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マルクス主義フェミニズム理論についての理解と批判

 以下の前回記事で、マルクス理論の「資本の一般的定式G-W-G'図式」の理解と批判を行った。とはいえ、G-W-G'図式(とその歪み)の理解に繋がる説明に成功してはいない。迂回して説明しないといけない段階を一つ飛ばしたために、最後の詰めの段階でマルクス理論による経済現象の捉え方を上手く説明できず、標準的経済学による捉え方――マルクス理論はマルクス=レオンチェフ型生産関数という特定の生産関数の想定の下で成り立つ――を示唆してマルクス理論が一般的に成り立つものではないとの批判の形になった。しかし、そのような形ではマルクス理論理解に関しても尻切れトンボになり、マルクス主義フェミニズムの理解にも繋がらない。

 マルクス主義フェミニズム批判の為の一連の記事を書こうとする前に大まかな章立てをつくり、それに沿って(前回の)記事を書いていたのだが、当初の章立てでは後ろにおいていた章を、資本の一般的定式G-W-G'図式の解説の章の前に置かないと、マルクス理論による筋立てでの「利潤が生じる」という経済現象の説明が出来なかったのだ。

 当初の章立てで後ろに置いていた章は「労働力の再生産」に関する章である。この章はマルクス主義フェミニズムと直接的に関係してくる章なので、「標準的マルクス理論での労働力の再生産」と「マルクス主義フェミニズムでの労働力の再生産」を対比させるために後ろに回していたのだ。

 しかし、よくよく考えてみるとマルクス理論は「労働者を搾取することで利潤が生じる」とする思考枠組みを持っているので、先に「労働力という商品」のマルクス理論での考え方の解説を、資本の一般定式G-W-G'図式の説明の前に持ってくるべきだったのだ。

 そこで、今回の記事ではマルクス理論での筋道で利潤(=剰余価値)が発生するメカニズムが理解できるよう、前回記事の必要な部分をダイジェストで振り返りつつ、労働力という商品のマルクス理論での解説の章を「G-W-G'図式」の前において、資本の一般定式G-W-G'図式とその思考の歪みを説明することにしよう。



■マルクス理論における重要な前提

 マルクス理論を理解するにあたって、理論の前提となる命題を確認しておこう。

【マルクス理論の前提】
「商品の使用価値は所有者・場所・状況が変化しても一定である」

 因みに、このマルクス理論の前提となる命題が、限界(=マージナル)概念が理論の根本原理にある標準的ミクロ経済学の枠組みにおいて、マルクス理論による経済現象の説明が根本的に受け入れられない原因である。標準的ミクロ経済学の視点から見ると、マルクス理論における使用価値に当たるものは、主体によって変化し、また投入量や消費量によって変化し、他の商品(ミクロ経済学では一般的に"財あるいは生産要素"と表現する)との組み合わせでも変化する。つまり、「使用価値は変化しないものなんですよ」というマルクス理論の前提は、標準的経済学の立場からは「それは一般的に言える事じゃないよね」となる。

 ただし、マルクス理論においては、商品の使用価値は商品自体にのみ属する価値なので、使用者(消費者)や使用される状況には左右されない価値と考える。つまり、商品固有のものなのだから変化する方がオカシイ、という訳だ。まぁ、その考え方自体は分からなくもない。

 例えば「水」という商品を考えたとき、H2Oの物質的性質は利用者毎の差などなく、また生体への作用等を考えても差異はない。それらはH2O自体に属している性質だ。つまり、H2Oの物質的性質や生体への作用等は所有者や状況によっては変化しない。だから水という商品の使用価値は変化しないのだという訳だ。

 しかしここで考えて欲しいのだが、砂漠で遭難しているときの水筒の中の500mlの水も、街中でのペットボトルの500mlの水も先に挙げた水自体の物質的性質や生体への作用は変わらない。それゆえ「じゃあ、砂漠での水も街中の水も使用価値は変わらないよね」となるのか、という話である。ちょっと想像すれば明らかだが、砂漠での水の方がありがたく感じる。到底、飲み干すときの価値が街中での水と砂漠での水が等しい価値であるとは感じられない。

 標準的経済学だけでなく、一般的な感覚からも「使用する価値が状況や利用者の違いに関わらず変化がないなんて、そんな訳ないだろ!」と感じると思うのだが、マルクス理論が考える商品の使用価値はそうなっている。ここにマルクス理論の歪みがあるのだが、今回の記事ではその歪みについて述べることは割愛しよう。

 さて、標準的経済学からの評価はともかく、マルクス理論においては「商品の使用価値は一定」という前提で理論が組み立てられていることを、マルクス理論およびマルクス理論の派生理論であるマルクス主義フェミニズムを理解するにあたっては、シッカリと押さえておく必要がある。


■資本の一般定式G-W-G'図式およびマルクス主義フェミニズムを理解するにあたってのステップ

 前回記事の章立てとほぼ変わらないのだが、冒頭で述べた通り資本の一般定式G-W-G'図式の説明の前に、「労働力の再生産の図式としてのG-W-G図式」が途中で挿入されている。その点には注意が必要だ。

