言すると使用に関するハードルが非常に低いのだ。そして、使用に関するハードルが低い手段はどくさいスイッチに限らず濫用され易い。重大な結果を齎すにも拘わらず、濫用され易いのがどくさいスイッチなのだ。それゆえ、どくさいスイッチは地獄を創り出してしまうことになる。

 最終的にどくさいスイッチによって創り出されてしまった、のび太以外に誰も居ないという地獄で、のび太は嘆くことになる。そんなのび太に対して(消えていたはずの)ドラえもんが説教するシーンが以下である。

 快不快によってキャンセルしていくとやがて社会が崩壊してしまうのだとドラえもんは説教するのだが、何やらキャンセルカルチャーが吹き荒れる昨今の世情を暗示するかのようなシーンである。

 実はどくさいスイッチは一切を元に戻す機能が有り、作中でものび太がジャイアンを消してしまう前の状態にリセットされる。そして、後日談のラストシーンがあるのだが、このラストシーンにも含蓄がある。ラストシーンにおいて、のび太はジャイアンとスネ夫から罵声を浴びせ掛けられる。しかし、リセット前の誰も居ない地獄を味わったのび太は、むしろ彼らの罵声に対して「まわりがうるさいってことは、楽しいね。」と快く感じるのだ。

 罵声を快く感じるのび太の感覚はリセット前に地獄を味わったからこそのものだ。もしも、どくさいスイッチによる地獄を味わっていないならば、ジャイアンとスネ夫の罵声によってのび太は不快になったであろうことは疑い得ない。つまり、ジャイアンやスネ夫から不快が齎される社会であっても"どくさいスイッチ”によって齎される社会よりはマシなのだ。

 したがって、ラストシーンから読み取るべきことは「他者をキャンセルしない社会は多かれ少なかれ薄っすらとした不快を我慢し合う社会であり、それは快不快により他者をキャンセルする社会よりもマシな社会なのだ」ということなのだ。


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