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炎上したミサンドリストの牧師さん

 先日「キリスト教の原罪思想」に関するnote記事を書いた。それを考えると実にタイムリーな話なのだが、ある牧師が「弱者男性」関連のミサンドリー言説をX(旧Twitter)上の開陳して炎上した。関連の議論を眺めてみると、件の牧師は実に見苦しく言い逃れをしようとしている。

 まぁ、牧師などといっても全員がマザー・テレサのような人格者であるわけがないので、ごく普通の人間がそうであるように、彼も失言を追及されてジタバタと言い逃れをするという普通の人間のお決まりの行動をしているに過ぎない。

 牧師に限らず僧侶や神主などの聖職者に抱く我々の幻想、ないしは彼・彼女らに求める社会的な機能ゆえに、一般人よりも一段上の人格を勝手に期待して、その期待にそぐわない現実の牧師の行動を見て「おいおい、牧師さんがそんなんでいいんかよ」と感じているともいえる。すなわち、勝手に期待して勝手に失望しているという面もある。

 とはいえ、彼ら聖職者も我々が抱く聖職者のイメージを利用して権威を獲得している側面もあるので、「"聖職者は人格者"というイメージの光と影、より直接的表現だと"メリットとデメリット”」は都合の良い方だけを享受する訳にはいきませんという、世の中の道理の話でもある。

 結局のところ、炎上した牧師に関して「火元となったXのポスト」と「炎上したXのポストに対する釈明」の双方で、社会が牧師の言動として許容する範囲を逸脱してしまったがゆえに炎上したと言える。俗っぽい言い回しで表現すれば「アンタの立場でソレ言うたらアカンのとちゃうか?」という訳である。

 以上のことを抑えておくと、この炎上騒動のトピックは以下のように示すことができる。

  1. 火元となったXのポストの言説自体の問題点

  2. 火元のXのポストに対する釈明の言説(=派生言説)の問題点

  3. 「火元の言説」の内容を聖職者が主張する問題点

  4. 「火元の言説」の内容とキリスト教の教義との関係で生じる問題点

 したがって、以下では上記のトピック毎に考察していくことにしよう。


1 火元となったXのポストの言説自体の問題点

1.1ジェンダー平等の大原則

■ミサンドリー言説がジェンダー差別に関する正当な言説と認識される異常さ

 まずは、火元となったXのポストを見てみよう。

「弱者男性」とかいう言葉があるけど
本当に卑怯な言葉だと思う。

男性って本当に弱い。精神が貧弱。
我慢ができない。感情的で衝動的。
そしてそれを自覚できない。
指摘されても認められない。

そんな自分の問題を
自分で引き受けずに
「仕方ないよね」
と言ってもらえることを
求めてばかりいる。

まことさん・山下真実 2023/9/11 X(旧Twitter)投稿

 非常に分かり易いミサンドリー(=男性嫌悪・男性蔑視)言説である。

 とはいえ、フェミニズム思考に染まっていると、男性を悪し様に罵る言説をみても「ジェンダー平等の正義から正しい言説」と認識してしまう。また、フェミニスト達はそんなフェミニズムへの狂信者以外には議論不能な認識になっているため、その認識に基づいて性差別主義を周囲に布教しまくる傍迷惑な行動を取る。

 まぁ、マトモでない思想をもって行動する人達というのは、ネオナチやKKK団員、あるいは21世紀にもなって地球平面説などを信じる人達の例を挙げるまでもなく、日常的にも出会うことがある。非科学的なオカルトやエビデンスが不明な言説あるいはそれを商品の形にしたものは現代日本社会にも腐るほど出回っている訳で、それらを固く信じ込んでいる人達というのも珍しくない。つまり、フェミニスト特有の異常さという訳でもないのだ。