 では、本稿の流れを説明しておこう。

  1. W-W図式:物々交換のときに働いている構造

  2. W-G-W図式:貨幣に仲介される取引の構造

  3. G-W-G図式:購入額は売却額と等価という構造

  4. G-W-W-G図式:労働力の再生産の図式

  5. G-W -W'-G'図式:マルクス理論による剰余価値の発生の理屈

  6. (G+Gs)-(W+S)-W'-(G+Gs)-W'-W'-G'図式:マルクス主義フェミニズムによる無償の家事労働の使用価値の搾取と剰余価値の発生メカニズム

 さて上記の1~3の内容については前回記事で見た内容と大差ないものとなる。とはいえ、前回のものよりもスッキリと「ステップ6」まで到達できるように、枝葉末節に当たる部分を削っている。


■1.W-W図式:物々交換の図式

 「W-W図式」は見出しにある通り物々交換の図式である。前回記事のスルメ事例で示した「スルメを持つA氏とリンゴを持つB氏が、それぞれスルメとリンゴを物々交換した」という関係の図式である。このときのW-W図式の「W-W」が何を意味しているかについての解釈は、スルメに注目する解釈(リンゴでも同様)と、A氏に注目する解釈(B氏でも同様)の二通りある。つまり、

  • 解釈[1.1a]:W(所有権移転前のA氏のスルメ)-W(同移転後のB氏のスルメ)

  • 解釈[1.2a]:W(所有権移転前のA氏のスルメ)-W(同移転後のA氏のリンゴ)

 ではそれそれの解釈のもとでの使用価値について考えよう。使用価値は前回の記事でも説明したように、マルクス理論の用語で「その商品を使用したときに生じる(であろう)価値」である。つまり、上のスルメで考えるならば、スルメを食べたときの美味しさや栄養などがスルメの使用価値である。

 上の解釈[1.1a][1.2a]はスルメやリンゴといったモノ=商品に注目した解釈である。ここで、商品ではなく商品の使用価値に注目した解釈を考えよう。

  • 解釈[1.1b]:W(A氏のスルメの使用価値)-W(B氏のスルメの使用価値)

  • 解釈[1.2b]:W(A氏のスルメの使用価値)-W(A氏のリンゴの使用価値)

 さて、この使用価値に注目する解釈で、各使用価値がどのような関係にあるかを見ていこう。その際に、思い出しておくことが先述のマルクス理論の前提である。

【マルクス理論の前提】
商品の使用価値は所有者・場所・状況が変化しても一定である

 上記のマルクス理論の前提から、解釈[1.1b]に関して以下のことが言える。

「A氏のスルメの使用価値とB氏のスルメの使用価値は等価である」

 では、次に解釈[1.2b]を考えていくのだが、このとき以下の交換の原則が自発的な交換においては成り立つことをおさえておく必要がある(註1)。

【交換の原則】
交換する者にとって、交換しようとする商品の使用価値が保有している商品の使用価値を上回るか、少なくとも等価でないと交換しようとはしない。それはお互いにそうであるので、等価交換だけが成立する

 解釈[1.1b]から「交換前も交換後もスルメとリンゴの使用価値に変化が無い」となる。また、等価交換しか成立しない交換が成立した以上、次のことが言える。

「A氏が交換前に所有していたスルメと交換後に所有するリンゴの使用価値は等価である。また、B氏についても同様」

 このW-W図式の関係は、マルクス理論の「労働力の再生産」を考える際に、当節のスルメ事例では二個の主体に分かれていた主体が、労働者という一個の人間の中に存在する二つの側面という形で現れることになるので、覚えておいておいて欲しい。


■2.W-G-W図式:貨幣に仲介される取引の構造

 W-G-W図式は、W-W図式の間に「G:貨幣あるいは交換価値」が挟まる図式である。この図式もW-W図式の解釈と同様に、以下の2×2通りの解釈ができる。つまり、商品の移動に着目する視点での商品自体に注目する解釈と所有者の所有物に注目する解釈に二通りの解釈と、価値に着目する視点での商品自体の価値に注目する解釈と主体の所有物の価値に注目する解釈である。

 これも先のスルメ事例で確認しよう。まずは商品の移動に注目する解釈である。

  • 解釈[2.1a]:W(A氏のスルメ)-G(貨幣)-W(B氏のスルメ)

  • 解釈[2.2a]:W(A氏のスルメ)-G(貨幣)-W(A氏のリンゴ)

 まず解釈[2.1a]の事態は、A氏所有のスルメが貨幣を仲介とする売買でB氏所有となった事態を表している。また、解釈[2.2a]は、A氏が所有していたスルメを売却して貨幣を獲得し、獲得した貨幣でA氏がリンゴを購入した事態を表している。

 次に、価値に注目する視点での解釈を見ていこう。

  • 解釈[2.1b]:W(A氏のスルメの使用価値)-G(スルメの交換価値)-W(B氏のスルメの使用価値)

  • 解釈[2.2b]:W(A氏のスルメの使用価値)-G(交換価値)-W(A氏のリンゴの使用価値)

