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男が不幸なのは生物学的性差で女が不幸なのは社会学的性差?

■社会問題に対する認識の2つのスタート地点

 私は「原則的に幸福に係る社会的問題の男女差は社会学的性差に起因する」という姿勢を取っている。このとき「女性が不幸になっている」「男性が不幸になっている」「女性が幸福になっている」「男性が幸福になっている」いずれのケースであるかを問わない。幸不幸になっているのが男女いずれであっても結果としての男女差の原因は社会学的性差にある、という仮定で思考をスタートさせる。すなわち、生物学的性差は例外的なケースと考えるのだ。

 だが、私とは逆のスタンスを取る人を否定するわけではない。つまり、「原則的に幸福に係る社会的問題の男女差は生物学的性差に起因し、社会学的性差に起因するのは例外である」という姿勢を取る人が居ても構わない。このとき、思考の対象の性別が変わってもその姿勢を変えず、確かな根拠からその主張をするのであれば、十分に議論相手として尊敬できる。

 それというのも、実際の社会において男女差が生じている社会問題は社会学的性差だけではなく生物学的性差にも起因するだろうからだ。

 したがって、自分とは反対側に誠実な議論相手が居るというのは言説世界においては有益なのだ。どちらの立場の論者であっても自分の陣営の言説に対するチェックはどうしても甘くなってしまう。所謂、確証バイアスというものである。しかし、反対側陣営は当然ながら自分の陣営側の確証バイアスは共有しないし、逆に自分の陣営側は反対側陣営の確証バイアスを共有しない。したがって、両者の議論を通してお互いの見解が修正されていき、より良い見解が形成されていくことが期待できるのだ。

 それゆえ、問題を捉えるスタート地点として、社会学的性差からスタートするのか生物学的性差からスタートするかの違いはあっても究極的には行き着くところは同じなので、どちらからスタートしようが構わないとさえいえるのだ。

 もっとも、"ジェンダー"というものに関心が集まっている現在の世の中において、男女差が生じている社会問題を取り上げたとき、生殖器官を典型とする内臓器官や筋力あるいは骨格等の明確な肉体的な差による明確な影響がある場合を除いて、その社会問題における男女差が生物学的性差に(原則的に)起因するとする側は、世の中の風潮に対して逆張りするスタンスといえる。

 したがって、この逆張りスタンスを取るとき、(一般的な通念に逆らわない)順張りスタンスとは異なって一般的な通念にも反論しなければならないのである。更に言えば、この逆張りスタンスを取る論者は現在の社会の風潮の中でかなりリスキーな立場にある。それというのも、このスタンスを突き詰めると生物学的宿命論になるので、慎重に議論しなければ容易に差別主義者と判断されてしまうからである。

 しかし、この立場は「男性が女性よりも劣位にある場合は生物としての男性特質あるいは女性特質によるのであり、逆に、女性が男性よりも劣位にある場合も生物としての女性特質あるいは男性特質による」というものであるから、一概には性差別主義(=セクシズム)とはならない。なぜなら、認識のスタート地点において「男女いずれか一方のみに対する固定的な優位性」を前提にしないからである。

 このことに関して具体的に考察してみよう。

 さて、フェミニズムがより強硬な正義として主張される先進各国において、高等教育就学率に関して女性が男性を上回る状態になっている国が多い(具体例としてスウェーデンを挙げる)。一方、日本に関しては男性が女性を上回っている。さて、このときの「結果としての男女差は原則的に社会学的性差に基づくと考える」というスタンス(以降、社会学的性差側と称す)に基づく見解と「結果としての男女差は原則的に生物学的性差に基づくと考える」というスタンス(以降、生物学的性差側と称す)に基づく見解の違いを示してみる。

社会学的性差側の見解:
 生物的には能力に男女差が無い(と考える)ため、高等教育就学率の男女比は50:50でなければならない。しかし、高等教育就学率に関して、スウェーデンは女性側が優位にあり男性が劣位にある。また日本では逆に、男性側が優位にあり、女性側が劣位にある。したがって、スウェーデン社会は高等教育就学に関して男性差別的社会であり、日本社会は高等教育就学に関して女性差別的社会にある

生物学的性差側の見解:
 生物的には能力に男女差がある(と考える)ため、高等教育就学率の男女比は50:50になるとは限らない。高等教育就学率に関して、スウェーデンは女性側が優位にあり男性が劣位にある。また日本では逆に、男性側が優位にあり、女性側が劣位にある。

 このとき、高等教育就学に関して生物的に男性が勝っている場合には、スウェーデン社会は著しい男性差別社会であり、日本社会はスウェーデン社会と比較すればそのようなことはない。

 あるいは逆に、高等教育就学に関して生物的に女性が勝っている場合には、日本社会は著しい女性差別社会であり、スウェーデン社会は日本社会と比較すればそのようなことはない。

 さらには、高等教育就学に関して生物的に男女差がない場合には、社会学的性差側の見解と同様になる

 上の二つの見解を比較してすぐに次のことが見て取れるだろう。

 社会学的性差側の見解は結果としての社会の状態を見れば「男性差別or女性差別」がスパっと判断できる。一方、生物学的性差側の見解は結果としての社会の状態だけを見てもその社会の状態が「男性差別or女性差別」であるとは判断できない。

 言ってみればこうなるのは当然で、社会学的性差側は男女の能力を50:50と仮定するため、結果としての男女差に関して社会学的性差の影響だけを想定すればよい。一方、生物学的性差側はそんな仮定を置かない。また「結果としての男女差」が二つの社会で逆になっているため、それぞれの社会における結果としての男女差は生物学的性差が反映した結果なのだと単純に見なすことが出来ない。それゆえ、社会学的性差も考慮に入れないといけない、という状況になっている。