 しかし、フェミニズムがそれらのトンデモと隔絶している傍迷惑な特徴が、現代の(欧米中心の)世界的な風潮においては「フェミニズムは正義の思想」となっているというものである。つまり、フェミニストでなくとも漫然と世の中の風潮に流されていると「フェミニスト達が言っていることは正しいのかなぁ」という判断が生じてしまうのだ。

 今回のnote記事の例でいえば、火元となった牧師のXのポスト自体だけでなく、それに対するフェミニズムに被れた女性たちの判断の「男性を悪し様に罵る言説=ジェンダー平等の正義に適った言説」に流されて、あからさまなミサンドリー言説がジェンダー正義の皮を被っていることへの疑問を持たなくなってしまうだろう。

 このような事態が如何におかしな事態であるのかを考えるにあたって、まずは「ジェンダー平等」の基本に立ち返って考察していこう。


■「男性は○○である」との認識自体がジェンダー差別思想そのもの

 さて、ジェンダー平等思想の認識枠組みにおいて

「性別だけで(他と違う)○○と決めつけることはジェンダー不正義である」

という巨大な枠組みがある。このときの性別は「男/女」だけに限った話ではなく様々なXジェンダーについてもそうである。これを否定する思想は全てジェンダー平等思想ではない。なぜなら、事実に先立って「○○は他と異なって△△である」と判断(ア・プリオリな判断)することは、経験的事実によって「○○は他と異なって△△である」と判断(ア・ポステリオリな判断)することとは違って、認識枠組み自体にビルトインされている判断=差別意識を判断の根拠にしているからだ。

 上記はもっとも狭い条件の「ジェンダー不正義」であるのだが、もう少し広い条件での「ジェンダー不正義」もある。それは統計的傾向から個人を判断することを想定して、統計的傾向から「○○は他と異なって△△である」とする判断を「ジェンダー不正義」とすることである。

 この「ジェンダー不正義」に関しては、フェミニストがしばしば持ち出す理屈を用いて解説することで、フェミニストらの反論を封じることにしよう。

 さて、フェミニスト達は、「統計的傾向から『○○は他と異なって△△である』とする判断を『ジェンダー不正義』とする」との主張にあたって、男女の身長に関する統計的傾向と個々の男女の身長の話を持ち出す。非常に有名な例なので、この話を目にした人も多いのではないだろうか。

 フェミニストいわく「統計的には男性の方が女性よりも身長が高いことをもって、個別具体的な女性に関して『女性が別の男性よりも身長が低い』と判断することはできない。もしも、そのような判断が横行しているようであれば、そのような事態はジェンダー不正義な事態である。同様に、統計的に女性が男性よりも○○であることをもって、個別具体的な女性に対して『女性は(男性と違って)○○だ』と判断できない。したがって、そのような判断が横行しているようであればジェンダー不正義な事態である」という訳である。

 まぁ、マクロ的傾向でもってミクロ的な判断を行うことの問題の話であり、かつ、傾向の問題を全体に当てはまる問題にしてしまう問題である。この話は、差別問題という問題圏においてはしばしば登場する話である。例えば「○○国人は統計的に犯罪率が高い。だから○○国人は犯罪者だ」とする判断が差別的判断であることは論を待たない。つまり、統計的傾向から何かを主張するとき、うっかりと統計的傾向の範囲からズレると容易に差別的主張や差別的判断に転化してしまうのである。

 ちなみに、「統計的傾向だけから個別的判断をすること」と「統計的傾向を全てに当てはまることにすること」の両方を、同じ差別問題として扱うことに疑問を持つ人が居るかもしれない。そこで、このことに関して少し解説しておこう。

 さて、数学において

「任意のXについて成り立つ」=「すべてのXについて成り立つ」

という関係が成り立っていることを習った人も多いのではないだろうか。この関係を示しただけでピンとくる人もいるだろうが、もう少しお付き合い願いたい。

 この上の図式の左辺の視点は個別的視点であるのに対して、右辺の視点は全体的視点である。つまり、視点の有り様だけを見てみると「え?なぜこれが等しい意味になるの?」となる。