 解釈[2.1b]は、売買を通してスルメの使用価値が貨幣の量で示される交換価値と等しいことをA氏とB氏が評価した事態を表している。解釈[2.2b]は、商品の使用価値を交換価値が同じである、使用価値が等価の別の商品の使用価値に変えた事態を表している。


■3.G-W-G図式:購入額は売却額と等価という構造

 G-W-G図式のごく単純な解釈としては「買い手が代金の貨幣を支払って商品を受け取り、売り手が商品を引き渡す代わりに代金の貨幣を受け取る」事態を示す図式と考えるものである。しかし、マルクス理論においてはそんな単純な事態を示す図式としてのみG-W-G図式を考えているわけではない。前回の記事では述べていない転売の事態を示す図式でもあるのだ(※前回記事の当初の予定では後で触れるつもりだった)。この二つの事態の解釈を、それぞれこれまで同様に商品の移動に注目する解釈と価値の変化に注目する解釈の二通り示すことにしよう。

 この図式の説明に当たって、コンサートチケットの転売行為の例を用いることにしよう。

チケット事例:都合が悪くて確保したコンサートチケットを手放すC氏から、転売屋のD氏がチケットを購入し、熱烈ファンのE氏に売却した

 さて、この事態について示されたG-W-G図式の解釈は、商品の移動に着目すると以下の二つの解釈になる。 

  • 解釈[3.1a]:G(D氏がC氏に支払う貨幣)-W(チケット)-G(D氏がE氏から受け取る貨幣)

  • 解釈[3.2a]:G(D氏がC氏に支払う貨幣)-W(チケット)-G(C氏がD氏から受け取る貨幣)

 この解釈[3.1a][3.2a]に関して、より単純な事態を示す解釈は解釈[3.2a]である。[3.1a]が示す事態と[3.2a]が示す事態を比較すると分かるが、[3.1a]の解釈には二つの取引が登場するのに対して、[3.2a]の解釈は一つの取引しか登場しない。したがって、[3.1a]の解釈で示される事態の方が複雑な事態を示している。

 ここで、「図式の解釈において『一つの取引を示す事態』『二つの取引を示す事態』をごちゃ混ぜにするのはオカシイのではないか?」と感じる読者もいるかもしれない。

 しかし、W-G-W図式の解釈を振り返ってみて欲しい。W-G-W図式の解釈においても、「一つの取引を示す事態」の図式化、「二つの取引を示す事態」の図式化の、二通りの解釈があったのだ。確認してみよう。

解釈[2.1a]:W(A氏のスルメ)-G(貨幣)-W(B氏のスルメ)
解釈[2.2a]:W(A氏のスルメ)-G(貨幣)-W(A氏のリンゴ)

W-G-W図式の二通りの解釈

 解釈[2.1a]におけるW-G-W図式は「A氏がスルメを売却する取引を示す事態」を示す。つまり、一つだけの取引を図式化したものだ。一方、解釈[2.2a]におけるW-G-W図式は「A氏がスルメを売却する取引を行い、その後、リンゴを購入する取引を示す事態」を示す。つまり、二つの取引を図式化したものだ。

 W-G-W図式の解釈において「一つの取引を示す事態」の図式化と「二つの取引を示す事態」の図式化の二通りの解釈を許しておいて、G-W-G図式においては認めないとするのは、道理に合わない。つまり、G-W-G図式もまた、「一つの取引を示す事態」の図式化と「二つの取引を示す事態」の図式化の二通りの解釈を許す図式なのだ。

 では、G-W-G図式において図式化した「一つの取引を示す事態」と「二つの取引を示す事態」の二通りの事態に関して、それぞれの価値に注目して解釈していみよう。

  • 解釈[3.1b]:G(D氏が保有し、C氏に渡す交換価値)-W(チケットの使用価値)-G(D氏がE氏から受け取る交換価値)

  • 解釈[3.2b]:G(D氏がC氏に支払う交換価値)-W(チケットの使用価値)-G(C氏がD氏から受け取る交換価値)

 さて、まずは簡単な解釈である[3.2b]から見ていこう。

 D氏はチケットの使用価値を評価し、それに見合う交換価値を提示し、同時にC氏もチケットの使用価値を評価し、それに見合う交換価値を見積り、D氏から提示された交換価値に納得して、C氏はD氏にチケットを売却する。もちろん、C氏がチケットの使用価値を評価し、それに見合う交換価値を提示し、同時にD氏もチケットの使用価値を評価し、それに見合う交換価値を見積り、C氏から提示された交換価値に納得して、D氏がC氏からチケットを購入する事態でもよい。このとき、交換価値で示されるC氏とD氏のチケットの使用価値は等しい。

 さて、このことは同様にD氏とE氏とのチケット売買との事態に関しても同様に考えることが出来る。

  • 解釈[3.2b']:G(E氏がD氏に支払う交換価値)-W(チケットの使用価値)-G(D氏がE氏から受け取る交換価値)