 つまり、複数の社会の現状に関して、男性優勢・女性優勢といった形で結果がマチマチであるとき生物学的性差に関してどちらが優位にあるかに関して、生物学的性差側は予断を持つことができないのである。

 ここでの生物学的性差側の立場のポイントは「天下り的に一方の性別側が生物学的に優位にあるとは考えない」という点にある。したがって、生物学的性差側は男女いずれかを一方的に優れているとの前提をおく立場ではないのだ。つまり、セクシズムとは異なる立場と言えるのだ。


■スタート地点を性別でコロコロ変えるのはセクシズムの始まり

 一方で、「男性が不幸なのは生物学的な宿命。でも女性が不幸なのは社会のせい」という思考をするご都合主義のフェミニスト連中は、生物学的宿命論者とは異なって差別主義者である。

 だが、タチの悪いことにフェミニストは、先に私がnote記事で批判したUNWomen(国連女性機関)が出したヘンテコなベン図に象徴されるように反差別主義者を僭称することが多く、また世間一般もフェミニストの僭称に騙されている。多くの場合、フェミニズムに傾倒する程、性差別主義者(セクシスト)になっている。

 ご都合主義フェミニストの「男性が不幸な状態となる社会問題は生物学的性差に起因する一方、女性が不幸な状態になる社会問題は社会学的性差に起因する」とする思考枠組みが、セクシズムとして典型的に現れるのが高等教育就学率の男女差に関するご都合主義フェミニストの主張である。

 高等教育に関するご都合主義フェミニストの主張を考察することで、生物学的性差宿命論者とは一線を画して、ご都合主義フェミニストがセクシストであることを見ていこう。

 さて、高等教育就学率の男女差に対してご都合主義フェミニストの考え方を適用してみる場合に、具体的な国名を入れるとイメージに引っ張られて構造を理解しない人間も出てくるので、抽象的な国名にかえて、A国,B国,C国という形で考察していこう。

A国:高等教育就学率の男女差は男性劣位の結果
B国:高等教育就学率の男女差は無く同等の結果
C国:高等教育就学率の男女差は女性劣位の結果

 ご都合主義フェミニストの枠組みによれば「A国の結果は、生物学的劣位がそのまま反映されているから男性劣位な結果なのであり、B国は社会的性差のため男女が同等の結果になり、C国の結果は社会的性差のため女性劣位の結果になっている」という見解になる。すなわち、「男性は生物学的に劣位にあるから、下駄がなくなったA国では高等教育就学率に関して男性劣位の結果になり、男性への下駄がまだまだ残存しているB国ではそのせいで男女が同等になり、男性への著しい下駄が存在しているC国では女性劣位の結果になるのだ」という、上野千鶴子氏あたりが賢しらに主張する見解となるのだ。

 だが、このご都合主義フェミニストの見解に対して、

生物学的な優劣は何を持って判断したんだ?

という疑問が湧き出てくる。高等教育就学率の結果としての男女差でみれば優劣はバラけている。ならば、その社会における結果としての男女差を観察しただけでは生物学的な優劣は当然ながら判断できない。このことは、ご都合主義フェミニストの主張に関してミラーリング(=男女を入れ替えて考えること)してみれは容易に理解できる。以下に示してみよう。

女性は生物学的に劣位にあるから、女性への下駄がないC国では高等教育就学率に関して女性劣位の結果になり、女性への下駄が存在しているB国では男女が同等になり、女性への著しい下駄が存在しているA国では男性劣位の結果になるのだ

ご都合主義フェミニストの見解をミラーリングした(=男女を入れ替えてみた)もの

 上記は先ほど述べたように著名フェミニストがしばしば持ち出す主張の男女を入れ替えたものだ。同型の構造をもつ男女を入れ替えた主張は「東大名誉教授あるいは○○大学ジェンダー論講座担当の教授の主張」といったような権威が存在しないため、権威論証と呼ばれるタイプの詭弁は働かない。

 するとどうだろう、このミラーリングした主張は時代錯誤の男尊女卑的認識枠組みを前提とした主張にしか感じられない。つまり、「女性は生物学的に劣位にあるから、下駄がないC国では高等教育就学率に関して女性劣位の結果になる」といった主張がもつセクシズムが明確になるのだ。

これは取りも直さず、同型の主張にはセクシズムが隠れていたことを示すのだ。

 上のご都合主義フェミニストの見解の構造の話は、高等教育就学率の男女差についての見解の構造だけの話ではない。どんな分野の社会問題に対しても「男性が不幸な状態となる社会問題は生物学的性差に起因する一方、女性が不幸な状態になる社会問題は社会学的性差に起因する」との枠組みで思考するならば、必ず男性を生物的に劣位な存在と判断することになるのだ(もちろん、ミラーリングした内容からも窺えるように同様の構造において男女を逆にすれば、必ず女性を生物的に劣位な存在と判断することになる)。すなわち、このご都合主義フェミニストの枠組みは全ての分野において男性を生物的に劣った存在と見做すセクシズムの枠組みに他ならない。

 ご都合主義フェミニストの自己認識としては「私は性差別を許さない人間である」としているかもしれないが、現実社会における男女差のある社会問題に関して、結果としての男女差が何に起因するかに関する認識のスタート地点を優位劣位にあるのが男女いずれであるかでコロコロ変えているならば、そのご都合主義フェミニストの見解は必ずセクシズムを内包しているのである




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