 まずは、分かり易い全体的視点から考えよう。

 「すべてのXで成り立つ」のであれば、どんなXでもいいから1つ選んで考えたとき、それは成り立っている。すなわち、個別的視点での「任意のXで成り立つ」が言えることになる。

 つぎに、少し分かり難い個別的視点から考えよう。

 「任意のxで成り立っている」と言えるということは、どんなxで考えても成り立っているということなので、全てのパターンで考えても成り立っている。したがって、全体的視点で「すべてのxで成り立つ」となるのである。

 「原理的な話について上記の説明ではよく分からないなぁ」と言う人に関しては、数学専攻者の上手な説明がネット上にいくらでも転がっているので検索してもらうとして、解説を差別問題に戻して見てみよう。

 どんな女性を連れてきても「この女性は(男性と違って)○○だ」というのであれば、「すべての女性は○○だ」と言っているのに等しい。つまり、個別具体的な視点であっても、そのすべての場合で「この女性は○○だ」というのであれば、それは全体的視点での「女性は○○だ」というものに等しい。また、全体的視点で「女性は○○だ」と言っているとき、任意の女性を連れてきても「この女性は○○だ」となるのも当たり前の話であろう。つまり、どちらの視点であっても「女性は○○だ」となるので女性差別になるのである。

 外国人差別の例についても見てみよう。

 どんなA国人を連れてきても「ソイツは犯罪者」というのであれば、「A国人は犯罪者」と言っているのに等しい。つまり、個別的視点であっても、そのすべての場合において「ソイツは犯罪者」というのであれば、全体的視点での「A国人は犯罪者」というものに等しい。また、全体的視点で「A国人は犯罪者」と言っているときには、任意のA国人を連れてきても「ソイツは犯罪者」となるのも当たり前の話であろう。つまり、どちらの視点であっても「A国人は犯罪者」となるのでA国人差別になるのである。

 このように、統計的傾向から「任意の個別的人物に対して決めつける」場合も、統計的傾向を「すべての人物に対して決めつける」場合も等しく差別的判断となる。

 さて、火元のXのポストでくだんの牧師が、以下の内容に関して彼の独断と偏見からダイレクトに男性とはかくかくしかじかであると主張しようとしたのか、一旦、統計的傾向を挟んだのちに男性とはかくかくしかじかと主張しようとしたのか、あるいは、牧師自身の個人的体験に基づいて男性とはかくかくしかじかと主張しようとしたのかは分からない。

男性って本当に弱い。精神が貧弱。
我慢ができない。感情的で衝動的。
そしてそれを自覚できない。
指摘されても認められない。

そんな自分の問題を
自分で引き受けずに
「仕方ないよね」
と言ってもらえることを
求めてばかりいる。

まことさん・山下真実 2023/9/11 X(旧Twitter)投稿 (再掲)

 まぁ、そのどれであってもジェンダー平等の認識の大原則から外れたジェンダー差別的主張であることには変わりがない。

 因みにだが、牧師自身の個人的体験に基づいて男性とはかくかくしかじかと主張しようとした場合であったとしても、当然ながら差別的主張である。なぜなら、個人が全ての場合を体験することは不可能であるので、単に自分の体験から全体に関する主張を正当に導き出すことはできない。

 ただし、個人的体験によって差別的主張を行っていた場合について、その個人的体験の内容によっては差別的主張を行ったことに対する道徳的責任に関して、情状酌量の余地が出てくる場合がある。すなわち「まぁ、言っていることは間違っているけど、そう言いたくなった事に関しては理解できる」という訳である。

 とはいえ、この牧師が自分の体験に基づいて引用の主張をしていたとしても酌むべき情状は明示されていないので、差別主義者として糾弾されることを免れることはできないだろう。



(以降のトピックは2に続く)



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