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あの長い坂道が必要だった
大学を卒業してすぐに自粛生活に陥った私は、ある大切なことを忘れていた
大学生の頃は、(もとい高校生の頃も)登下校時間というものが必ずあった
高校生の頃は、2時間電車・バス・徒歩通学をし、
大学生の頃は、2年間は40分約3キロを歩き、残りの2年間はまたもや電車で2時間の通学をしていた
その通学途中では、ずっと音楽を聴き、ずっと何かを考えたり考えなかったり、人の観察をしたりしなかったりしていた。
それらは私に許された「公的に何もしなくていい時間」だった。
学校に行けば、授業を受けたり友達と話したり、図書館で本を読んだり、とにかく学校について、ずっと音楽聴いてぼーっとするなんてことはできなかった。
家でもしかり、家にいて音楽を聴いてぼーっとする時間は作れるとしても、なんだか罪悪感がある
何かしなければいけないという強迫観念さえもないのがこの通学時間だったのだ
この時間が私にとってどれほど大切だったのか、やっと今知った
この時間が自分にとって想像力を膨らませて、クリエイティビティを助けていたのだと今ならわかる
耳に流れる音楽と流れて行く車窓からの風景、今日の授業のこと、友人の話を振り返り、たまに本を読んで瞑想する
自粛期間では働くこともせずに、とにかくラッキーと思っていたが
これでは本末転倒で
今は全く何も浮かんでこなくなってしまった
大学1・2年生の頃、横浜の大学に通っていた私は大学まで約3キロの道を毎日通っていた
その道はほとんどが緩やかな坂道で、最初は特に大学を恨んだ
「こんな辺鄙な場所に建てやがって本当に」
しかしそんなことさえも感じなくなり、ついには「気づいたら学校にいたわ」というレベルに達した
この3キロ40分、往復6キロの道を特に何も考えずに歩いていたのだ
実際は何か考えていたのだろう
「この音楽は素敵」とか「学校の宿題やってない」とか
でも、ついた頃には何も覚えていないのである
この時間が今は恋しい
今はなんとかして刺激が欲しいので、近所を散歩してみたり
本を読んでみたり映画を観てみたり
でもあの頃のように、ふと見上げた道の先の蜃気楼に夏を感じたり
いつもとは違った道で見つけた花を写真に収めたり
アイフォンに任せて音楽を聞き流して素晴らしいアーティストに出会ったり
そういうことはなくなってしまった
意識せずに何かに出会う時の方が感動が増すのはなぜだろう
持とうと思えばこのような時間は今からでも持てるのに
自粛の手前、電車にさえ乗れない
近所を歩くのにも気が引けて家から出ない選択をしてしまう
でもこれに気づけたのは、自粛生活があったからかもしれない
この時間さえも大事だったのだと今の生活が教えてくれた