 上記の解釈[3.2b']と先の[3.2b]とを念頭に入れながら、解釈[3.1b]を考えよう。C氏とD氏間の取引もD氏とE氏間の取引も等価交換が行われている。それと同時に、双方の取引で遣り取りされた商品は同一のコンサートチケットである。したがって、そのチケットの使用価値はチケット自体が同一なのだから、使用価値もまた同一である。このとき、解釈[3.1b]における前者のGと後者のGは等しい交換価値となるハズである。

 さて、現実世界における転売屋の値付けを見ると、買取価格と売却価格は異なる。つまり、「G-W-G図式で表される事態ではなく、G-W-G'図式で表される事態」である。すなわち、G<G'となる関係にある。買取時と売却時で(マルクス理論における)使用価値は変わらないのだから、買取時と売却時で異なる交換価値を付けることは不当利得を貪っていることになるのだ。もちろん、現実世界においてもダフ屋行為は日本において犯罪とされている。諸外国においても規制の対象となっている(アメリカ州法でのスカルパ―規制等)。現実世界の法規制でも、何ら付加価値を生じさせず、値段を釣り上げるだけの転売行為は不正な行為と見做されている。

 マルクス理論が考える剰余価値の発生は、その剰余価値を生じさせる手段としては色々と想定されているが、ダフ屋行為と同様に不正な手段によって生じると見做されている。とはいえ、ダフ屋行為による不当利得が売却価格の不当な釣り上げに起因するのに対して、マルクス理論における剰余価値は不当な買い叩きに起因する。

 しかし、マルクス理論がしているように、ダフ屋行為の不当さを経済行為全般に敷衍することは妥当だろうか。

 例えば、漁港で鮮魚を仕入れて内陸部で販売する魚屋の行為は、当然ながらG-W-G'図式で表される行為である。(鮮魚の仕入価格)<(鮮魚の販売価格)なのだから、G-G'となっている。商品である鮮魚自体は漁港でも店頭でも同一なのだからマルクス理論で考える使用価値では同一の筈だ。したがって、

G(漁港での鮮魚の交換価値)-W(鮮魚の使用価値)-G'(内陸の店頭での鮮魚の交換価値)

となる。しかし、このとき「G<G’であるのは剰余価値という不当利得が発生していることに他ならない。我々がそれを不当に感じないのは資本主義イデオロギーによって化かされているからだ!」と言われても、「えぇ!そりゃ変じゃないか」となるだろう。鮮魚そのものは確かに変わらないだろうが、魚屋の行為が無ければ内陸部の消費者は態々漁港まで自分で買い付けに行かなければ鮮魚を手にすることはできない。明らかに魚屋がいることで内陸の消費者は便益を得ている。それにも関わらず、「商品の使用価値は商品自体に存在しているものだから、場所・状況・使用者が変化したとしても不変である」と考えるマルクス理論には、経済現象を考えるにあたっての歪みが明らかに存在している。

 ここら辺から、マルクス理論に対して疑問が満載になっているとは思うが、一先ずマルクス理論は正しいとして先に進もう。


■4.G-W-W-G図式:労働力の再生産の図式

 次はマルクス理論の根幹に存在する「労働力という商品」について考えていこう。まず、労働力という商品が生産される過程は「労働力の再生産」と呼ばれる。詳しくみれば、労働力の再生産とは「労働者は生活必需品を賃金を原資に買い入れて、それを消費して労働力を再生し、再び賃金を得る」という現象を指すものである。もちろん、それ以外の意味(※労働者となる子供の育成)で用いる場合もある。だが、本稿においては太字で示した意味で用いることにしよう。

 さて、マルクス理論において労働力という商品を巡る事態の一側面について「G-W-G図式」で表すのが一般的だ。つまり、見出しに挙げたような「G-W-W-G図式」は用いないのが普通である。しかし、G-W-G図式だと非常に分かり難いのがこの節で取り上げる労働力という商品を巡る事態の一側面である。したがって、マルクス理論の一般的な図式とは異なるが、G-W-W-G図式を用いて説明をしていきたい。では早速見ていこう。

 まず、労働力の再生産を貨幣と商品の観点で見てみよう。すると、この節の見出しに挙げたG-W-W-G図式は以下の解釈になることが分かるだろう。

  • 解釈[4a]:G(生活必需品を買い入れる貨幣)-W(生活必需品)-W(労働力)-G(賃金として受け取る貨幣)

 また、上記を念頭におきつつ価値に注目する解釈を取れば以下のようになる。

  • 解釈[4b]:G(生活必需品の交換価値)-W(生活必需品の使用価値)-W(労働力の使用価値)-G(労働力の交換価値)

 ここでG-W-W-G図式について3つの過程に分解し、また商品と貨幣の観点、価値の観点も分けて示そう。

  • G-W過程[4a]:(賃金を原資とする)貨幣と生活必需品を交換する過程

  • W-W過程[4a]:生活必需品を消費して労働力を再生する過程

  • W-G過程[4a]:労働力と賃金である貨幣とを交換する過程


  • G-W過程[4b]:生活必需品の使用価値と等価の交換価値が支払われる過程

  • W-W過程[4b]:生活必需品の使用価値として労働力の使用価値が再生する過程

  • W-G過程[4b]:労働力の使用価値が交換価値に変わる過程


 まず、G-W過程[4a,4b]の解説をしよう。

 生活必需品の使用価値を得るために生活必需品を手に入れる。このために、生活必需品の使用価値と等価の交換価値を持つ貨幣と、生活必需品を交換する。この過程を示したものがG-W過程[4a,4b]である。

