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父の気持ち

noteのコメントや記事で、いつからか やりとりするようになったNNさん。今朝もコメントでお話(?)していたのですが、そのとき  ふと、

父の、あの事を書いておこう… と 思えたのです。

たぶん、NNさんを守っている筆の神さま(NNさんは文筆家です)が、私にそっと「今書きましょう~」と、教えてくださったのかもしれません。

私の筆は未熟で、やや重くしか書けませんけれど
おつきあいいただければ幸いです。
父が寝たきりになった、なくなる前の1年半ほどのお話です。

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父は、夏の暑い日に脳出血でたおれたのですが、当時は 病院側に “手術しない” という選択はなかったそうで。。

救急車を受付けてくださった病院の、執刀医の先生は「脳の腫れをおさえるために左側の、言葉がわかる部分をみんな取ります。そうして、息をして心臓を動かす場所をまもります」と、説明されました。

一命をとりとめた父には、胃や 気管に穴をあけ、管を通す必要がありました。それから右側が麻痺していて、ゆっくり、ゆっくりと〈こうしゅく〉がはじまっていきました。使えない腕が だんだんとちぢんで、こわばっていくのです。

ことばが喋れず、はじめて耳にする外国語のように、聞いても意味をなさないと  私たち家族は説明を受けていました。父がすぐ、嫌がって管をひっぱってしまうので、父の動く左手は よく、ベッドの柵に結わい付けられました。

たいへんなお話しですが、もうすぐ20年ほどもたつ、昔ばなしです。当時の父は70代で、ベッドの上ではいつもしかめ面をしていました。怒ってしまっていつまでもじぶんの額を叩いていることも、よくありました。それをみるのは辛かったですが、父の好きな音楽をみみもとで鳴らすため、そして おだやかに目をつむるようすに ほっとするため、週にいちど、休みの日には病室に行きました。

術後1年くらいたつと、車椅子にのせてもらえるようになりました。外の風にあたるととてもいいお顔をされますよ と、看護師さんが教えてくださいました。

息子がまだ、保育園にかよっていたころのこと。

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それから、栗のおいしい父のお誕生月とお正月を2度すぎて なくなるまで、父の発作のような怒りはつづきました。なくなったときは分からなかったけれど、ようやく 父の夢をみるようになり、はじめて声を思い出せたあるとき、ハッと伝わるように理解できたことがあります。

それは 父が

これまでの人生で。。

仕事や生活のなかで、それだけの怒りのエネルギーをためてきていた、ということです。
それをみんな表出する1年半だったのです。


(これは、あくまで娘の感慨。仮説? です😊)

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父の人生や、なくなりかたから、
母はまた、違った感慨をもつでしょう。
弟もまた、弟らしい思いをもっているはず。

私の気づきは、わたしがじぶんの生き方から導きだせた、ひとつのみかた、感じかたにすぎません。

でも、父の病室でこぼれる涙をとめられない日々は、私にとって  ひとりでは得がたい宝物をくれた 1日ずつでした。


私は、父に怒られた記憶はありません。
めったに話もせず、変わったことがおきたら子どものようにとぎれなく、おもしろく じぶんのことだけを話す父。娘のつまらない口答えや態度にも、あきれたり お芝居のせりふを小声で返してくれるような父でした。

父の本棚をたどるように読書してきました。
紙の薄い、父の辞書を引いてしゅくだいをしていました。

両手を広げてあまえた記憶はのこっていませんが、私は、父が好きだったのです。
そして、父はあの1年半に、たくさんの怒り すなわち、自身の感情を発することができたのです。

その怒りのなかの、ほんのひとつ、ふたつでも
これからの私は 開いていけるかもしれません。
そのなかに、輝きやかなしみを みいだせるかもしれません。

そんな可能性と、父の気持ちに気づくことができました。



NNさん、ありがとうございます♪

もうひとつ、さちとピースさんへの創作も
紹介させてください♪  とっても可愛いお話

3年まえに じぶんで書いた、父のこと。

3月4日