Entangled な心を歩く(文書化について続)

前に書いた文章を稀に「スキ」してくれる人がいらっしゃって、久々に読み返した。紛れもなく読みにくい私らしい文章であった。ポエムなので、恥ずかしくて目を滑らせるようにしか読めないが、でもその時頭の中にあって言いたかったようなことが確かに書かれようとしているのを追体験できた。文末に、戻ってきます、と書いていたのを読んで、指の勢いで、今ちょっとここに戻ってきてみた次第。以下、徒然なる書き連ねになります。

上手い人の文章を読むと、読むごとに心を追うことができて、そうできないこともあるけれども、できている間は道を並走することができる。思考過程自体は前に書いたように枝分かれしたり深入りしすぎたりして、いわゆる完成系の「本筋」から逸脱しまくりながら進む。書くということは、考えを単に表出してしっぱなしにするというだけでなく、生産活動の痕跡を人様(未来の自分も含む)に読み取ってもらうことで次の段階に進化するのだ。私は割に直前を読み返しながら書く方なのだが、そこで文法的な一貫性や誤字脱字を直してしまうほうに認知負荷を先立ててしまうせいか、とりあえず書いてしまうということが難しかったりする。今は前の文章にならって、書きうることを一筋に書きつけてしまおうと努力している。今考えたいことは、人様の並走に耐える文章というのは実際に起きた心の動きを順次書くことによってはできないが、深まった考えにそれなりにスムーズに辿り着くための道を歩く心の動きを順次書くということになろう、ということ。もともとentangledなまま立ち止まっている心を書き下すことはできない。

歴史というのは、何か当事者感を持って自分の近くにありうる話としてシミュレーションしながら読まないと、学びにならない。読書も学問も、読み流す、聴き流す嗜みかたもあるだろうが、本当の意味で自分の実践的な、探索的な心が動くように類推しながらその経過や帰結を体験しないと、自分にとって何の意味も残さない。何かの結果をインスタントな知識表象として消費するよりも、状況の経過を感じ取って想定や行動に繋げる身体知になるように学ぶのはなかなか難しい。面白い漫画などを読んでいると、登場人物が何かの手掛かりから実践に繋がる学びを得て上手いこと立ち回っている。そういう漫画の作者さんたちは、上手い学びの帰結の典型というものをわかっている。読者はそれに爽快感を覚えるし、自分だったらそんなにうまく学習できないなと思ったりする。作者側が用意しているすべての手掛かりがすぐに読者に示されるわけではなく、結果として時間を遡ると登場人物があの時点であれを得ていたということが後からわかる。

書くことは、それ自体がある自発的な行動だから、例えば表形式や箇条書きを封印すれば、時系列的にひとりしかいない自分を順次動かしていく試みになる。表や箇条書きは、二次元的に展開したり、枝分かれで自分を暫時分裂させたりする。とりあえず書いてはみても、行き止まりになったり、その先忘れ去られたりするリスクがある。追うのを諦めるなら、認知負荷軽減のために、はっきり諦めると宣言しておくべきだ。伏線というものは、行動しながら、その内実はあるけれどもすべては表に出さずに進行させていく。わからない、Entangledなものを伏線にしておけるとしたら、それが自分が収拾つけられそうなだけの暴れ方で済むとある程度自信を持てているんだろう。書かないことと、伏線にしようとすることは違う。

この投稿では、書くことが苦手な人が、絡まった心を文書化するには、ということを考えることにした。結果、辿りうる筋を一筋辿って歩けるところまで(書くという行動によって)歩いてみることだ、という当たり前っぽい考えに行き着いた。辿れない場合、足が止まってしまうというのは、通るべき場所に足を踏み入れたくなかったりそこの景色を見たくなかったりするのだと思う。そのような状況であったり、地図や感覚のない当惑には、何かに実践的な学びを得て、自分の行動できる世界を広げて、対処を試みるしかない。つまるところ、進むに進めない状況では、書き進むという行動するための学びや思い切りパワーが足りないのであろう。いわゆるコンフォートゾーンを出る必要がある可能性がある。痛くて面倒でしんどくて、勢いに任せず、するだけの理由が見いだせなければ、諦めてしまうのが自然な帰結。

しんどさの軽減には、みんなが言っているように、ひとつの仕事を小さくすることや、モチベーションに頼らないこと(習慣というシステムに委託すること)、とりあえず始めてみることが有効だ。まあ、続けてみようじゃありませんか。


比喩的な世界が安心すぎて、全く具体的な話にならなかった。今度はもうちょっと痛みに踏み込むような文章が読みたいな、自分よ。



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