 次に、W-W過程[4a,4b]を見ていこう。

 まず、労働力を再生させる使用価値を持った生活必需品が消費され、労働力が再生される。そして、再生された労働力は使用価値を持つ。この過程を示したものが、W-W過程[4a,4b]である。

 最後に、W-G過程[4a,4b]を見ていこう。

 労働力の使用価値に対応する交換価値を持った賃金(=貨幣)と、使用価値を持つ労働力が交換される。

 以上の解釈から理解される事態を纏めて図式化したものが、G-W-W-G図式である。そして、各過程を確認したことで理解できると思われるが、このことによってノーマルのマルクス理論において以下が結論付けられる。

 労働力の使用価値と等価の交換価値を持つ賃金としての貨幣は、労働力を再生させる使用価値を持つ生活必需品の交換価値に等しい。

 もう少し詳しく労働力の再生産過程を見ていこう。このために、商品と価値の双方に着目して、労働力の再生産過程を図式化してみよう。

労働力の再生産過程の図式:WⅠ(生活必需品という商品)-WⅡ(労働力を生み出すという使用価値)-WⅢ(労働力という商品)-WⅣ(労働力の使用価値)


 上記の図式の過程を順にみていくと、まず、商品は生み出す価値こそが使用価値になるという観点から「生活必需品という商品WⅠはWⅡという使用価値を持つ」となる。次に、あるものを生み出す使用価値は生み出されたものの価値と等しいという観点から「生活必需品の使用価値WⅡは労働力という商品WⅢを生み出す」となる。そして商品は使用価値を持つので「労働力WⅢは使用価値WⅣを持つ」となる。つまり、最終的に生活必需品と言う商品WⅠは労働力の使用価値WⅣを生み出すということになる。それゆえ、商品には使用価値に見合う交換価値の貨幣が支払われることになるので、「賃金Gは生活必需品の購入費Gに等しい」ということになるのである(註2)。このことからG-W-W-G図式の最初と最後のGが等しいと言えるのだ。

 以上がノーマルなマルクス理論における労働力の再生産の考え方である。しかし、後で見るように、ここの箇所においてマルクス理論に則って異議を申し立てるのが、マルクス主義フェミニズムによる労働力の再生産過程の説明である。


■5.G-W -W'-G'図式:マルクス理論による剰余価値の発生の理屈

 最初に断っておくこととして、見出しに挙げたG-W-W'-G'図式は、マルクス理論において「資本の一般的定式G-W-G'図式」と呼ばれるものである。ただ、G-W-G'図式が指し示す事態は「二つの取引」が登場する事態であり、それぞれの取引で交換される商品は別物であって、かつ、それが別の商品であることを区別した方が、理解し易いために一般的な「G-W-G'図式」ではなく「G-W-W'-G’図式」にとする理由である。

 また、一般的生産過程を考えるとき、労働力以外の生産要素となる商品も投入され、生産物の産出に関わる。つまり、それらの商品の交換価値、使用価値、それらの商品の使用価値が発揮された結果の生産物および生産物の使用価値・交換価値も存在する。しかし、マルクス理論における一般的生産過程では、労働力以外の生産要素となる商品に関しては、投入される生産要素となる商品の交換価値-使用価値、および産出される商品における当該生産要素の寄与分の使用価値-交換価値は、いずれも等価であるために今後の考察については捨象しても議論に影響がない。そのため、それらの労働力以外の生産要素となる商品に関しては、議論の簡略化のために割愛する。

 以上の点について了承の上で議論を進めていこう。

 さて、G-W-W'-G'図式は「企業が賃金を支払って労働力を購入し、労働力を使用して生産物をつくり、生産物を販売して代金を得る」という事態を図式化したものである。また、G-W-W'-G'図式もまた、商品と貨幣の観点と価値の観点から二通りの解釈が出来る。

  • 解釈[5a]:G(賃金である貨幣)-W(労働力)-W'(生産物)-G'(販売代金の貨幣)

  • 解釈[5b]:G(労働力の交換価値)-W(労働力の使用価値)-W'(生産物の使用価値)-G'(生産物の交換価値)

 ここでG-W-W-G図式について3つの過程に分解し、また商品と貨幣の観点、価値の観点も分けて示そう。

  • G-W過程[5a]:賃金である貨幣が支払われて労働力が提供される過程

  • W-W'過程[5a]:労働力を使用して生産物が生産される過程

  • W'-G'過程[5a]:生産物が販売されて代金となる貨幣と交換される過程


  • G-W過程[5b]:労働力の使用価値と等価の交換価値の貨幣が支払われる過程

  • W-W'過程[5b]:労働力の使用価値として生産物の使用価値が生産される過程

  • W'-G'過程[5b]:生産物の使用価値が交換価値に変わる過程


 まず、G-W過程[5a,5b]の解説をしよう。

 労働力の使用価値を得るために企業は労働力を手に入れる。このために、労働力の使用価値と等価の交換価値を持つ貨幣と、労働力を交換する。この過程を示したものがG-W過程[5a,5b]である。

 W-W'過程[5a]については解釈の横の説明文そのままである。また、ここでは議論の中心となるW-W'過程[5b]の解説を飛ばして次に進もう。

 では、W'-G'過程[5a,5b]を見ていこう。

 生産物の使用価値に対応する交換価値を持った貨幣と、使用価値を持つ生産物が交換される。この過程がW'-G'過程[5a,5b]である。

 さて、W'-G'過程[5a,5b]の解説から分かるように、生産物の交換価値G'はあくまでも生産物の使用価値W'によって決まる。また、労働力の使用価値は前節「4.G-W-W-G図式:労働力の再生産の図式」の以下の箇所から、労働力の再生産のための生活必需品の使用価値に等しいことが分かる。

 労働力の使用価値と等価の交換価値を持つ賃金としての貨幣は、労働力を再生させる使用価値を持つ生活必需品の交換価値に等しい。

「4.G-W-W-G図式:労働力の再生産の図式」の節より

 すなわち、G-W-W'-G'図式の両端のG・G'に関しては以下の通りとなる。

G:生活必需品の交換価値
G':生産物の交換価値

 しかし、マルクス理論においては「G(生活必需品の交換価値)とG'(生産物の交換価値)は独立的に決定される」となるために、G≠G'となるのだ。このことによって、W-W'過程[5b]の使用価値に関して矛盾が発生する。これがマルクスのいう「資本主義体制の矛盾」である。

 ではなぜこれが矛盾となるのか。それはマルクス理論においては「インプットとアウトプットの使用価値は等しくなる」と考えているからである

 ではなぜマルクス理論においては「インプットとアウトプットの使用価値は等しくなる」と考えるのか。

 それを見ていくには「1.W-W図式:物々交換の図式」で見たスルメ事例のA氏とB氏の2主体間の物々交換の事態を振り返ると理解できる。

 スルメ事例において成立しているスルメとリンゴの使用価値の変換システムを、A氏視点に固定して見てみれば「スルメを変換システム(=物々交換)にインプットすると、リンゴがアウトプットされる」となる。このとき、変換システムによって変換されたインプットであるスルメとアウトプットであるリンゴに関して使用価値は等しいという事態が成立している。

 マルクス理論においては物々交換という使用価値の変換システム生産過程という使用価値の変換システム同様であるべきと考えている。それゆえ、生産過程においてもインプットの使用価値とアウトプットの使用価値は等しくなければならないとマルクス理論においては考えているのだ。

 つまり、以下の二つの商品「生活必需品と生産物」を生産過程で仲介する労働力の使用価値はインプットとアウトプットの両面から見て等しくなければならないと考えるのだ。

[1]インプットである生活必需品の使用価値からみた労働力の使用価値W
[2]アウトプットである生産物の使用価値からみた労働力の使用価値W'

 ところが、現実の資本主義体制において「生活必需品の交換価値Gと生産物の交換価値G'は現実として一致していない」という事態が生じている。これは取りも直さず、交換価値Gによって獲得された生活必需品の使用価値により再生された労働力の使用価値Wと、生産物の使用価値の反映である交換価値G'を創り出した労働力の使用価値W'との乖離が現実として生じていることを示している。

 現実の資本主義体制において、産出される生産物の交換価値G'を全て用いて生活必需品に交換したとき、その交換した生活必需品の使用価値はW'となる。現実世界においてG<G’が成立しているために「W'=W+ΔW,(ΔW>0)」が成立している。このとき、労働者が受け取っている賃金Gは労働力の再生産に必要な生活必需品の使用価値Wに対応した交換価値Gに等しく、また、そのGと等しい労働力の使用価値はWである。

 この事態からマルクス理論においては「資本主義体制の矛盾」が生じているとしているのだ。そして、マルクス理論においては「インプットから見た労働力の使用価値Wとアウトプットから見た労働力の使用価値W’との差分」を「労働者が資本家から搾取されている剰余価値」としたのである。

 また「商品の視点からみた資本主義体制下の労働力」は「マルクス理論において必要労働と呼ばれる、自身の労働力の再生産のために必要な生活必需品の使用価値に等しいWを生み出す労働」と「マルクス理論において剰余労働と呼ばれる、労働力の再生産に必要な使用価値以上の使用価値ΔWを生み出す労働」に分かれる。

 この本来あるべきではない剰余価値や剰余労働を、労働者に受け入れさせているものが、「イデオロギーと暴力装置」である。つまり、資本主義イデオロギーと体制側の警察等の暴力装置が、不当な剰余価値や剰余労働の存在を資本主義体制において成立させているとマルクス理論では考えるのだ。

 このマルクス理論の考え方では、当然ながら搾取されているのは「労働者」となっている。確かに、資本主義体制下において労働力によって生み出された使用価値の方が、労働者の再生産に必要な商品の使用価値とされたものよりも大きく評価されている。すなわち、その労働力の提供者に支払われた、労働力の使用価値への評価としての交換価値を持つ貨幣の量は過小であると言える。

 しかし、それは労働者自身が搾取されている結果と言えるのだろうか、という疑義が生じる。つまり、労働者自身ではなく生活必需品の提供者が提供する使用価値、それが過少に評価された結果という可能性が否定できない。この疑義から出発するのが、次節のマルクス主義フェミニズムの認識である。



■6.(G+Gs)-(W+S)-W'-(G+Gs)-W'-W'-G'図式:マルクス主義フェミニズムによる無償の家事労働の使用価値の搾取と剰余価値の発生メカニズム

 さて、標準的なマルクス理論においては、資本家から搾取されているのは労働者自身であると考え、労働者自身の労働が資本主義体制における剰余価値を生み出していると認識している。先ほど少し触れたように、これに対して異議を唱えたのがマルクス主義フェミニズムである。

 つまり、マルクス主義フェミニズムによれば「資本主義体制の剰余価値の源泉は、主婦が提供する無償の家事労働にある」としたのだ。このマルクス主義フェミニズムの認識を図式化すると(G+Gs)-(W+S)-W'-(G+Gs)-W'-W'-G'図式となる。

 上記における「SとGs」は、マルクス主義フェミニズム図式全体も含め、本稿独自の表記である。そして、記号Sは家事労働(subsistence work)を表しており、家事労働の交換価値を記号Gsで表している。ただし、家事労働はマルクス主義フェミニズムにおいて無償労働(アンペイドワーク)とされ、また現実においても殆どの場合に無償労働である。それゆえ「Gs=0」である。

 さて、マルクス主義フェミニズムの図式:(G+Gs)-(W+S)-W'-(G+Gs)-W'-W'-G'図式を見ていこう。

 この図式は「代金と引き換えに生活必需品を入手し、また無償で家事労働が提供され、生活必需品と家事労働によって労働力が再生産され、賃金と引き換えに労働力が提供され、生産が行われて生産物が産出され、生産物が販売され代金である貨幣を獲得する」という一連の事態を指し示している。

 さて、(G+Gs)-(W+S)-W'-(G+Gs)-W'-W'-G'図式の解釈について見ていこう。今回も「商品と貨幣に注目する解釈」と「価値に注目する解釈」に分けて見ていく。また、今回については図式が長いので各項毎に分けて見ることにしよう。

解釈[6a]:商品と貨幣に注目する解釈
G+Gs:生活必需品の代金の貨幣と家事労働の対価のゼロ貨幣
W+S:生活必需品と家事労働
W':再生産された労働力
G+Gs:労働力の対価である賃金として支払われる貨幣
W':生産過程に投入される労働力
W':生産された生産物
G':販売された生産物の代金の貨幣

解釈[6b]:価値に注目する解釈
G+Gs:生活必需品の交換価値と家事労働の交換価値(ゼロ)
W+S:労働力を再生産する、生活必需品と家事労働の使用価値
W':再生産された労働力の使用価値
G+Gs:労働力の再生産の為に必要であった貨幣の交換価値に等しい、労働力の交換価値
W':労働力の使用価値
W':生産物の使用価値
G':生産物の交換価値

 さて、上記の解釈を見て、マルクス主義フェミニズムが示す図式から「もしも家事労働Sに対して、その使用価値に等しい交換価値Gsをもつ貨幣が支払われたとき、資本主義体制の矛盾は消え去る」という理論的結論に気付いただろうか。おそらく、マルクス主義フェミニズムの理論的完成度は、標準的マルクス理論よりも高い(註3)。

 このことについて確認しよう。

 まず、「労働力W'」は「生活必需品Wと家事労働S」によって再生産される。すなわち、生活必需品と家事労働の使用価値は労働力を再生産させるというものだ。したがって、「労働力の使用価値W’」と「生活必需品の使用価値Wと家事労働の使用価値S」は等価になる。このとき、生活必需品の使用価値Wと家事労働の使用価値Sに見合う交換価値GおよびGsをもつ貨幣が支払われたとしよう。すると、労働者を雇う企業は労働の再生産の必要性から、労働力W'に対して交換価値G+Gsの賃金を支払う。一方、労働力W'はそれに見合う生産物W'を創り出すために、生産物の使用価値W'に見合う交換価値G'の貨幣を獲得することが出来る。そしてその交換価値G'はまさしくG+Gsと等価であるために、資本主義体制の矛盾は発生しない

 つまり、マルクス理論のいう「資本の一般的定式G-W-G'図式」における「G<G’となって剰余価値が生じる」との問題は、マルクス主義フェミニズムによれば家事労働の使用価値Sに対する交換価値Gsの対価がゼロであることによって生じているのだ。家事労働が無償労働であるからこそ、資本主義体制は剰余価値を獲得し、資本家は利潤を得ることができると考えるのである。

 それゆえ、「資本主義体制こそが、女性に無償労働としての家事労働を強制して女性を家庭に縛り付ける『イデオロギーと暴力装置』としての家父長制を維持して、女性の家事労働を利潤の源泉としているのである」とマルクス主義フェミニズムは考えるのである。


マルクス理論の枠内でのマルクス主義フェミニズムへの批判

 マルクス主義フェミニズムにおいて無償労働を行うのは、なぜ「主婦」だけと考えるのだろうか。あるいは、家事労働を「無償」と捉えるのはどうしてなのか。

 交換価値はあくまでも交換価値であって本来的な価値は使用価値である。使用価値が対価と支払われていてもまったくの「無償」と解釈するのはマルクス理論において妥当なことと言えるのか少々疑問である。すなわち、交換価値だけではなく使用価値の対価として認める場合、家事労働の再生産のための生活必需品の現物支給という形で、家事労働の使用価値に対応する生活必需品の使用価値が提供されているとしたとき、家事労働をまったくの無償労働と考えることは、マルクス主義フェミニズムが基盤理論としているマルクス理論においても妥当ではない。

 ただ、上記のように考えるとマルクス主義フェミニズムの理論よりも理論的完成度が下がり、ある意味で理論上の未完成な部分としても解釈できる、マルクス理論が指摘する「資本主義体制の矛盾」の理論的解消が困難になるため、「標準的マルクス理論の前提の枠内での批判」である上記の批判は、批判に当たらないのかもしれない。

 また、ある主体に相応分の対価が支払われない事態について「主婦」だけに限定して認識するのは、マルクス主義フェミニズムの枠組みからでも、確定的に主張できることではない。

 つまり、単純に生産過程で労働に従事する労働者自身も、自身の労働力を再生産する無償の家事労働を行い、その自身の労働力を再生産する家事労働に費やす労働力の使用価値分の交換価値がゼロであるために、生産過程での剰余労働が発生するのだと考えてもよい。

 すなわち、全労働が無償労働となっているのは確かに家事労働を行う主婦であったとしても、従来のマルクス理論の剰余労働の理論通りに、労働の一部が無償労働となっている(マルクス理論のいう所の)生産過程に従事する労働者が存在する場合を否定できない。

 そのことは、マルクス主義フェミニズムの剰余価値の発生メカニズムについての理論によっても、資本主義体制が確定的な形での"家父長制"というイデオロギーと暴力装置を必須とするとは言えないということだ。つまり、生産過程での労働力を再生産するプライベート生活の非物質的な一部について無償であるとするイデオロギーであれば十分なのだ。したがって、マルクス主義フェミニズムの剰余価値の発生メカニズムについての理論から「(主に19世紀後半から20世紀の)資本主義体制が女性差別イデオロギーを採用していた」とは言えても、「資本主義体制は女性差別イデオロギーが必須なのだ」とは主張できないのである。

 とはいえ、繰り返し注意を促しておくが、マルクス理論はマルクス主義フェミニズムも含めて、理論の随所でかなり特殊な前提を置いている。例えば、商品の使用価値は商品固有のものであるとするマルクス理論の前提は、例えば「砂漠での水と街中での水」「漁港での鮮魚と内陸の店頭での鮮魚」のそれぞれの使用価値は等しいと考えるという不都合な見解を生じさせるものである。マルクス理論やマルクス主義フェミニズムを用いて、社会について考えるときには、このことを十二分に理解しておく必要がある。


【追記】マルクス主義フェミニズムの前提を受け入れた上で、マルクス主義フェミニズムを批判したnote記事を、本稿を書いた後に書いた。本稿での批判の不備を補う内容であるので、是非目を通して欲しい。



註1 主体毎の各商品の使用価値が等しいならば「そもそもなぜ交換しようとするのだろうか?」という、根本的なツッコミはここでは、一先ずおいておこう。まぁ、マルクス理論の考える使用価値は「商品側に付随する価値」なので、主体や状況その他には関係が無いという考え方だ。つまり、Aはリンゴを欲しがっている一方でスルメは大して必要が無く、同様に、Bはスルメを欲しがっている一方でリンゴは大して必要が無いとしても、マルクス理論の考え方によれば「使用価値は一定」としても何の問題も無いという訳だ。


註2 「交換価値=使用価値」という考え方は、限定的には標準的ミクロ経済学における最適生産量を決める利潤最大化条件「限界費用=限界収入」の考えかたと同じ。


註3 もっとも、本稿において最初に触れた以下のマルクス理論の前提はマルクス主義フェミニズムも共有している。

【マルクス理論の前提】
「商品の使用価値は所有者・場所・状況が変化しても一定である」

「マルクス理論における重要な前提」の節より

 それゆえ、「砂漠での水と街中の水」や「漁港での鮮魚と内陸部の店頭での鮮魚」の使用価値はそれぞれ等しい、という受け入れがたい見解が生じる前提はマルクス主義フェミニズムもそのままであることには注意が必要だ。とはいえ、本稿では一先ず上記のような疑問点は無視して「マルクス理論の前提は正しい」との仮定をおいてマルクス理論およびマルクス主義フェミニズムを見ていく方針なので、議論を進めることにしよう。

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